(18)生涯『ヨブ記』を愛読していたドストエフスキー~真実はウグイの中にゃありませんぜ!

「カラマーゾフを読む」(18)生涯『ヨブ記』を愛読していたドストエフスキー~真実はウグイの中にゃありませんぜ!
第二編 場違いな会合 八 恥さらしな騒ぎ
この章の冒頭、注目すべきことがさらっと書かれています。
これまで私はミウーソフを西欧かぶれの残念な人間としてお伝えしてきましたが、彼に謝らなければならないかもしれません。実際のところ、彼は根は上品でデリケートな人間だったのです。
フョードルが去ってしまった今、彼はすっかり落ち着きを取り戻し、修道院とも仲良くしようとすら思い始めていました。
そして長口舌をしている内にさらに気分もよくなり、「彼は再び人類を心からまじめに愛していた」のでありました。
この人類愛もさすがですね。皆さんもホフラコワ夫人の高慢な人類愛を覚えておいででしょうか。人類を愛すれば愛するほど個々の人間への愛が薄れていくという、あの愛です。
このミウーソフの人類愛もそんな類のものである匂いがぷんぷんします。何かきっかけがあればすぐにどこかに行ってしまうような愛です。
そして事実、その愛は呆気なく消え去り、またもや小物ぶりを発揮してしまいます。やはりミウーソフはミウーソフでした。
では、そのきっかけは?
そうです。帰ったはずのフョードルが再びそこに現れたのです。
ここから炸裂するフョードルの道化ぶりは絶品です。心して堪能しましょう。第二編のラストを飾るド派手な大立ち回りです。
そしてドストエフスキーによるその心理分析もたまりません。「こんな男がなぜ生きているんだ」というほどの道化の内面を見透かすドストエフスキー。「なるほど、だからこの男は道化を演じているのか」と思わず納得してしまう見事な心理分析です。
しかもそうした道化的な言葉の中に、いつものごとく鋭い刃を仕込むのもドストエフスキー流。ぜひそれもしっかり堪能したいところです。
神父さん、わたしゃ嘘がきらいでね、真実がほしいんですよ!しかし、真実はウグイの中にゃありませんぜ、わたしが言ったのもそこでさあ!ね、神父さんたち、あんた方はなぜ精進をなさるんです?どうして、それに対するご褒美を天国に期待してるんです?そんなご褒美にありつけるんなら、わたしだって精進しまさあね!だめですよ、尊いお坊さん、修道院なんぞにひっこもって据膳をいただきながら、天国でのご褒美を期待していたりせずに、この人生で徳をつんで、社会に益をもたらすことですな、そのほうがずっとむずかしいんだから。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P217
「真実はウグイの中にゃありませんぜ」
なんてパワーワードでしょう!
そして精進することを「天国でのご褒美を期待してなんだ」と当てこすりましたが、これもある意味ものすごく痛烈な真理ですよね。あながち間違いとは言えないから恐ろしい。これはこの修道院だけでなく、全世界のあらゆる宗教に対しての言葉でもあります。
やはりドストエフスキーという人は恐ろしいお方です。彼自身は信仰を持っています。しかしその信仰は恐るべき自己内省と論理的格闘を経たものでありました。つまり、信仰におけるあらゆる批判を想定し、それに答えられなければ絶対的な信仰には至れぬという潔癖なほどの求道がそこにはあるのです。これが後の「大審問官」の章にもつながってきます。
ここではフョードルによって「ウグイと天国でのご褒美」と道化的に語られはしましたが、これを極めて大真面目に悩んでいたのがイワンでもあるわけです。「天国でのご褒美を期待しない」、つまり「見返りを求めぬ究極の信仰とは何か、そして信仰はそれに値するものなのか。もし値する価値もなく、そもそも神もないならば・・・」と悩んでいたのです。
これぞ信仰における究極の問題であるのですが、『カラマーゾフ』にはやはり聖書のモチーフが色濃く反映されています。特に、この箇所においては旧約聖書の『ヨブ記』が大きなヒントとなるでしょう。見返りを求めない信仰とは何か、信仰しても現世で悲惨な目に遭ってしまうことに対しどう考えるべきかを説いたものが『ヨブ記』になります。
ドストエフスキーは生涯『ヨブ記』を愛読していました。
特に、『カラマーゾフ』執筆の少し前の1875年のドイツ、バート・エムス滞在の折にも「ヨブ記を読んでいるが、この書はわたしに病的な感激をよび起こすのだ。(中略)この本はアーニャ、不思議な話だが、わたしの生涯で深い感銘を受けた最初の書物の一つだ(6月10日付)」とアンナ夫人への手紙に書いています。それほどドストフスキーにとって『ヨブ記』という存在は巨大なものだったのです。

日本人にとってこの作品が難しく感じられるのもこうした聖書を中心とした宗教思想が色濃く説かれているからだと思われます。
フョードルの突飛な道化っぷりに惑わされがちですが、実はその言葉の中にずばり本質を突くような問いが散りばめられているのも『カラマーゾフ』の見事な点です。そして道化に真理を語らせるところに『リア王』的なものを感じてしまいます。やはりドストエフスキーはシェイクスピア的なのだと思わずにはいれません。
そしていよいよこの第二編も幕引きとなるのですが、僧院からの撤退時、イワンが不機嫌だったことは注目に値します。
やはりイワンは真面目な気持ちでこの修道院に来ていたのです。すでに「(14)「神がいないならば、善もない」つまり、何をしても「罪と罰」はない・・・」の記事でも見ましたが、イワンはゾシマ長老に対し厳粛なまでの対応をしています。アリョーシャの予想に反し、イワンは実に誠実にゾシマと向き合ったのです。その厳粛な場をぶち壊した父親に、さすがのイワンも腹が立ったのでしょう。あるいはゾシマと話したことで自分の中で何かが起きていることを感じ始めていたのかもしれません。
ですがドストエフスキーはそれを明かしません。あくまで、彼の外面的な不機嫌さだけをここに記しています。
ドストエフスキーにはこういうところがあるのです!やろうと思えばいくらでも心理分析をやってのけるのですが、肝心なところであえて何も語らない!ここに私たち読者が「ああでもないこうでもない」と想像する余地が生まれ、物語が自然と膨らんでいくのです。
さすがドストエフスキー。これぞ匠の技。
これにて第二編の終幕です。
続く
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