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新田智通「大乗の仏の淵源」概要と感想~ブッダの神話化はなかった!?中村元の歴史的ブッダ観への批判とは。『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』より

大乗の仏の淵源
目次

『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』概要と感想~ブッダの神話化はなかった!?中村元の歴史的ブッダ観への批判とは

今回ご紹介するのは2013年に春秋社より発行された『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』所収、新田智通「大乗の仏の淵源」です。

早速この本について見ていきましょう。

大乗仏典における仏とその世界に焦点を当て解説。浄土三部経・維摩経などで説かれる仏と浄土の他、女人往生などを加え幅広く論究。

本巻は、浄土三部経・維摩経・阿〓(しゅく)仏国経・悲華経をとりあげ、大乗仏典で説かれるさまざまな仏の浄土に焦点をあてて、その成立から相互の影響関係、展開について具体的に論究する。

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今作『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』は前作『シリーズ大乗仏教 第四巻 智慧/世界/ことば 大乗仏典Ⅰ』に引き続き大乗仏典についての論考がまとめられています。

特に今作では浄土経典について説かれるということで浄土真宗の僧侶である私にとって非常に興味深いものがありました。

特に第二章の新田智通氏による「大乗の仏の淵源」は衝撃的な内容でした。これは仏教を学ぶ全ての人に読んで頂きたい論文です。

私がまず衝撃を受けたのはこの論文の冒頭で語られる次のような問題提起でした。

戦後日本の仏教学界における、もっとも著名な研究者として名前があげられる人物の一人は、おそらく中村元であろう。彼が多大な功績を残し、インド学・仏教学の発展に大きく貢献したことは疑いようがない。しかし、その偉大さゆえに、彼の主張に対して十分な批判や検証がなされてこなかった面があることも否めない。そして、そうした批判が必要な彼の主張の一つとして、まさにいまここで取りあげたいのが、彼の唱えた人間ゴータマの神格化説である。

春秋社『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』P83

中村元先生といえばこれまで当ブログでも『ブッダのことば』『古代インド』、さらには中村元先生の伝記や多くの『中村元選集』も紹介してきました。

仏教を学ぶ上で中村元先生の著作はまさに避けては通れぬ存在です。私自身も中村元先生の著作に感銘を受け、仏教の学びを続けてきたわけです。

しかし新田智通氏によればそんなあまりに偉大な中村元先生ではありますが「人間ブッダ・歴史的ブッダを探究する」というその見方には限界があるのではないかと問題提起します。

中村元先生はまさに『ゴータマ・ブッダ』という本の中で「神話化されていないブッダ」、つまり「歴史的な人間ブッダ」を探究しました。

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しかし、この「神話化されていないブッダ」という概念そのものが成立しないのであるのならばどうなってしまうのかを新田氏はこの論文で丁寧に解説していきます。

たとえば外薗幸一は、ゴータマを脱神話化しようとする試みについて、「あくまでも相対的な立場から、比較的に史実らしい記事を選び、できるだけ人間らしい姿に近づけるということが可能であるにすぎない」と述べている。また下田正弘は、ロジェ・ポル・ドロワやフィリップ・アーモンドの研究によりながら、十九世紀ヨーロッパの仏教研究において生み出された「気高き哲学者・道徳家としての人間ブッダ」というゴータマ理解は、じつは文献を根拠として歴史学的に導き出されたものではなく、むしろ当時のヨーロッパ人の理想とする人間像をゴータマに付与することによっていたのであると指摘する。そのうえで下田は「オルデンべルグやリス・デイヴィスは歴史的ブッダの存在をア・プリオリに前提しているのであって、現存する資料を根拠としてその存在を立証したのではない」と批判する。

引き続き彼は「現存する文献から歴史的ブッダを再構成する」ことの危険性を鋭く指摘している。それによると、テキストから歴史的仏を抽出しようとする読み手は、テキストに(歴史的事実以上の)はるかに豊富な内容が盛り込まれていても、あるいは仏に関する難解で複雑な内容が説かれていても、それらをすべて捨象してしまうという。つまりその読み手は、テキストを読んでいるのではなく、歴史的仏という観点から、自分に理解可能な形でテキストを改変しているのである。またそこでは「歴史的な人物という枠に合わない、ブッダはブッダではない」ことが最初から前提とされているのだから、テキストに現れる仏がありのまま理解されることもない。つまり歴史的仏の探求は、「仏とは何か」という問いとは異なるものであり、そのもとでは仏の意義が明かされることはなく、むしろ選別され切り捨てられていくのである。

