(6) A panoramic view of the Foro Romano from Palatine Hill! The marble of St. Peter's Basilica came from here!

Travels in Rome" - Charms of the Theater City of Rome and Pilgrimage to Bernini

【ローマ旅行記】(6)パラティーノの丘からフォロ・ロマーノを一望!バチカン・サンピエトロ大聖堂の大理石はここからやって来た!?

コロッセオを見学した私はいよいよローマ帝国の中心部フォロ・ロマーノを訪れた。

2019年にローマを訪れた際は日程の都合上、バチカンに専念せざるをえずこちらを訪れることはできなかった。

なので今回は3年越しの待望のフォロ・ロマーノであった。

私はコロッセオ側の入り口から入場したので、まずはパラティーノの丘というフォロ・ロマーノを一望できる場所へ向かった。

あぁ・・・なんと素晴らしい・・・!

話には聞いていたがこれほどとは!天気も快晴。最高のコンディションだ。私は思う存分この景色を楽しんだ。

では、このフォロ・ロマーノについて例のごとく石鍋真澄の解説を聞いていくことにしよう。

歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』とフォロ・ロマーノ

『ローマ帝国衰亡史』という大著で名高い英国の歴史家ギボンは、その『自伝』にこう記している。「一七六四年一〇月一五日、ローマにいた私はカンピドーリオの廃墟にすわって瞑想にふけっていた。裸足の修道士たちはジュピターの神殿で晩禱を唱えていた。ローマの衰退と滅亡の歴史を書こうという考えが初めて私の心に浮かんだのは、そのときであった」。夕暮れのカンピドーリオ、そして修道士たちが歌う聖歌、ローマの歴史に思いを巡らすには、まさに絶好のシチュエーションだ。ギボンがここでジュピターの神殿といっているのは、彼の時代には、ジュピター神殿は今日のサンタ・マリア・イン・アラチェーリ聖堂の場所にあったと考えられていたからである。ギボンはこのカンピドーリオで修道士たちの聖歌を聞き、そこから、古代のジュピターの賛歌が聖母の賛美歌へと変わっていった口ーマの壮大な歴史劇に思いをはせ、大著の構想を得たというわけである。

しかし、彼は『ローマ帝国衰亡史』をローマで書いたわけではなかった。これについて、モートンがこんなことをいっている。「ローマでつねに歴史的、考古学的に目覚めた状態で暮らすと、気が変になるだろうと思う。ギボンは賢明な男だったから、かの本をスイスで書いた。また、グレゴロヴィウスがニ〇年にわたってローマで歴史を書いたあと、かなりおかしくなったと聞いても、私は少しも驚かない」。ローマは二五〇〇年にもおよぶ歴史のゆえに、実に多くのものが伝えられ、多くのことが語られてきた都市である。街角の一つの石にも、また暗い聖堂の隅の数行の銘文にも、われわれを壮大な歴史劇へと誘う吸引力のようなものが秘められている。ローマはそんな都市だ。その歴史的記憶が幾重にも重なりあう、いわば歴史の大海のようなローマで明敏な歴史的知性をもち続けるには、確かに強靭な精神力が必要だろう、と私も思う。さいわい、まったく異質の文化に育ち、ラテン語の詩一つ思い浮かぶことのない私にとって、ローマについて学び知ることは、子供が初めて字を覚えるときのような喜びがあるのみである。ローマほど知る喜び、発見の驚きのある都市はない、私はそう実感する。

Masumi Ishinabe, Yoshikawa KobunkanAs Long as St. Peter's Stands: My Guide to Rome.p76-77

ギボンのThe History of the Decline and Fall of the Roman Empire.は以前当ブログでも紹介した。

その『ローマ帝国衰亡史』が書かれるきっかけとなった場所がこのフォロ・ロマーノなのだ。ここで言うカンピドーリオは前々回の記事(4) The Campidoglio, designed by Michelangelo, an iconic Roman structure overlooking the Roman Forum."で紹介したが、ミケランジェロ設計のその建築はフォロ・ロマーノを眺めるには最適の場所だ。

カンピドーリオから見たフォロ・ロマーノ

そして石鍋真澄は次のように続ける。

さて、カンピドーリオ広場に立って、しばしローマの歴史に思いをはせたら、パラッツォ・セナトーリオの裏手にまわって、フォロ・ロマーノのパノラマを楽しむのが常道である。カンピドーリオの丘のふちに立つと、眼下にはセプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門やサトゥルヌスの神殿の柱が見え、遠くにはティトゥス帝の凱旋門やサンタ・フランチェスカ・ロマーナ聖堂のファサードがのぞめ、またコロッセオも顔をのぞかせている。そのほか、ヴェスタの神殿やバジリカ・ジュリアなど数々の遺跡がフォロ・ロマーノにはひしめき、右手にはこんもりとした緑を戴くパラティーノの丘も見渡せる。ローマでももっともローマらしい、もっともすばらしい眺めの一つだ。

