『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』~なぜアビダルマや倶舎論は大切なのか。その意義は?おすすめ解説書!

仏教の思想3 アビダルマ インドにおける仏教

櫻部建、上山春平『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』概要と感想~仏教思想の難所がわかりやすく説かれたおすすめ参考書

今回ご紹介するのは1996年に角川書店より発行された櫻部建、上山春平著『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』です。

早速この本について見ていきましょう。

「アビダルマ」とは、ブッダが説いたダルマ=法・真理を解釈し、仕上げられた壮大な思想大系を意味する。インド諸学派のアビダルマ教義の中で、5世紀ころ、仏教史上最大の思想家ヴァスヴァンドゥ(世親)が著した『アビダルマ・コーシャ』を取り上げて、仏教思想の哲学的側面を根源から捉え直す、画期的労作

Amazon商品紹介ページより

本書は仏教思想における難所のひとつ、アビダルマについて解説された参考書になります。

この本は「仏教の思想シリーズ」の第二巻です。このシリーズは仏教思想入門として長らく愛され続けてきたベストセラーで、私が教えを受けている仏教学の先生もこのシリーズを推薦しています。

このシリーズではまず第一部でテーマとなる思想についての概略や解説が述べられ、その後に座談形式でざっくばらんにその思想について各分野の専門家たちが語りあうという独特なスタイルを取る点にその特徴があります。

第一部の解説の時点ですでにわかりやすく、入門書として優れているのですが、そこからの座談によってさらに突っ込んだ議論や質疑応答がなされるのでより深く学ぶことができます。さすがベストセラーとして今でも売れ続けているだけあります。私もこのシリーズはぜひおすすめしたいです。

さて、本書ではアビダルマという、一般読者だけでなく私たち僧侶にとっても巨大な壁となっている存在がテーマとなっています。「アビダルマ=難解、煩瑣」なイメージがすでに出来上がってしまっていますが、このアビダルマという仏教思想が大乗仏教を学ぶ上でもどれだけ大きな意義があるかを本書では知ることになります。

本書について著者の櫻部建氏は序章で次のように述べています。少し長くなりますが重要な問題提起がなされていますのでじっくりと読んでいきます。

アビダルマといい、『倶舎論』といえば、しばしばそれは仏教の煩瑣哲学だと評される。たしかに煩瑣で複雑な教義学がそこには盛られている。かつて諸宗の学林で『倶舎論』を学習した若い僧たちは、戯れにそれを「一部始終ガムツカシイ、三度四度マデ聞イテモミヤレ、ソレデ解セズバヤメシャンセ」と歌った(佐伯旭雅の『倶舎論名所雑記』にみえる)。クシャクシャとこむずかしい議論が続出するから「くしゃ論」というのだ、という冗談もよく聞かれるところである。すぐれたサンスクリット語学者で、『倶舎論』の研究者としても令名の高かった故荻原雲来(一八六九-一九三七)博士は、つまるところ『倶舎論』は「学者の玩弄物がんろうぶつ」にすぎない、と断じられた。

いかにも、『倶舎論』その他のアビダルマ論書をひもといて、そのあまりに形式的であまりに些末な問題にはしった論議に接したり、無数の難解な術語の羅列に悩まされたりすると、おそらく僧院の奥に世の喧噪や苦悩を離れて、ひたすら経典の釈義と教理の研究に没頭したであろうアビダルマ論師たちのこの思想的労作は、われわれにはひどく無意味で非現実的な閑葛藤に思われ、本来すぐれて実践的であったはずの仏教の本旨からはなはだ遠ざかったものに見える。もっとも、論師たちにはやはり論師たちなりの真摯な求道上の苦闘があったのであり、そのことは、論書のうわべを鎧っている繁雑や錯綜に眩惑されずに、その奥にひそむ意味を考察しようとする者には、ありありと看取れるところであるから、アビダルマを単に実践・求道と無関係な空論と断じ去ってしまうのは、酷でもあるし、不当でもあるといわねばならないだろうが。

