(66)マリユス、エポニーヌと知り合いになる。だが、その印象は・・・

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(66)マリユス、エポニーヌと知り合いになる。だが、その印象は・・・
第三部 マリユス 第八章 腹黒い貧乏人 ⑵
ある日の朝、マリユスの部屋を訪れてきた謎の娘。彼女こそ何を隠そう、エポニーヌになります。
ただ、この時点ではまだ名前は明かされておらず、当然マリユスも彼女が誰だか知りません。マリユスにとっては「知らない貧相な娘が突然やって来た」という印象以外はなかったことでしょう。
そしてここで彼女の容姿がユゴーによって語られるのでありますが、ミュージカル版の天使エポニーヌに慣れた私達にとってはかなり衝撃的な描写となっています。
ごく若い娘が、半ばひらいたドアのところに立っていた。ドアの真正面にある屋根裏の明り取り窓が、青白い光でその顔を照らしていた。色の悪い、ひよわそうな、骨ばった女で、シュミーズにスカートといった格好、むき出しの体が寒さにふるえていた。ベルトがわりに紐を結び、髪もリボンのかわりに紐で結え、とがった肩がシュミーズから突き出していた。顔は青白くてリンパ体質らしく、鎖骨のあたりは土色で、手は赤ちゃけ、口はしまりがなく、下品で、歯も欠けていた。どんよりした目はずうずうしそうで、いやらしく、体つきは未熟な娘のくせに、目つきはくずれた老婆みたいだった。十五歳と五十歳がまじり合っていた。弱々しそうで気味が悪く、同情の涙を流させるか、それともぞっとして身ぶるいをさせるか、どっちつかずの人間だった。
マリユスは立ち上がって、夢に出てくるお化けそっくりの姿を、呆気にとられてながめていた。
ことにいたましいのは、その娘は生れつきみにくいわけではないらしいことだった。幼いときにはきれいだったのにちがいない。年ごろの可愛らしさが、身持ちの悪さと貧しさからくるみにくい早老と、今でも戦っていた。消えかかった美しさが、十六歳の顔にかすかにただよい、冬の日の明け方、不気味な雲の影に消えていく、薄れ陽の光を思わせた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P291-292
いかがでしょうか。エポニーヌがこんなに醜い姿をしていたというのはなかなか信じられないですよね。マリユスもそんな彼女を「お化けそっくり」だと感じてしまっています。たしかに、これではロマンスも始まりようがありません。
そしてこの娘が生まれつき醜いわけではなく、貧困によってこうなってしまったことをユゴーは語っていますが、これぞまさに読者にエポニーヌの存在を匂わせる効果を果たしています。第一部で見てきましたように、実際、テナルディエのおかみさんは娘をたいそう可愛がっていました。その過去をユゴーはここでさりげなく書きこんだのです。この連載では便宜上この娘をエポニーヌとして呼んでいますが、マリユスがその名を知るのはずっと後のことであることは補足したいと思います。
さて、こうしてお化けのような娘を見たマリユスでありましたが、ふと彼女が初対面ではないことに思い当たります。ただ、どこで会ったかまでは思い出せないという何とも歯がゆい状況です。
そんなマリユスに対し、彼女は一通の手紙を差し出しました。そしてここに書かれている文面を見てマリユスはこの謎の娘の訪問の意味を理解します。せっかくですのでその手紙を私達も読んでいくことにしましょう。
親切なお隣の若い方!