だが、ギボンやゲーテはこうしたフォロ・ロマーノの眺めを楽しむことはできなかった。今日フォロ・ロマーノは古代ローマの心臓部として、古代遺跡の中でももっとも重要なものとみなされているが、その本格的な発掘は一八七〇年のイタリア統一後に行われたからだ。だから、古代ローマの崇拝者だったゲーテのTravels in Italy.に、フォロ・ロマーノの名前すら出てこなくとも、驚くには足りないのである。

実際、ギボンやゲーテの時代、いやすでにルネッサンス時代からフォロ・ロマーノはカンポ・ヴァッチーノ、つまり雌牛の野と呼ばれ、家畜に水をやったり遊ばせたりするところだった。当時の版画を見ていただくと分かるのだが、フォロ・ロマーノがあるあたりは並木が一本通っているだけの野原で、セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門のように破壊をまぬがれたモニュメントも半分は地中に埋まっていたのである。私はこうした牧歌的なフォロ・ロマーノを描いた版画やデッサンをこよなく愛好している。だが、それにしても、共和政ローマの心臓部であり、巨大な役所や神殿や記念柱などが林立していた絢爛たる地区がどうしてこのようなことになってしまったのだろう、という疑問はなかなか消えなかった。

Yoshikawa Kobunkan, Masumi Ishinabe, "San Pietro ga Tatekiri: My Guide to Rome," P77-78

写真はフォロ・ロマーノにあった看板を写したものだが、たしかにかつてのフォロ・ロマーノはほとんど地中に埋まっていた状態だったのである。今の景色を知っていると想像もできないくらいだ。こんな素晴らしい遺跡がすっぽり埋まっていて誰にも見向きもされなかったというのは信じられない話だ。引き続き解説を見ていこう。

フォロ・ロマーノはなぜ埋もれてしまったのか

ローマ帝国が滅亡してキリスト教の時代になると、フォロ・ロマーノにあった古代の建物のうち、いくつかはキリスト教の聖堂に改築された。そうした聖堂も、大部分は長い歴史の中で、あるいは近代の整備・発掘のおりに破壊されたが、一部は今日も残っている。ロムルスの神殿を利用したサンティ・コスマ・エ・ダミアーノ聖堂や、パラティーノの丘のふもとのサンタ・マリア・アンティークワ聖堂、そしてかの有名なローマの元老院(クーリア)などがそうだ。だが、それ以外の建物、とりわけ神殿などは荒れるにまかされ、すでに八世紀には自然崩壊が始まっていたといわれる。

それにレオ四世時代(八四七-五五)の大地震をはじめ、地震による倒壊もたびたび繰り返された。また、このフォロ・ロマーノはもともとカンピドーリオとパラティーノ、そしてクイリナーレという三つの丘に固まれた湿地であったのを、クロア力・マクシマ(大下水道)の整備によって利用できる土地に変えられたという、いわくつきの場所であった。だから、長年の風雨やたびたび起こったテヴェレ河の洪水は、次第にフォロ・ロマーノを土砂で埋めていったのである(それとともに、周囲の丘との標高差は縮まっていった。現在ではカンピドーリオもパラティーノもたいして高いように見えないが、古代には「ローマの七つの丘」と呼ぶにふさわしい高さだったと思われる。

そしてこれに、私闘に明け暮れた中世の封建貴族の中にフォロ・ロマーノに陣取って、古代の建物を要塞に改築したり、その上に塔を建てたりする者が出るにおよんで、古代のモニュメントの破壊はますますひどくなった。古い版画を見ると、セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門に塔が付けられていたり、ティトゥス帝の凱旋門などはすっかり城塞に組み込まれていたことが分かる。一九世紀にヴァラディエがこのティトゥス帝の凱旋門を修復した際には、一度すっかり解体しなければならないほどだったという。かくして、聖堂の塔や封建貴族の城塞の塔が林立していたフォロ・ロマーノはカンポ・ヴァッチーノのほかに、カンポ・トッレキアーノ(塔の野)という名称でも呼ばれていたのである。
*some line breaks.

