(11)愛する我が子を失った母親を慰めるゾシマ長老の言葉に胸打たれる・・・!

「カラマーゾフを読む」(11)愛する我が子を失った母親を慰めるゾシマ長老の言葉に胸打たれる・・・!
第二編 場違いな会合 三 信者の農婦たち ⑵
前回の記事「(10)『カラマーゾフ』執筆直前に亡くなった最愛の息子アリョーシャ。ドストエフスキーの実体験がこの小説には込められている」では子供を失った母親の悲痛な嘆きのエピソードがドストエフスキーの実体験であることをお話ししました。
そしてこの母親の嘆きとそれに対するゾシマ長老の対話は私にとってあまりに胸に刺さるものがありました。前回の記事では記事の分量上語りきることができなかったので今回はイレギュラーではありますが、この章について引き続きお話ししていきたいと思います。
さて、愛する我が子を失って悲しむ母親に対し、ゾシマ長老はまず「いいかね、お母さん、お前さんの子供もきっと今ごろは神さまの前に立って、喜んだり、楽しんだりして、お前さんのことを神さまに祈ってくれているにちがいないよ。それだから、泣いたりせず、喜んでやりなさい」と諭します。
しかしこのゾシマの言葉に対して母親はこう答えます。
ニキートゥシカ(※この母親の夫。ブログ筆者注)もそっくり同じようにわたしを慰めてくれました。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P115
なんと、彼女の夫もゾシマと同じように彼女を諭していたのです。しかも、泣きながら・・・。
ですがそんな夫に対し彼女はこう言い返します。
ニキートゥシカ、それはわたしだって知っているわよ、神さまのおそばでないとしたら、あの子はほかに居場所がないってことくらい。ただ、ここに、今わたしたちといっしょに、あの子はいないのよ。前にはわたしたちの横にこうやって坐っていてくれたのに!
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P115-116
そうなのです。彼女自身、我が子が神さまの下にいるから喜ばなければならないということはわかっているのです。ですが、わかってはいるけれども、一目でいいからもう一度会いたいのです。その一心なのです。あの子が天国にいるのはわかっている!でも、今となってはここであの子に会うことも、声を聞くこともできない!それがどうしても悲しくてたまらないのです。
ゾシマ長老はそんな彼女の嘆きを受けとめこう続けます。
「お前さん方、母親には、この地上にそうした限界が設けられているのだよ。だから慰めを求めてはいけない。慰めを求める必要はない。慰めを求めずに、泣くことだ。ただ、泣くときにはそのたびに、息子が今では天使の一人で、あの世からお前さんを見つめ、眺めておって、お前さんの涙を見て喜び、神さまにそれを指さして教えておることを、必ず思いだすのですよ。母親のそうした深い嘆きは、この先も永いこと消えないだろうが、しまいにはそれが静かな喜びに変ってゆき、お前さんの苦い涙が、罪を清めてくれる静かな感動と心の浄化の涙となってくれることだろう。
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P117
「慰めを求めてはいけない。慰めを求める必要はない。慰めを求めずに、泣くことだ。」
ゾシマ長老とはこういう言葉が自然と出てくるお人なのです。
そして上の言葉に続けてこうしたやりとりが行われます。
「ところで、お前さんの子供の冥福を祈って法要をして進ぜよう、何て名前だったのかね?」
「アレクセイでございます、長老さま」
「立派な名前だ。神の人アレクセイにあやかったのかね?」
「はい、長老さま、神の人アレクセイのお名前でございます、神の人の」
「立派な神の人だ!供養して進ぜよう、お母さん、供養して進ぜるとも。お祈りの中でお前さんの悲しみにも触れてあげようし、旦那さんの健康も祈って進ぜよう。ただし、旦那さんを置き去りにするのは罪深いことだよ。すぐに帰って、大事にしてあげるんだね。お前さんが父親を棄てたのを子供があの世から見たら、お前さんたちのことを思って泣くことだろう。どうして、子供の幸せを乱すような真似をするのだね?だって子供さんは生きておるのだよ、生きておるとも。子供さんの魂は永遠に生きつづけ、家にこそいなくとも、目に見えぬ姿でお前さんたちのそばにおるのだからの。お前さんがわが家を憎んでいるなどと言えば、子供はどうして家に戻ってこられよう?ふた親がいっしょのところを見られなかったら、いったいだれのところに戻ってくればよいのだね?今お前さんは子供を夢に見て、苦しんでいるけれど、そうなれば子供さんだって安らかな眠りを送ってくれるだろうよ。旦那さんのところに行っておやり、今日にでも行ってやるんだね。」