六カ月前、ご親切に私どもの家賃をお払いくださったと聞いております。心からおん礼申上げます。長女から申上げるはずですが、わたしども一家四人の者は、二日マエから一片のパンさえなく、そのうえ家内は病気です。もしわたしの思いチガイでなければ、寛仁なお心から、こうした事情にご同情くださり、いくらかのお情けをかける気持になられるはずだと信じます。
人情の厚い恩人にささげるべき心からの敬意を表します。
ジョンドレット
追伸ー親愛なマリエスさま、娘はあなたさまのお指図お待ちいたします。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P293
マリユスはこれを読み、あの小包に入っていた手紙と筆跡が同じことにすぐに気づきました。そして紙も、文体も、誤字脱字もタバコの匂いも全部同じです。つまり、あの四通の手紙は全て隣人のジョンドレットによるものだったのです。
すべての事情がはっきりした。隣のジョンドレットは、生活に困って、慈善家の情けにつけこむことを商売にしていたのだ。いろんな人の住所を知り出して、金持で慈悲深そうな人たちに、偽名で手紙を書き、娘たちに持たせてやる。それは娘たちにとって危険なことなのだが、この父親は、娘たちをそんな危険にさらさなくてはならない羽目に追いつめられていた。運命を相手に賭をして、娘たちをそれに賭けていたのだ。マリユスは昨日のことがわかった。娘たちが逃げながら息を切らせ、おびえていた様子と、彼が耳にした隠語から察すると、おそらくこの不幸な娘たちは、ほかにも何かうしろ暗い仕事をしているのにちがいない。すべてを考え合わすと、この二人は、現在の人間社会のただなかに生きる、子供でも、娘でも、女でもない不幸な人間であり、貧しさが生み出した、不潔だが罪のない怪物のようなものだった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P295
ああ、エポニーヌ・・・。あの天使のようなエポニーヌが、原作では「不潔だが罪のない怪物のようなもの」として登場してくる・・・。
ミュージカルに慣れた私達にとってはかなり気の滅入る展開であります。
そしてそれはマリユスも同じようで、彼女を驚きと悲しみの目で見つめることしかできませんでした。
娘は、マリユスが驚きと悲しみの目で見つめている間も、幽霊のように臆面もなく屋根裏部屋を歩きまわっていた。肌もあらわなことも気にせずに、動きまわった。ときどき着くずれた破れたシュミーズが、腰紐のあたりまでずり落ちた。椅子を動かしたり、戸棚の上の化粧道具をかきまわしたり、マリユスの服にさわったり、部屋の隅々まで、あさって歩いた。
「あら」と彼女は言った。「鏡を持ってるのね!」そばに誰もいないかのように、きれぎれの歌や、馬鹿げたルフランを口ずさんだが、喉にからんだしゃがれ声は、哀れっぽい感じだった。そのずうずうしさの底には、何かぎごちなく、落着かない、卑下した様子がひそんでいた。厚顔は一種の羞恥である。
彼女が、まるで日の光におびえたか、羽根を折られたかした鳥みたいに、部屋の中をはねまわり、いわば飛びまわるのを見るほど憂鬱なことはなかった。違った教育を受け、違った運命のもとに育っていれば、この若い娘のはしゃいだ無遠慮な態度も、何か優しい魅力が感じられただろう。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P295-296
エポニーヌはきっと、この時本当にはしゃいでいたのでしょう。マリユスという、美男子でありながら知的で風格あるその青年の近くにいれることを彼女は本当に楽しんでいたのです。ただ、その無邪気なはしゃぎぶりが貧困によって下品になってしまったということなのです・・・。
そして、マリユスは知りませんでしたが、彼女は隣人であるマリユスのことをすでに知っていました。ぼんやり屋かつ、コゼットにしか興味のないマリユスには隣人のことなど全く目に入っていませんでしたが、やはり普通に暮らしていれば隣人の姿を見る機会というのはあったはずです。マリユスが覚えていないだけで、実はすでに二人は会っていたのです。だからこそエポニーヌはこんなにもマリユスになつき、憧れていたのです。
そしてふとこう漏らしてしまいます。
「マリユスさん、あなたは自分がとてもいい男だということをご存じで?」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P299
エポニーヌは微笑みましたが、堅物マリユスはやはりだめですね、赤面してしまいます。そして話を変えようと例の小包を彼女に返します。これには彼女も大喜びでした。
そしてその小包の中の一通を開き、ふと何かを思い出したようでした。
「おや」と彼女は言った。「ミサへ行くお爺さんに渡す手紙だわ。ちょうど時間ね。とどけてこようっと。朝飯代ぐらいくれるかもしれない!」
それから、笑いだして、こうつけ加えた。
「今朝、朝飯が食べられたら、わたしたちにとってどういうことになるか、わかる?一昨日の朝飯と夕飯、昨日の朝飯と夕飯を、みんな一度に今朝食べることになるのよ。ふん、まるで、犬だわ。それがいやなら、死んだらいいってわけ!」
その言葉で、マリユスは、この哀れな娘が何用でここに来たのか、思い出した。彼はチョッキを探ったが、何もなかった。娘はしゃべりつづけた。そばにマリユスがいるのも忘れてしまったかのようだった。