たた、それはともかくとして、アビダルマのもつもっとはるかに大きな意義は別なところにある。すなわち、歴史上はじめて、ブッダの教えを体系的な思想としてまとめあげたという点に、アビダルマが仏教思想史上たいへん重大な位置を占めるゆえんがあるのである。アーガマは、いろいろな要素を含みはするが、要するにシャカムニ・ブッダの言行録である。したがって多くは断片的なあるいは短編的な教説の集録である。集録され、伝承された個々の教説は、おおむね対話調で、なかにはいかにもこの偉大な人類の教師の面目をまざまざと伝えるような部分もあり、簡明短切な教訓ははなはだ魅力に富むが、たいてい単発的・偶成的あるいは挿話的であってかならずしも体系的でない。そのような非体系的なアーガマ経典の内容から、仏教の基礎的な観念を引き出し、それを組み立てて、壮大な思想的建築物に仕上げたのは、たしかにアビダルマ論師の功績であった。彼らのこの仕事がなかったら、のちの中観説・瑜伽唯識説などの大乗仏教哲学の出現のしかたも、よほど違ったものになっていたであろうと思われる。

とはいってもそれはもちろん、アビダルマの思想がシャカムニ・ブッダの教えのまどかでかたよりのない理解継承、発展であるということではない。しばしば批判されるように、アビダルマには、あまりにもアーガマ経典の語句の端々にとらわれていると思われる点もあり、また伝統的・保守的に過ぎて、あるいは分析的・形式的に過ぎて、思想の清新さ溌溂さを失っていることも認めなければならない。それが、ほとけのことばにとらわれてほとけの精神を笑うな、という大乗仏教の叫びを呼び起こしたゆえんともなったのである。われわれはただ先入観にとらわれず、アビダルマ思想の長所も欠点もありのままに見ていかねばならないと思うし、それがアビダルマ思想の現代にもつ意義を明らかにすることであると思う。

角川書店、櫻部建、上山春平『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』P22-24

「非体系的なアーガマ経典の内容から、仏教の基礎的な観念を引き出し、それを組み立てて、壮大な思想的建築物に仕上げたのは、たしかにアビダルマ論師の功績であった。彼らのこの仕事がなかったら、のちの中観説・瑜伽唯識説などの大乗仏教哲学の出現のしかたも、よほど違ったものになっていたであろうと思われる。」

これは非常に重要な指摘です。アビダルマが無ければ大乗の思想も生まれてこなかったかもしれなかったのです。

そしてもう一人の著者上山春平氏も文庫版の序で次のように述べています。

私がなぜこれほどまでにアビダルマにこだわったのかといえば、たんに私がそれを学んでみたいという思いを強くもっていたから、というだけではなかった。仏教思想は、ブッダに発し、小乗仏教から大乗仏教へと展開するのだが、アビダルマは小乗と大乗の接点に位置する。だから、この接点に立てば、小乗を経てブッダのもともとの思想へさかのぼる道を展望できるばかりではなく、そこから大乗へ通じる道を展望することもできるのではないか。つまり、アビダルマは、ブッダの出現以来千年ばかりのあいだにインドで展開された仏教思想の世界を、最も広い視野でとらえることのできる展望台として役立てることができるのではないか。そう考えたのだ。

角川書店、櫻部建、上山春平『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』P8

なるほど。こう考えてみるとこれまで煩瑣で近寄りがたい存在だったアビダルマが違って見えてきますよね。やはり何を学ぶにしても、なぜそれを学ばなければならないのかがはっきりしないとなかなかモチベーションが上がりません。ですがこうはっきりとアビダルマの意義がわかると、「おぉ、それならやってみる価値あるかも」という気持ちになるというものです。

本編の解説もこうした「なぜアビダルマは重要なのか」「なぜアビダルマの思想が生まれたのか」という視点と共に語られますのでとても興味深く読み進めることができます。もちろん、そうは言ってもアビダルマはアビダルマ。たしかに専門用語も多く難解ではあります。ですがこれまでとは違った感覚でアビダルマについて学ぶことができるおすすめの参考書であることに間違いありません。ぜひぜひおすすめしたい一冊です。

以上、「『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』~なぜアビダルマや倶舎論は大切なのか。その意義は?おすすめ解説書!」でした。

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