ゴーリキーの代表作『どん底』あらすじと感想~どん底に生きる人々の魂の叫び。ソ連前夜を象徴する名作
ゴーリキー『どん底』あらすじ解説~どん底に生きる人々の魂の叫び
『どん底』は1902年にゴーリキーによって書かれた劇作品です。
私が読んだのは岩波文庫、中村白葉訳の『どん底』です。
早速表紙のあらすじを見ていきましょう。
「明けても暮れても牢屋は暗い……逃げはしたいが、えい、やれ!鎖が切れぬ」。舞台にあふれるこの合唱が全体のモティーフであり、戯曲にはツァーリ圧制下、呻吟する民衆をつなぐ鎖の太さ重さがリアルに刻印されている。風に吹き寄せられた落葉のように吹きだまりに集った人々の生きる哀しみを描いたゴーリキイ(1868-1936)の不朽の名作。
岩波文庫、ゴーリキー、中村白葉訳『どん底』表紙
表紙のこのあらすじだけでもうっすら感じられますが、この作品もチェーホフ劇と同じようにわかりやすい波乱万丈な筋書きはありません。しかし、この作品も何とも言えない余韻といいますか、セリフのパワーが感じられます。この作品について巻末の解説が非常にわかりやすかったのでこれより引用します。
『どん底』!これは、いうまでもなく、全世界の近代劇中、声価・質量ともに珠玉と呼ばれるチェーホフの諸作とゆうに肩をならべることのできる不朽の名作である。やはりチェーホフとの関係で、この名作初演の名誉も、モスクワの芸術座に帰するものであるが、その後今日まで世界各国で上演された数は、しんに何百回だかわからないくらいである。(中略)
今や、わが読書界では、ゴーリキイの『どん底』か、『どん底』のゴーリキイかと言われるまでに、作者の名とともに広く親しまれている
岩波文庫、ゴーリキー、中村白葉訳『どん底』P161-162
チェーホフについてはこれまで当ブログでも紹介してきましたが、彼の劇はロシア演劇界に革命をもたらし、爆発的な成功を収めることになりました。ゴーリキーも彼の演劇『ワーニャ伯父さん』を観て、感動のあまり号泣したと言われています。
ゴーリキーはチェーホフと個人的にも親しかったので『どん底』の内容にもチェーホフの影響があったようです。解説でも次のように述べられています。
前にちょっと書いたとおり、ゴーリキイはチェーホフの示唆と慫慂とによって劇作の筆を取りはじめたので、当時『鷗』、『伯父ワーニャ』等の名作によって新しい劇壇を風靡し、モスクワの芸術座をもチェーホフの劇場と呼ばせたほどに盛名のあったこの先輩の影響を、すくなからず、その劇作にあたってゴーリキイが受けたということは、まことに自然の数としなければなるまい。
そして、この影響による模倣は、『どん底』におけるかぎりにおいて、異常な成功をおさめたものということができよう。劇作の方面におけるゴーリキイの創作的活動ががいして失敗に終わったといわれるなかにあって、戯曲家ゴーリキイの名を万代に光輝あらしめたものは、じつにこの『どん底』一編である。
けだし、前にも述べたとおり、その題材がもっとも板についたこの作者独特のものであって、作者と作品との間に一分のすきもなかったこと、これがもっとも大きな力であったと思われる。
作そのものの密度においては、チェーホフに一籌を輸する点は否みがたいが、個々の人物の描写も完璧にちかく、陰惨とのんきの仲よく同居しているような地下室の雰囲気を描いて人生永遠の姿をほうふつせしめるあたり、惻々として人に迫る哀感は、その感銘をすぐれた音楽の域にまで高調させている。
そこには、死がある、恋がある、殺人がある、縊死がある、温情、かっとう、排擠、嫉妬、猜忌、奸策、譎詐等、あらゆる人生の要素があり、劇としての構成にも、間然するところないわけである。
ただ『どん底』には筋がない、また主人公もない。在来のいわゆるお芝居とその趣きを異にすること、これまた、チェーホフの諸作と軌を一にしている。
かくて、『どん底』の一般読者にとっての興味は、作中人物の境涯こそ特殊のものであれ、万人に共通した、深い深い、くめどもつきぬ人生の味わいであって、また本編の不朽の強みも、一にかかってここにあるのだと、私などは考えるのである。
岩波文庫、ゴーリキー、中村白葉訳『どん底』P166-167
※一部改行しました
この作品は劇作品です。しかもこの解説に述べられているようにチェーホフと同じくわかりやすい筋もありません。そのため本としてこれを読んでもなかなかその流れを掴むのが難しいです。私も一度読んだだけではわからず、何度も読み返しました。
この作品もチェーホフと同じく、演劇として舞台で観るときっとものすごいインパクトがあるのだと思います。
この作品はかなりパワーがあります。チェーホフは静かな雰囲気の劇ですが、ゴーリキーはどん底にいる人たちの魂の叫びを表現します。言葉のパワーがものすごいです。本で読むだけでこれですから舞台で聞いたらこれはものすごいものなのではないでしょうか。せっかくなのでいくつかここに紹介します。
