親鸞の悪人正機説への疑問~「スターリンやヒトラーのような悪人にも往生(救い)はあるのか」という問いについて考えてみた
親鸞の悪人正機説ースターリンやヒトラーのような悪人(とされる人間)も往生(救われることが)できるのかという問いについて考えてみた
私はTwitterをしています。Twitterではこちらのブログで投稿した記事の紹介や、世界一周記や日々の何気ないことをつぶやいたりしております。
世界一周紀行~世界の宗教と歴史を巡る旅―僧侶の私がなぜ旅に出たのかhttps://t.co/Y9UcHiFhOM
— 上田隆弘@函館錦識寺 (@kinsyokuzi) November 21, 2020
2019年春、私は80日かけてアフリカや世界三大一神教の聖地エルサレム、アウシュヴィッツ、ボスニア、バチカン、スペイン、アメリカ、キューバなどをめぐり「宗教とは何か」をテーマに旅に出ました。
最近はスターリンやヒトラーについての記事の更新を続けていますが、その中で次のような質問を頂きました。
スターリンやヒトラーや毛沢東やポルポトみたいな人たちでも往生することは出来るのでしょうか?親鸞上人なら何と答えるでしょうか?それとも、そもそも仏教徒でない彼等は最初から救いの対象では無いのでしょうか?
Twitterより
これは鋭い質問ですよね。これまで当ブログではソ連史と独ソ戦、ホロコーストについて学んできました。その中でこのような問いを持たれた方は実は多いのではないかと思います。このような質問を頂けるのは私にとっても非常にありがたいものでした。
というわけで私はTwitter上で以下のようにお答えさせて頂きました。以下その文章を載せていきます。読みやすいように一部書き換えたりもしていますのでご容赦ください。
鋭い質問ありがとうございます。私もこの問題について学生の頃からずっと考え続けています。この問題に厳密に答えようとしますと論文並みのものが必要になってきますので、簡潔にではありますが私なりに思う所をこれからお答えしていきます。
まず、スターリンやヒトラーなど、虐殺を犯した悪人も救われるのかどうかという問題は、親鸞聖人の思想からいうと、有名な悪人正機説に説かれています。 教えからいいますと、善人であろうと悪人であろうとどんな人間も救われることは可能だとしています。
ですが、それは本人が自らの心と向き合い、自らの奥底にある悪そのものと向き合ったところにおいて与えられうる救いです。 「何をしても最後には救われるなら悪いことをしても構わないのでは?」ということではありません。これは親鸞聖人が生きておられた頃からよく問題になっていたことです。
こうした誤った考えが広まっていくと「俺は悪人だが救われるのだ。悪いことしようが何も恐くない」と堂々と悪行を見せつける人も出てきてしまいます。 また、「あんなに悪いことをした人間も救われると言うなんて、親鸞という僧侶はとんでもないことを言うものだ」という批判もあったものと思われます。
ですが、親鸞聖人に限らず、信仰の問題においてはどこまでも「私」という「個」が問題になってきます。他者がどのような罪を犯したかよりも、まず自分の心と向き合うこと。特に親鸞聖人の場合は驚くほど自己の奥底まで潜っていきます。親鸞聖人の主著『教行信証』はまさにその過程を書いています。
私自身もかつて「なぜこんな人たちも救われなければならないのか。世の中ひどいことばかりではないか。それでも彼らを認め、共に救われなければならないのか」と悩んでいた時期がありました。 ですがある日私は気づきました。他者が救われるかどうかは私の決めることではない。仏様の決めることだと。
私は私を抜きにして他者の悪を見ている。そして彼らが救われるべきかどうかを裁いている。 そうではないのです。問題は私が救われるかどうかであり、他の悪人が救われるかどうかの話ではないのです。
また、スターリンは仏教徒ではないからそもそも救いの対象ではないというのも難しい問題です。これはあらゆる宗教に言えることです。 ですが、スターリンにももし縁があれば何らかの方法で救いはあったかもしれません。その縁がありえたという可能性は否定できないのではないかと思います。
ただ、スターリンやヒトラーの伝記を読むと、彼らは本当に疑心暗鬼でいつも恐怖に怯えていたように思います。誰に裏切られるかわからない恐怖、そして血にまみれた自らの手。私は彼らがそれこそ生きながらにして地獄のような苦しみを味わっていたのではないかと思います。