Yoshikawa Kobunkan, Masumi Ishinabe, "San Pietro ga Tatekiri: My Guide to Rome," P79-80

略奪や破壊、自然崩壊、地震、洪水、改築など様々な理由で古代ローマの遺跡は徐々に埋もれていった。

そして次の箇所でさらに驚きの事実を知ることになる。なんと、古代ローマ荒廃の最大の理由がバチカンによる大理石の調達にあったというのだ。

サン・ピエトロ大聖堂の大理石はフォロ・ロマーノからやって来た!?

このように、自然崩壊や地震、洪水、そして改築などが崩壊の原因だったと考えられる。しかしそれだけではなく、原因の最大のものは、何世紀にもわたって続けられた、フォロ・ロマーノからの石材の持ち出しであった。

今日、ローマの古い聖堂を訪れて使われている柱を何気なく見ると、太さも石材もまちまちで、そのうえイオニア式柱頭があるかと思えばコリント式もあるといった具合に、まったくふぞろいなものにしばしば出くわすことがある。いつのことだったか正確には思い出せないのだが、河向こうのサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂に入って、祭壇に近い柱に寄りかかり、薄暗い聖堂に午後の陽が差すのを見ていたとき私はそのふぞろいの列柱から強烈な印象をうけ、これがローマなのだ、とひどく感動したことがあった。

もちろん、それらの柱は古代のどこかの建物に使われていたものである。巨大な一本石であるオべリスクまで船で運んできた古代ローマ人とは違って、中世のローマの人びとに花崗岩や斑岩のような石材をエジプトから運べというのは無理な相談だったし、またその必要もなかった。彼らがフォロ・ロマーノやその周囲にあった皇帝たちのフォロなどから、石材を調達したのは、当然すぎるくらい当然だったのである(サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂など、ローマの古い聖堂の床は、コスマーティという一族が中世後期に美しいモザイクで装飾したものだが、その材料もほとんどすべて古代の建物から調達されている)。つまり、聖堂をはじめとするローマの多くの建物は、古代の建物の石材を組み立て直して造られた、いってみれば古代建築の再生品なのである。
Some line breaks have been made.

Yoshikawa Kobunkan, Masumi Ishinabe, "San Pietro ga Tatekiri: My Guide to Rome," P80-81
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂 Wikipedia.

「聖堂をはじめとするローマの多くの建物は、古代の建物の石材を組み立て直して造られた、いってみれば古代建築の再生品なのである。」

この言葉には驚いた。全盛期を誇ったローマ帝国は地中海世界の覇者で海上輸送も思いのままだった。だからこそ大量の大理石を獲得することができたのが、帝国崩壊後のローマにはそんな力はもちろんない。

そうなると建築資材をどこから調達するのかという問題が生まれてくる。その解決策がフォロ・ロマーノからの転用ということになったのである。

そして次の箇所でさらに驚くべきことが語られる。

しかし中世までの石材の持ち出しは、まだそれほどひどいものではなかった。フォロ・ロマーノに歴史的な光が当てられるようになったのはルネッサンス時代になってからだが、皮肉なことに、フォロ・ロマーノのモニュメントがもっともひどい、ほとんど決定的といっていい破壊を受けたのも、このルネッサンス時代だった。

ルネッサンスの教皇たちが躍起になった「レスタウロ・ウルビス(ローマ再建)」を支えたのは、フォロ・ロマーノを初めとする古代のモニュメントの石材だったのである。とりわけサン・ピエトロ大聖堂や巨大なファルネーゼ宮造営に心血を注いだパウルス三世は、フォロ・ロマーノに致命的な痛手を与えた。教皇はサン・ピエトロ大聖堂造営のために、ファッブリカ(工事監督局)に古代のモニュメントから石材を得る独占的な権利を与え、また資金を得るためにそれを売却することさえ許したのだ。かくしてフォロ・ロマーノは徹底的に掘り返され、その結果、彫刻や使える石材は運び出され、またはんぱな大理石は焼いて石灰にして建築資材に利用された。こうした作業がいかに徹底していたかは、フォロ・ロマーノの建物の多くが基台まで失われていることからも想像できよう。

著名な考古学者ヒュルセンは、一五四〇年から五〇年にかけての一〇年間の破壊は、それ以前の二世紀間の破壊をうわまわるものだった、といっている。そしてそれ以降の石材の掘り出しは、いってみれば「落ち穂ひろい」のようなものであった。実際、一七世紀にはフォロ・ロマーノの破壊はやんだが、ようするに掘り尽されてしまったのである。
Some line breaks have been made.

Yoshikawa Kobunkan, Masumi Ishinabe, "San Pietro ga Tatekiri: My Guide to Rome," P81-82

この美しく圧倒的な巨大さを誇るサン・ピエトロ大聖堂がフォロ・ロマーノの大理石からできていた!