真実とはなんだ?どこにあるんだ?(両手で身につけたぼろをひきむしる。)そら―これが真実だ!仕事がねえ……力がねえ!これが真実だ!身の置き場……身の置き場がねえ!のたれ死にでもするほかねえ……これがその真実だ!悪魔め!そんなものがおれにとってなんになる―そ、そんな真実がよ!それより、すこし息をつかせてくれ……休ませてくれ!いったい、おれになんの罪があるんだ?……なんのためにおれにこんな真実がいるんだ?おれは生きていられねえんだ―畜生め―生きていられねえんだよ……これがその真実だ!……
岩波文庫、ゴーリキー、中村白葉訳『どん底』P103
だって、どうすりゃいいんだ?……生きてかなくちゃならねえ……(声高く。)せめて身の置き場ぐらいはなくちゃ……どうだ?それがないんだ……なんにもないんだ!一人ぼっちだ、たった一人だ、あるのは……このからだひとつだ……助けはないんだ……
岩波文庫、ゴーリキー、中村白葉訳『どん底』P125
人間は、信心することもできりゃ、信心しねえでいられら……銘々のご勝手しだいだ!人間は自由だ……なにごとにしろ、自分で勘定をつけていくんだ―信心にしろ、不信心にしろ、色恋にしろ、知恵にしろだ。人間は、なにごとにも自分で勘定をつけていく、だから、人間は自由なんだ!……人間―これは真実だ!人間とはいってえなんだ?……それはお前でもねえ、おれでもねえ、奴等でもねえ……みんなちがう!それは、お前も、おれも、やつらも、爺さんも、ナポレオンも、マホメットも……みんな一緒にしたものだ!(指で空に人間の形を描く。)わかったか?それほどえらく大きなもんだ!その中には、すべての初めと終わりとがあるんだ、すべては人間の中にあるんだ!すべては人間のためにあるんだ!この世に存在しているのはただ人間だけで、そのほかのものはいっさい―人間の腕と頭の仕事だ!にいんげえん!どうだ―てえしたものじゃねえか!じっさい豪勢なひびきがするじゃねえか!にいんげえん!人間は尊敬しなくちゃならねえよ!憐れむべきものじゃねえ……憐れんだりして安っぽくしちゃならねえ……尊敬しなくちゃならねえんだ!さあ、ひとつ人間のために飲もうじゃねえか、男爵!(立ち上がる)。なんだな―自分を人間だと感じること、こいつはじつにいいものじゃねえか!おれは―前科者だ、人殺しだ、いかさま師だ―そうよ!おれが街路を通ると、―みんながおれの方を、かたりでも見るようにじろじろ見て……よけて通っちゃ、振りかえって見やがる……そうしちゃ、よくおれに向かって―ろくでなしめ!山師め!働け!なんてぬかしやがる。働け?なんのために?胃の腑を一ぺえにするためにか?(哄笑する。)おれはな、腹一ぺえ食うことばかりにあくせくしてやがる人間は、いつも軽麗しているんだ。大切ななそんなことじゃねえやい、なあ男爵!そんなこたなんでもねえんだ!人間はもっと上のものなんだ!人間はふくれた胃袋なんかよりずっと高尚なものなんだ!
岩波文庫、ゴーリキー、中村白葉訳『どん底』P150
上に紹介した3つの言葉の中でも、最後のは特に強烈ですよね。しかもこれを言ったのが高徳の士でもなく偉い人間でもなく、虐げられ、最底辺の世界で生き、罪を犯した人間の口から述べられるというところにその重みがあります。
最後の「おれはな、腹一ぺえ食うことばかりにあくせくしてやがる人間は、いつも軽麗しているんだ。大切ななそんなことじゃねえやい、なあ男爵!そんなこたなんでもねえんだ!人間はもっと上のものなんだ!人間はふくれた胃袋なんかよりずっと高尚なものなんだ!」という言葉はフランス人作家エミール・ゾラの『パリの胃袋』の「まっとうな奴らというのは、なんて悪党なんだ!」という名台詞を連想させます。
『パリの胃袋』ではそれこそ「腹一ぺえ食うことばかりにあくせくしてやがる人間」を描いた物語です。ゾラはこうした人間たちの自己満足や虐げられた人への無関心に対して「まっとうな奴らというのは、なんて悪党なんだ!」という言葉を残したのです。
『どん底』にはそれこそどうしようもない底辺を生きる人たちの姿が描かれています。彼らだって好き好んでこうした生活をしているわけではありません。彼らだって「人間らしい」生活をしたいと願っています。しかし、どうしても抜け出すことができない。働こうにもまともな仕事はない。金もない。
そうした人びとに対するゴーリキーの思いがこの作品では描かれています。
ぜひ演劇でも観てみたい作品です。
以上、「ゴーリキーの代表作『どん底』あらすじ解説~どん底に生きる人々の魂の叫び」でした。
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