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パリの文豪達の圧倒的スケールを語る一冊!鹿島茂『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』概要と感想
今回ご紹介するのは1998年に文藝春秋より発行された鹿島茂著『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』です。
早速この本の紹介を見ていきましょう。
ユゴー・デュマ・バルザック。ナポレオン神話が青年を捉えた時代のなかに、巨匠出現の必然性を見抜いて、三人の素顔に迫る傑作評伝。異性への多大な情熱に燃えるユゴー。〝小説工房〟の創始者デュマ。誇大妄想とさえいえる自信家バルザック。彼らはいかにして彼らになったのか。小説よりも奇なる巨匠の生涯!
Amazon商品紹介ページより
『レ・ミゼラブル』のユゴー、『モンテ・クリスト伯』のデュマ、『ゴリオ爺さん』のバルザック。
この本では19世紀中頃にパリで大活躍した文豪達の尋常ならざるエネルギーについてフランス文学者鹿島茂氏が解説をしていきます。
私がこの本を読んだのは『レ・ミゼラブル』を書いたユゴーの生涯や人となりについてもっと知りたいと思ったのがきっかけでした。
前回の記事「アンドレ・モロワ『ヴィクトール・ユゴー《詩と愛と革命》』~ユゴーの圧倒的なスケールを体感できるおすすめ伝記」ではユゴーのおすすめ伝記を紹介しましたが、鹿島氏のこの本もユゴーを知る上でとても興味深い発見がいっぱいでした。二つ合わせて読むことでよりユゴーの人となりについて考えることができました。
さて、この本について鹿島氏は序章で次のように述べています。少し長くなりますがこの本の内容や特徴を知る上で重要な箇所なので引用します。
マスカルチャーが異常に発達し、もはやかつてのような通俗的イメージ通りの純粋な詩人や小説家などどこにもいないとわかっている現代においても、こと過去の文学者に限っては、依然として従来通りの紋切り型がまかり通っている。すなわち、十九世紀の詩人や小説家といった人間は、栄華の巷を低く見て、永遠のみを追い求める崇高なロマン的魂の持主であり、政治的野心や経済的な欲望といった世俗的な願望とは無縁の純粋な存在だったというものである。こうした偶像崇拝的態度は、政治的偉人の場合はさすがに少なくなったが、こと文学者にかぎっては、いわゆる文学史と呼ばれる書物ばかりではなく、専門の研究書においても、あいかわらず主流をなしている。
ところが、純粋な魂の文学者といったイメージが成立したロマン主義時代の文学者の実像を調べてみると、出てくるわ出てくるわ、もし政治家だったら、それこそ銅像が引き倒されかねないほど、スキャンダラスな事実が次々に明るみに出される。とりわけ、その傾向は、一八〇〇年を挟んで生まれ、一八三〇年前後にデビューするユゴー、デュマ、バルザックなどのロマン派第一世代の文学者たちにおいて著しい。彼らは、名声、金、女といった世俗的欲望とは無縁だったどころか、むしろそうした欲望の権化だったといったほうがいい。そのすさまじさたるや、遥かに同時代人たちを凌いでいる。彼らの作品に登場する極端にデフォルメされた情熱的人物でも、彼らの傍らにおいたら顔色がなくなるほどである。その徹底ぶりがあまりにも見事なので、我々としては、どうしても考え方を一八〇度転換せざるをえなくなる。すなわち、彼らは、こうした世俗的欲望「にもかかわらず」大傑作を残したのではなく、それがあったが「ゆえに」かくほどまでの偉業をなしとげたのであると。
鹿島茂『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』P12-13
たしかに前回の記事で紹介した伝記でも、ユゴーはなかなかに、いやとてつもなく破天荒な振る舞いをしています。彼の女性問題は常軌を逸しています。現代ならばそれこそ大炎上です。
しかし、そうした世間の倫理を超越した怪物的なエネルギーがあったのも確かに事実なのです。鹿島氏も次のように述べています。
先にも触れたように、この三人の世俗的欲望は桁がはずれている。そして、成り上がりにともなうあらゆる要素、つまり名声、富、女、等のそれぞれの項目において、彼らの欲望の容量は、他の同時代人を圧している。もちろん、名誉心、金銭欲、性欲が強ければ文豪になれるというわけではないが、少なくとも、こうした巨大な欲望がなければ、あれだけの膨大な傑作群を残しえなかったことだけは確実である。彼らは、蒸気機関車が蒸気に押されて前に進むように、自らの世俗的欲望を一種のエネルギー源にすることによって、前人未到の文学的達成をおこなったといっていい。俗にいう文学者の「膂力」とはじつは、その人間の世俗的欲望の大きさの別名にほかならない。「巨匠」とは、巨大な世俗的欲望という「器」を備えた文学者のことなのである。
鹿島茂『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』P16
あとがきでも鹿島氏は次のように述べています。
(三人の伝記を調べている過程で気づいたのは ※ブログ筆者注)この三人が三人とも、「名声、金、セックス」などに対していささかも禁欲的でなく、じつに人間くさい執着を剥き出しにしていることである。ただ、彼らのこうした形而下的欲望は、たしかに生臭いことは生臭いのだが、どんな聖人君子も一皮剥けばほれこの通りというような偶像破壊的な批判などをまったく寄せ付けないような「ど迫カ」がそなわっているので、凡人としてはただただ参りましたと降参するほかはないものだった。ひとことでいえば、彼ら三人の欲望は、それ自体がどんなに俗物的なものでも、他と比べようのない破天荒なスケールをもっているので、そこには、一種独特の爽やかさが感じられたのである。
鹿島茂『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』P304
「凡人としてはただただ参りましたと降参するほかない」という言葉はまさにその通りだなと思いました。圧倒的スケールを持ったカリスマに対してはそう言う他ありえない。小市民的な基準を彼らに当てはめ批判をするということがまったく陳腐なものに感じられてしまう。鹿島氏の述べるように、彼らの圧倒的なまでの欲望のスケールは「一種独特の爽やかさ」すら感じられるものでした。
この本ではそんな彼らの常軌を逸したエピソードをたくさん知ることができます。
また、当時の時代背景や歴史もわかりやすく解説されているのでフランス文学に興味のある方だけでなく、ロシア文学をはじめとした世界文学や、世界史に興味のある方にもおすすめな一冊となっています。
天才とはどういうことなのか。
カリスマとは何なのか。
彼らは何を求め、どう突き進んでいくのか。
そして、そんな彼らを生み出した時代背景とは。
ユゴー、デュマ、バルザックという三人の怪物を比較しながら、当時の偉人の原動力を模索していくこの作品は非常に面白かったです。ぜひおすすめしたい一冊です。
以上、「鹿島茂『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』パリの文豪達の圧倒的スケールを語る一冊!」でした。
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