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フーデリ『ドストエフスキイの遺産』あらすじと感想~ソ連時代に迫害されたキリスト者による魂のドストエフスキー論

フーデリ
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フーデリ『ドストエフスキイの遺産』概要と感想~ソ連時代に迫害されたキリスト者による魂のドストエフスキー論

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)Wikipediaより

本日は群像社出版の糸川紘一訳、セルゲイ・フーデリ『ドストエフスキイの遺産』をご紹介します。

早速この本について見ていきましょう。

「死の家」(=監獄)と聖書というドストエフスキイ的な運命を背負って生き、苦難のなかソ連時代に終生キリストと共にあった「教会の人」フーデリがつかみとったドストエフスキイの本質。テキスト分析にこだわる文学理論派のドストエフスキイ解釈を排し、作家の心にあったキリスト教の思想に光をあてる原点回帰のドストエフスキイ論。

Amazon商品紹介ページより

この作品の著者であるセルゲイ・フーデリはこれまで紹介してきた書籍の著者とは一際異なる境遇にいた人物です。

巻末の著者紹介から引用します。

1900年、モスクワの司祭の家に生まれる。1917年のロシア革命で教会が否定されていくなか、1922年に最初の逮捕・流刑。以後1956年までに計三回の逮捕・流刑を経験する。その後もモスクワでの居住は許されず、貧窮と病気に苦しみながらも多くの著作を書いた。1977年、ポクロフ市の自宅で死去。ソ連時代に「教会の人」であることを貫いた姿勢は現代のドストエフスキイ研究者に高く評価されている

群像社 糸川紘一訳、セルゲイ・フーデリ『ドストエフスキイの遺産』

1917年のロシア革命後、ロシア正教は過酷な弾圧を受けることになりました。ソビエト社会主義では宗教はタブーです。そのため多くの教会が破壊され、聖職者は厳しい処罰を受けることになったのです。(詳しくは高橋保行著『迫害下のロシア教会―無神論国家における正教の70年』参照)

ソ連においては宗教者はまず認められません。今まであった生活基盤は全て国家に奪われることになります。フーデリ自身も教会弾圧に抵抗する反乱分子として1922年に逮捕され流刑となります。こうした境遇は同じように流刑に処されたドストエフスキーとの連帯の心を高めたのでありました。

そしてこの 『ドストエフスキイの遺産』 は1963年に書かれたものです。しかしこの本が世に出たのはそれから35年後の1998年のことでした。なんと、フーデリが亡くなってから20年の歳月を経ての出版です。

ソ連政権下では教会側の人間によるキリスト讃美の書物など到底認められるはずがありません。そのためフーデリの作品は日の目を見ることもなく埋もれたままになってしまいました。

リュドミーラ・サラースキナによる巻頭の序文にはフーデリの生涯や作品の特徴が詳しく書かれています。以下、少し長いですが引用します。

ロシアで三十-六十年代に書かれた、ドストエフスキイに関するほとんどあらゆる文献―伝記、創作方法の研究と文体論、作家の世界観と彼の「イデオロギー小説」についての研究―(すなわち、フーデリが自分の本のために集めて、否応ながら参照せねばならなかった文献)は方法論では党派的な志向をもち、無神論的な時代の命令に従うのみならず、「最終的な反宗教運動」の、根強い戦闘的無神論の人々によって書かれた。

ドストエフスキイの作品の出版や注解に当たった最良の専門的研究者たちでさえ、彼らがどれほど偉大な芸術家を前にしているのかを理解して、彼に寛大にキリストの説教を精々「許し」、ヒューマニズムを賞賛したのみである。

彼らは衷心より意気込んで若いドストエフスキイの作品を革命的民主主義の所轄官庁の意向に沿って登録し、心からの悲しみをもって作家の青年時代の理想からの離反を確認した。

円熟期のドストエフスキイの政治的保守主義と大地主義、革命的狂気と一切の虚無主義的傾向に対する拒否は、二十世紀中葉のソヴィエトのドストエフスキイ研究においては喉に刺さった骨であり、飲み込むことも吐き出すこともできないものであった。
※一部改行しました

群像社 糸川紘一訳、セルゲイ・フーデリ『ドストエフスキイの遺産』P16-17

ソ連におけるドストエフスキー研究は、厳しい統制の下管理されていました。意図的に宗教的な要素を退け、ソ連のイデオロギーに沿うようなドストエフスキー像を描くことを強制していたのです。

マルクス・レーニン主義的世界観と階級的アプローチの立場から書かれた祖国の学者の研究を知り、牢獄と流刑でこのアプローチの本質を知っていたフーデリは、通読を促されるものがひどく貧弱なことに仰天した。彼にはドストエフスキイが骨抜きにされているだけでなく、無意味なものにされてしまったように思われた。

群像社 糸川紘一訳、セルゲイ・フーデリ『ドストエフスキイの遺産』P17

フーデリにとって、キリスト教を意図的に排斥したマルクス主義的世界観からのみ語られるドストエフスキーは骨抜きにされたもののように感じられたのです。

けれども彼は自分の同時代の研究とほとんど論争せずに、それを資料として利用し、ごく僅かの正確な情報を引き出し、彼の知らない出典の引用を見出すのだった。

ドストエフスキイの遺産を研究する上でフーデリを真に奮いたたせ、教えてくれたのは、人生において彼の教師だった人々、そして彼が宗教哲学協会のモスクワ集会で「じかに」その声を聞いた人々だった。

ドストエフスキイを認識する真の基盤であり基本的な方法論とフーデリが見なすのは福音書、教会の神父たちの著作、聖者伝である。それらの中に、ただそこにだけ彼は作家の精神的偉業の密かな意味と彼の作品の極致を解く鍵を見るのであった。

群像社 糸川紘一訳、セルゲイ・フーデリ『ドストエフスキイの遺産』P17

このように、フーデリはロシア正教の立場からドストエフスキーを見ていきます。

以前私は、私はなぜドストエフスキー像が作者によってこんなにも異なるのだろうという疑問についてお話ししました。(※「ドストエフスキー資料の何を読むべき?―ドストエフスキーは結局何者なのか」参照)

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その一つの答えがフーデリのこの著作を読んだことでおぼろげながら感じられるようになりました。

ソ連時代におけるドストエフスキーはソ連のイデオロギーから見たドストエフスキーであり、宗教性を意図的に排斥しようとしていたのです。

だからこそ、フーデリのように違った視点からドストエフスキーを見ると全く違ったドストエフスキー像が現れてくるのです。

実は以前紹介しましたモチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』も宗教的な観点を削ることなく書かれた書物であります。

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モチューリスキーも亡命ロシア人です。ソ連ではなくパリを拠点にしていたからこそロシア正教と親しかったドストエフスキー像を描くことができたのです。

現代でもドストエフスキーを研究する際はソ連時代に書かれたものを参照することは必須です。やはり資料の数や質という意味ではドストエフスキーの祖国にはかないません。

ですが、だからといってそれをまったく無批判に鵜呑みにしてしまうと、それはそれで見落とされてしまうものもあるのではないでしょうか。

このフーデリの『ドストエフスキイの遺産』、私にとって非常に目を開かせてくれた書物でありました。

内容も読みやすく、伝記のようにドストエフスキーの生涯に沿って作品を論じています。作品理解を深めるという意味でも非常に懇切丁寧でわかりやすいです。

ロシア正教の宗教者としてのドストエフスキー像を知るにはこの上ない一冊ではないでしょうか。

ぜひおすすめしたい一冊です。

以上、 セルゲイ・フーデリ『ドストエフスキイの遺産』 でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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