しかもここで強調されるべきことは、歴史的事実の選別基準を設けるうえでいかなる工夫を施したとしても、ゴータマの脱神話化という試みは必ず恣意的なものに終わってしまうということである。いいかえるならば、たとえば平川彰の「純粋に『人間仏陀』の伝記は、現在としては再現不可能である。仏陀の事蹟は、すべて神話的に色づけられているからである」という言葉に端的に表されているように、ゴータマの脱神話化は結局不可能な試みなのである。

春秋社『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』P85-86

「人間ゴータマは時代がくだるにつれて神格化されていった」という、これまで広く漠然と受け入れられてきた仮説は、じつは文献学的根拠を欠いているだけでなく、決定的な論理的矛盾を内包している。しかもその仮説のもとでは、仏の本質についての一貫した理解が見出されることもないのである。

春秋社『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』P89

これまでの仏教学の問題点については以前当ブログでも紹介した『新アジア仏教史02インドⅡ 仏教の形成と展開』やグレゴリー・ショペンの著作『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』などでも説かれていましたが、上の引用もまさにそうした文脈を受けての言葉となっています。

ですが新田氏はここからさらに踏み込んで、「そもそもの始まりからブッダが超人的・神話的存在として人々に信仰されていたこと」を論じていきます。

ここでは長くなるのでその流れはこれ以上は詳しく紹介できませんが、次のように結論づけられます。

結局のところ、初期仏典においてすでに、歴史的仏は個人性を滅し法と一体となった超越的、絶対的存在として理解されていたのであり、そのような彼を形容するものとして、彼に関するさまざまな神話的、奇跡的な記述がなされてきたと考えられるのである。反対に、初期仏典のなかに彼個人に関する歴史的事実の記録はほとんど見出されない。つまりケルンの言葉によるならば、ゴータマは「人間の姿をとりながらも、一人の人間ではない」ということになるのである。

春秋社『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』P92

つまり、「原始仏教で説かれるブッダこそ人間ブッダであり、そこで説かれているものこそ真の仏教であり、それ以後にできた仏教は神話化された偽物である」という批判がそもそも成立しなくなるということがここで明らかとなったのでした。(※もちろん、中村元先生をはじめ多くの学者さんがそのような直接的な批判をしているわけではありません。あくまで一般社会やSNS、ネット上での批判です)

これは日本仏教の僧侶として非常にありがたい提言です。原始仏教至上主義的な批判が今なお飛び交う中でこうした明確な反論が存在するのは私にとっても非常に心強いものとなりました。

最後に、少し長くなりますがこの論文の結論部分を全文引用します。非常に重要な指摘ですのでじっくりと読んでいきます。

五 おわりに

結局のところ、我々は近代的思考の影響を受けていない仏教徒にとってはおそらく至極当たり前の結論にいたったようである。つまり初期仏典に説かれていることをありのまま受け止めるならば、ゴータマという歴史的仏も、他の「神話的」と呼ばれる諸仏と同様、三界を超え、法と一体となった絶対的存在として仏教の興った当初から理解されてきたと考えられるのである。そしてすでに触れたクーマラスワーミーの言葉にあるとおり、ゴータマの個人性は、彼が自らを一体化したところの法によって完全に陰らされてしまった。それゆえ、それについてこんにちの我々が知り得ないのはもちろんのこと、ゴータマ在世時の仏教徒にとっても、彼の個人性について語ることは無意味で思いもよらないことであったに違いない。

確かに「初期仏典」と総称される文献群であっても、それは一朝一夕にまとめられたものではなく、長い発展過程を経てこんにちに伝わる形になったとされている。そしてそのなかでも成立が比較的古いと思われる部分と、より新しいと思われる部分とを比較すると、一般的にいって、前者においては素朴で簡素な表現方法がもちいられているのに対し、後者においてはより技巧に富んだ詳細な記述が見出されたり、より多くの神話的物語が語られていたりするというのも、そのとおりである。そしてそのことは「人間ゴータマの神格化」という仮説に一定のもっともらしさを付与し続けてきた。