これには私も驚いた!4年前にバチカンを訪れた時にはこのことを知らなかった。

このことを知ってから改めて見るサン・ピエトロ大聖堂はまた一つローマの歴史の奥深さを感じさせるものだった。古代ローマの貴重な遺跡に何てことをしてしまったのだという思いもよぎってしまうが、これも人間の歴史だ。あらゆるものをひっくるめての人間の歴史だと改めて感じ入ったのであった。複雑怪奇こそ人間世界なり。

パラティーノの丘からコロッセオ側を見下ろす。

こちらはまだ緑が残っているが、かつてはここも完全に埋まっていたのだ。建物が見えないほど地面は高く、そこに草木が生い茂っていた。そんな姿を想像しながら私は丘からの風景を眺めた。

フォロ・ロマーノを歩く

さあいよいよフォロ・ロマーノを散策する。

先程私が立っていたパラティーノの丘はこの写真の左上。ちょうど展望台になっているのが見えると思う。

う~む、やはり上から見下ろすとのはまた違う!目の前にあのローマの遺跡がどんと立ち並ぶ。2000年前の遺構がこれほど残っているのというのはやはり埋まっていたおかげもあるのだろう。剥き出しのままだったらもっと原型を失っていたはずだ。

私はこの「アントニヌス・ピウス帝とファウスティーナの神殿」の柱にまず打たれた。近くでこの柱を見上げるとその迫力に圧倒されてしまう。まさに「神殿」。人知を超えた圧倒的スケールを体現するその姿に息を呑んでしまった。

カンピドーリオを正面にフォロ・ロマーノの中心部を歩く。この辺りは神殿の柱なども多く残っており、かつての面影を感じることができる。2000年前、ここをローマ人が行き交っていたのだ。『テルマエ・ロマエ』の世界が現にここにあったのだ。

私はこの映画だけでなく、フィリップ・マティザック著Daily Life in Ancient Rome."や佐藤幸三著The Eternal City: Caesar's Rome.など、フォロ・ロマーノの生活が書かれている本を読んできた。政治や文化の中心であるここフォロ・ロマーノではあるが、人々の生活の場としてのフォロ・ロマーノも現として存在していた。

雑多な人々がごった返していたであろうローマの日常を想像しながら歩いたフォロ・ロマーノは非常に刺激的だった。

遺跡の端には無造作に置かれた巨大な石があった。遺跡感が漂う。こうした石をバチカンに持ち帰ってサン・ピエトロ大聖堂が作られたのだ。そして左の建物のように少しずつ建物ごと分解して綺麗に大理石を調達していったのだろう。

もったいない気もするが、「朽ちるままになって滅びるくらいなら美しく再活用しようではないか!」という心意気も感じないわけではない。何せ1500年代の話だ。遺跡の保全などという観念もあるはずもない。朽ちるまま崩れ去るのを黙って見ているのか、それとも古代ローマの叡智を再びローマに復活せんと意気込んだルネサンスの熱き想いを実行するのか。

そう考えると暗黒時代と呼ばれたヨーロッパの中世から復活しようとする巨大な意志も見えてくる。「かつて世界を席巻したローマ帝国を今ここに復活させる!」。とてつもなく壮大なプロジェクトではないか。

もちろん、これにはイスラーム勢力の拡大やルターによる宗教改革という事情も絡んでいる。ローマカトリックは今こそその強さを示さねばならなかったのだ。

先ほども紹介した写真だが両方の画像を比べてほしい。今は右の写真のように凱旋門の全貌を見ることができるが、かつては左の版画のようにその半分以上が埋まっていたのである。この凱旋門はカンピドーリオの丘のすぐそばにあって高い位置にあるにも関わらずこの高さまで埋まっていたのだ。そう考えるとフォロ・ロマーノがいかに地中深くまで埋まっていたのかがよくわかる。

私はこの旅に出る前、古代ローマの栄枯盛衰の物語にそれこそどっぷりはまってしまい、様々な本を読むことになった。

Caesar, Cicero, Brutus, Augustus, Antonius, Cleopatra, Seneca, Caligula, Nero, Trajan, Hadrian, Marcus Aurelius, and many others who have left their mark on history lived here. How romantic!

After all, if you come to Rome, you must visit the Roman Forum. If you come to Rome, you must come here.

2000年前の驚異の繁栄とその崩壊は歴史ファンでなくともそのスケールの大きさに圧倒されることだろう。

私にとっても素晴らしい体験となったフォロ・ロマーノであった。

be unbroken

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