新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P117-118
長くなってしまいましたが、あまりに見事な励ましだったのでここに引用しました。
ゾシマの優しさがここに詰まっています。
まず、ゾシマは母親の心が落ち着いてきた頃合いを見計らって亡くなった子の名前を聞き、供養して進ぜようと母親に語ります。最初から「供養して進ぜよう」と言ってもダメなのです。母親が長老の言葉を受け入れられる状況になるまで待ち、その上でこう語りかけたのです。
尊敬する長老によって祈られることがどれほど母親の慰めとなるでしょう!しかもやり場のない母親の悲しみも汲み取り、それすらも祈りに込めてくれるというのです。
さらに、ゾシマ長老はこの母親に新たな生きる目標も与えました。それが同じように苦しんでいる旦那を大切にせよということです。この母親は子を亡くしたショックで何もかも棄てる覚悟でここに来ていました。つい先ほどまで「夫のことなどもうどうでもよい」とまで語っていたほどでした。
それをゾシマは戒め、身近な人を愛しなさいと諭しました。旦那さんだってあなたと同じように苦しんでいるはず。子供のためにも彼を大切にしてあげなさいと優しく諭すのです。
これによって、子を失うという絶望しかなかった彼女の人生に新たな光が差し込んだのです。
さらに私が感銘を受けずにはいれないのが、「子供さんは生きておるのだよ、生きておるとも。子供さんの魂は永遠に生きつづけ、家にこそいなくとも、目に見えぬ姿でお前さんたちのそばにおるのだからの」という言葉です。
私は浄土真宗の僧侶です。浄土真宗では私たち人間は死後お浄土へ行くと考えられています。
ロシア正教のゾシマの教えと浄土真宗の教えは当然異なりますが、私にはこの章で語られるゾシマの言葉に親近感を抱かずにはいられません。
そして死後私たちは再会できるのかという問題もこのやりとりで想起されますし、そもそも死別とはどういうことなのかということも考えさせられます。
ここは子供の死をめぐる素朴なやりとりのように見えるかもしれませんが、実に本質的な問題を突いていると私には思えます。
ただ、深遠なキリスト教学的な観点から言えばゾシマの回答はあまりに素朴で、民衆に寄りすぎているのではないかという批判がなされるかもしれません。事実、この小説内でもそうしたゾシマのあり方に批判的な修道士が多々出てきます。
ですが、それがどうしたというのでしょう。私は最近特にそう思うようになってきました。私は2019年から2023年春までドストエフスキー研究を、そしてそこからインド、スリランカ、中国、日本仏教の研究を進めてきました。
これら年代も地域も異なる仏教を見てきて、やはり色々と思うことがありました。
仏教もアビダルマや空、唯識など、飛び抜けて高度な思想体系を持っています。そうした深遠な仏教哲学からすれば、「お浄土でお子さんが待っているよ」という言葉は、「一時の慰めにはなっても究極の救いではない」と批判されてもおかしくありません。
ですが、私はそんな究極の救いの権利があったとしても、謹んでそれをお返ししたいと思うのです。
もちろん、そうした究極の救いを求めること自体は否定しません。むしろ、それができる方は大いにその道に励んで頂きたいです。そうした求道者がいるということそのものが私たちにとって大きな救いになるからです。なので、むしろ私は大いに尊敬しているのです。
ただ、私はお浄土でお子さんが待っているという感覚を否定したくないのです。
私自身、昨年初めて父となりました。子が生まれて初めてわかる感覚もあるものです。
そしてそれは浄土真宗の開祖親鸞聖人もそうでありました。親鸞聖人も家族を持たれ、その家庭生活の中で仏道を生きたお人でした。そして「私が先に死んだらお浄土でお待ちしています」と弟子達に説いています。
私はそういう親鸞聖人をお慕いしているのです。(もちろん、親鸞思想にも高度な思想体系があり、「お浄土でお子さんが待っているよ」という言い方は不適切だという批判がなされる可能性があります)
繰り返しますが、私は深遠な宗教思想を否定しているのではありません。むしろ日々学ばせてもらっている側の人間です。
ただ、現実の家庭生活において大事にしたい感覚があるというのをゾシマ長老の慰めから私は感じたのでありました。私もアリョーシャのように現実主義者として奇跡や宗教を見たいのです。
この「信者の農婦たち」の章は上巻の前半部分におけるハイライトと言ってもよいのではないでしょうか。それほど私に突き刺さる内容でした。
ぜひこの章は熟読されることをおすすめします。
続く
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