あるいはまた、仏滅後の仏教教団においては、ある教義についての理解や戒律の制定などをめぐって意見の対立が生じ、それがいわゆる部派分裂へと発展することもあった。そして分裂した諸部派のあいだでは、意見の分かれる問題についての議論がしばしば繰り広げられたのであるが、そうした問題のなかには、ゴータマという仏の出現をどのように理解すべきか、というものも含まれていた(その議論は、仏の出現が「超現世的、、、、存在による現世内、、、への出現」という逆説的出来事であったということから、なかば必然的に生じたものであったにちがいない)。そのような議論はおもに上座部系の部派と大衆部系の部派とのあいだでおこなわれたのであるが、確かに実際、大衆部のほうがゴータマの超越的側面をより強調する主張をしたため、大衆部に大乗仏教の起源を見出そうとした過去の研究者のなかには、「上座部は基本的にゴータマを一人の人間として理解していたが、大衆部は彼を神格化し、そのさらなる発展形態として大乗の諸仏が生み出されていった」と考えるものもいた。

しかし実際に仏典を紐解いてみると、最初期のものと思われる文献においても、一個人としての「人間ゴータマ」はまったく説かれていないし、また一般的に保守的な見解に立っていたとされる上座部の文献を見ても、すでに言及した幾人かの研究者によって指摘されていたように、そこに描かれているゴータマの姿というのは一貫して神話的、超越的なのである。それゆえ、確かに仏典の成立には歴史性があって、時代がくだるにつれてその内部で新たなターミノロジーや表現方法が生み出されていったにしても、あるいはまた仏の出現をめぐって伝統的な仏教徒のあいだにおいてもいくつかの見解の相違が認められるにしても、仏の本質についての基本的理解は、仏教の始まりからその後のあらゆる多様な展開のなかで一貫して保たれてきたと考えられるのである。

すなわち、ここで「大乗の仏の淵源」という本章のタイトルに立ち返るならば、仏教に登場するさまざまな仏は、一方でそれぞれが説かれる文脈に応じた固有の役割や特徴を持ちつつも、その本質においては、法と一体となったもはや何ものでもない存在として、仏教の始まりから大乗仏教にいたるまで理解されてきたといえる。少なくとも、「人間ゴータマの神格化」という仮説に見られる「相対的存在の絶対者化」というべきような、仏についての根本的な理解の変化は、初期仏教から大乗仏教にいたる過程のなかには認められないのである。

春秋社『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』P98-100

「結局のところ、我々は近代的思考の影響を受けていない仏教徒にとってはおそらく至極当たり前の結論にいたったようである。」

「ゴータマ在世時の仏教徒にとっても、彼の個人性について語ることは無意味で思いもよらないことであったに違いない。」

まさにこれは目から鱗。近代的思考に慣れてしまっている私たちは無意識の内に「私達のものの見方」で仏教を見ようとしてしまっているのです。

当時の仏教徒たちはブッダが歴史的存在なのか神話的存在なのかという問いすら思いも及ばなかった。

これは非常に重要な指摘だと思います。私は浄土真宗の僧侶ですが、その開祖の親鸞聖人も「当時のものの見方」で仏教を見ていたはずです。私達現代人の「ものの見方」とは異なる世界で生きていたはずです。そのことについても改めて考えさせられた読書になりました。

「少なくとも、「人間ゴータマの神格化」という仮説に見られる「相対的存在の絶対者化」というべきような、仏についての根本的な理解の変化は、初期仏教から大乗仏教にいたる過程のなかには認められないのである。」

という最後のまとめの言葉が強烈に私の頭の中に残っています。

「シリーズ大乗仏教」は2010年代初頭当時における最新の研究が反映されています。かつては主流だった仏教理解が今や通用しなくなっているということを肌で感じた作品でした。

もちろん、だからといって中村元先生の研究が全くの間違いで無駄であったということではありません。中村元先生の膨大な研究があったからこそ新たな研究成果が生まれてきたわけです。私はこの論文を読むまでに中村元先生の様々な作品を読んできました。こうして中村元先生の作品を読んできたからこそ新田氏の論文の衝撃たるやものすごいことになったのだと思います。これぞ学びの醍醐味。学べば学ぶほど新たな世界が見えてくる。こんなに刺激的で面白いことはありません。

新田智通氏の衝撃的な論文が収録された『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』は仏教を学ぶ全ての方におすすめしたいとてつもない一冊です。このシリーズの中でも圧倒的に印象に残った作品です。ぜひぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「新田智通「大乗の仏の淵源」~ブッダの神話化はなかった!?中村元の歴史的ブッダ観への批判とは。『シリーズ大乗仏教 第五巻 仏と浄土—大乗仏典Ⅱ』より」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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