ただ、彼らが行った残虐な行為は裁かれなければなりません。それこそこの世界に生きている以上、世界の法に従って罪を償う必要があると思います。いくら悔いたところで犠牲者は帰ってきません。生き残った人も尋常ではない苦しみを抱えることになりました。そのことは私も強く思います。
ただ、信仰という面では彼らが自らの心と本当に向き合い、その悪と本気で向き合い、心から懺悔するならば彼らの心に変化はあるのかもしれません。それは他者である私にはわからないことです。 そういう意味で彼らにも救いはあるのではないかと私は思います。ただし、彼らの心次第ではありますが。
以上、これが私の思うところです。うまく伝えきれない所もあると思いますがこれが今の私の精一杯です。今私が独ソ戦を学んでいるのもこうしたことを学び、考えるためです。
質問をして頂きありがとうございました。 私自身もとてもいい勉強になりました。 これからも疑問や思うところなどがありましたらぜひ声をかけてください。 ※今回お話ししましたのはあくまで私個人の見解ですので最後にそこだけ加えさせて頂きます。
Twitterより
そして私の以上の返信に対し、次のようなご返信を頂きました。
すごく詳しくお返事をいただき、ありがとうございました。あと、もう一つ疑問があるのですが、浄土真宗では織田信長はどのように定義されているのでしょうか?スケールは大分小さい虐殺者ですが、一向一揆の弾圧をみると浄土真宗にとっては不倶戴天の敵とも思えるのですが
Twitterより
これもまた難しい質問ですが私なりに考え、お答えしました。
宗派としての定義はあまり聞かないですね。戦国時代の本願寺教団については政治的なこともかなり絡むので純粋に宗教的な問題として捉えるのは難しいです。正直ここの部分は私もあまり把握できておりません。ドストエフスキー研究が終わった後に真宗の歴史に取り掛かる予定なので宿題にさせてください。
ただ、歴史的に見れば当時の仏教勢力は本願寺に限らず比叡山などもとてつもない力を持っていましたので、既存権力からの解放を望む信長からすれば仏教勢力は敵であったと思います。もしかなり早い段階で仏教側が全面降伏していたらどうなっていたか…それは歴史のもしも問題なので何とも言えません。
親鸞聖人が生きていた頃は真宗としての教団はとても小さなものでした。そのため個々の信仰の問題が重要でした。しかし時代を経て教団が国レベルまで巨大化すると、それを維持管理していかなくなります。当然、政治的な問題も出てきます。ここに教団発足当時との信仰問題の違いが出てきます。
これも世界中の宗教に見られる問題です。開祖が生きていた時代とその後教団が巨大化した時代では、同じ教義を信仰していたとしてもその時その時抱える問題が違ってきます。こうした面でも他宗教と比べて考えるのは興味深いです。 信長との関係についてもいつかブログでまとめようと思います。
Twitterより
Twitterにて頂いた質問から私なりに親鸞聖人の悪人正機説について考えてみました。Twitterでは普段知り合うことのない方と繋がることができ、非常にありがたい機会だなと感じています。
そして今回のように私の記事に対してこうして質問を頂けるのは本当にありがたいことでした。私自身もとても勉強になりました。
皆様ももし気になることや疑問に思うことがありましたらぜひ声を掛けて下さりましたら嬉しいです。Twitterなどで気軽にメッセージを頂けましたら幸いです。
以上、「親鸞の悪人正機説「スターリンやヒトラーのような悪人にも往生(救い)はあるのか」という問いについて考えてみた」でした。
※2021年11月9日追記
この記事では「ヒトラーやスターリンにも救いはありうるのか」という質問に対して、私なりに答えさせて頂きました。
ですがこれはあくまで「教義的には」ということです。
実際に被害を受けた人がたくさんいる中で、それらの人がヒトラーやスターリンを赦せるのか、あるいは赦さなければならないのかというのとはまったく別の問題です。
加害者がいかにして罪を償うか、はたして赦しとは存在するのかという問題は非常に難しい問題です。法的、教義的問題だけでなく、心情的問題もありどの観点からも違った答えが出てくるでしょう。
これはボスニア紛争で起きたスレブレニツァの虐殺を描いた映画『アイダよ、何処へ?』を最近学んだ時に改めて感じたことでした。
以下にそれらの関する記事を掲載しますのでぜひそちらも読んで頂けますと幸いです。罪と罰とは何か、赦し、救いとは何かをこれらの記事で考えていきます。
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