「わたし、よく晩に出かけるの。帰ってこないこともあるわ。ここに来るまで、去年の冬は、わたしたち橋の下に住んでいた。凍え死にしないように、みんな体を寄せ合ってたわ。妹が泣くの。水って、いやね。飛び込みたくなると、駄目、冷たいわって、自分に言いきかしたの。出かけたくなったら、一人で行くの。何遍も、溝の中に寝たわ。夜、大通りを歩いてると、木が絞首台みたいに見えたり、大きな黒い家がノートル・ダムの塔みたいに見えたり、白い壁を川とまちがえて、おや、あそこに水があるなんて思ったりするわ。星はイルミネーションの豆ランプみたいで、煙が出たり、風に吹き消されたりするみたいだわ。馬の鼻息が耳に吹きこまれたような気がして、びっくりしたり、夜だというのに、手まわしオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、なんだかわからない音が聞えてくるの。石をぶつけられたような気がして、夢中で逃げ出すの。何かがみんな、ぐるぐる、ぐるぐる、まわりだすの。何も食べてないときって、とても変なものよ」
そして彼女は、とまどったようにマリユスを見つめた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P301-302
もしかすると、ミュージカルにおけるエポニーヌの名曲『On my own』はこの箇所が大きな役割を果たしていたのかもしれません。
と言いますのも、この曲ではエポニーヌの空想的な独白が歌われるのでありますが、そうした彼女の空想的な性格がこの箇所に現れているように思えるのです。そしてその性格を基に、彼女の切ない恋を歌ったこの曲が生まれた、そうな風に思えてしまいます。私もこの曲は大好きです。レミゼの根幹である楽曲であることは間違いないでしょう。この曲については、後の記事で改めて考えていきたいと思います。
では、引き続きマリユスとエポニーヌのやりとりを見ていきましょう。
マリユスはほうぼうのポケットを探って、やっと五フランと十六スー集めた。今のところ、有り金はそれで全部だった。
「これで今夜の夕飯は食べられる」と彼は考えた。「明日は明日のことだ」
十六スー残して、娘に五フランやった。
彼女はその貨幣をつかんだ。
「しめ、しめ!」と彼女は言った。「お日さまが出たわ!」
そして、その日の光が、彼女の頭につまっていた隠語の雪を溶かして、雪崩を起す力でもあったかのように、彼女はまくしたてた。
「五フラン光ってる!王さま銀貨!こんなあばら家でね!すげえな!いいひとね、あんた。心わくわくだわ。万歳、きょうでえ二日間、おみきに、ししに、ソップと、たらふく食べられる!ご馳走を!」
彼女はシュミーズを肩に引上げると、マリユスに向って、丁寧なお辞儀をした。それから、なれなれしく手で合図して、こう言いながら、ドアの方に進んだ。
「さよなら。やっぱり、お爺さんに会ってくるわ」
出がけに彼女は、戸棚の上に、ひからびたパンの皮が、埃をかぶってかびているのを見つけた。それに飛びついて、かじりながら、もぐもぐ言った。
「おいしい!堅い!歯が欠けそうだ!」
そして出て行った。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P302-303
マリユス、やはり彼は優しいのです。今回もなけなしのお金を彼女に渡しています。
そして注意したいのは、この時エポニーヌが何の躊躇もなくお金を受け取っている点です。後に彼女はマリユスからお金をもらうのを拒否しますが、この段階ではまだ彼女は恋していないということになるのでしょうか。いずれにせよ、この時はお金を受け取ったというのは注意したいポイントです。
そしてこの時マリユスが16スー残してお金を全部あげてしまったというのも後の展開に効いてくることになります。ユゴーは至る所に伏線を張りますが、これもまさにそのひとつです。これも頭の片隅に入れておきましょう。
さて、こうして謎の娘の突然の訪問が終わったのでありますが、マリユスはすっかり打ちのめされてしまいます。
マリユスはこの五年間、貧乏と困苦と窮迫の中に暮してきた。だが彼は、まだ真の悲惨を知らなかったことに気がついた。真の悲惨を今目のあたりに見たのである。彼の眼前を通りすぎたあの悪霊のような女が、それであった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P303
また、ユゴーはこうも記しています。
あの若い娘は、マリユスにとって、地獄から来た使者のようなものだった。暗黒の恐ろしい一面をあばいて見せたのだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P305
マリユスにとってエポニーヌは天使どころか「悪霊」であり「地獄から来た使者」だったのです。これでは恋も始まるわけがありません。
これがマリユスとエポニーヌの出会いでありました。何度も言いますが、ミュージカルに慣れた私達にとって今回の箇所はかなりショッキングな内容です。
ですが、ご安心ください。やはりエポニーヌには天使的な一面がちゃんと残っています。この後の物語でそれを見ることができますのでぜひお楽しみに。
続く
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