(29)親鸞はなぜ関東に移住したのか~幕府の有力御家人宇都宮頼綱の存在

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』】(29)親鸞はなぜ関東に移住したのか~幕府の有力御家人宇都宮頼綱の存在
1214年、親鸞一家は住み慣れた越後を離れて関東へと旅立ちました。
そして20年近くにわたる関東布教生活を営むことになるのですが、私たちはあることを見逃してしまいがちです。
それが、「なぜ親鸞は関東に向かったのか」ということです。
後世を生きる私たちは親鸞が関東に行ったことを自明のことのように考えてしまいがちですが、幼い子供2人を抱えていた親鸞夫妻にとってそれは当たり前のことではありません。何らかの理由があって彼らは関東へと旅立ったはずです。
では、その理由は何なのか。今回の記事ではまずそのことを考えていきましょう。
さて、そもそものお話ですが越後から関東まで移動するにはどのようなルートを通るのが普通なのでしょうか。歴史学者今井雅晴氏によると、越後からまず信濃国(現長野県)に入り、そこから東に進み上野国(現群馬県)に抜け、稲田の草庵のある常陸国(茨城県)に到着するルートだそうです。

この長い行程を幼い子供2人を連れて移動するというのはかなり厳しいものだったと想定されます。しかも当時はまだまだ治安が悪かった時代です。京でも山から多数の群盗が現れ人々を恐怖に陥れていたことは以前もお話しした通りです。そしてそれが地方の山中ともなればさらに危険度は増すことでしょう。そんないつ山賊に襲われるかわからないような道を妻子を連れて移動するのはあまりにハイリスクすぎます。
それに、そもそも関東に行ったところでどこに住むのでしょう。いきなりふらっと立ち寄って「ここに住もう」と言って住めるものではないのです。住居はどうするのでしょう。収入は?領主の許可は?
そう考えると、そもそも越後から関東に無理してまで行く必要が見出せないということになります。
しかしそれでも親鸞一家は実際に関東に来て、稲田の草庵に住み着いている・・・。
となると導き出せる答えのひとつとして有力なのが、「誰かに関東に来るよう招かれた」ということになります。
そしてその「誰か」こそ本記事のタイトルにも出てきました宇都宮頼綱という人物になります。

宇都宮頼綱は北関東に大きな勢力を持った武士で、執権北条時政の娘と結婚するほど幕府中枢にいた有力御家人です。
しかも武士でありながら和歌の達人として知られ、百人一首の成立にも大きな影響を与えた人物だそうです。あの有名な歌人藤原定家とも親交が深く、一流の文化人として名を馳せていました。
そしてこれが最も重要なのですが、この宇都宮頼綱がなんと法然の孫弟子であったのです。頼綱は1205年に幕府の内紛に巻き込まれ出家を余儀なくされたのですが、その後あの熊谷直実の紹介で法然教団の高弟証空の弟子となっていたのです。そしてその後も頼綱は証空と深い結びつきを持ち続け、経済的にも証空教団を強力にバックアップしました。
この宇都宮頼綱が親鸞を稲田草庵に招いたのではないかと今井雅晴氏は指摘しています。
そしてその根拠として親鸞が滞在した稲田の草庵がこの宇都宮一族の所領だったことを挙げています。
熊谷直実と親鸞は以前紹介した「信行両座」のエピソードにもありますように、良好な関係性だったことが想像されます。また法然教団の高弟であった証空も確実に親鸞と濃い面識があったひとりです。そのふたりを介して頼綱は親鸞という人物を知り、関東に招いた可能性があるのです。
そう考えると親鸞一家が危険な関東行きの旅を決断できた理由もしっくり来ます。
つまり、頼綱の手配で使者が越後まで出向き、それから親鸞一家を無事に護送したということになります。これならば幼い子供たちを連れても安全に移動することができます。
そして宇都宮一族の所領である稲田郷に親鸞一家が住む草庵を提供し、さらにこの地で住むにあたっての庇護を約束したのでありましょう。
この時代は誰かに守ってもらわなければ自活することすらままなりません。これが親鸞ひとりで流浪の生活をするなら話は別ですが、妻子を伴いながらではそれは不可能です。こうした面からも誰かしら有力者の支援があったと考える方が自然です。そしてこの宇都宮頼綱はまさにそれに合致した存在でした。
というわけで親鸞がなぜ関東にやって来たのかというのはこの有力御家人の宇都宮頼綱あってこそということが言えるのではないでしょうか。
そして親鸞が住んだ稲田の草庵ですが、前回の記事でお話ししましたようにかつては人もほとんど住まないど田舎のように思われていましたが、実はこれも事実とは異なっています。
実際の稲田は交通の要所ということでかなり賑わいのある土地だったそうです。
そしてそもそもなのですが、この稲田の草庵がある常陸国(現茨城県)は当時、日本で最も豊かな土地のひとつであったそうです。気候や土壌もよく日本随一の作物生産量を誇り、さらには水運も発達していたので京との交通も盛んでした。

この地図を見て頂ければわかりますように、稲田の草庵がある笠間の南には内陸深くまで入り込んだ霞ケ浦があります。しかもこの霞ケ浦へは京からも船を使えば太平洋沿いの海流に乗って簡単にアクセスできました。そのため常陸国は農産物だけでなく水運による交易でも大きく繁栄していたのでありました。
つまり、親鸞の滞在した地域はど田舎どころか日本随一の豊かな地であり、多くのものと人が行き交う文化的な土地だったのです。
これは私たちがふつうイメージする鎌倉時代の関東とは全く異なります。「京の雅な人々」に対し「田舎の荒々しい坂東武者と農民」という東西の二項対立的なイメージでこれまで関東が語られてきましたが、その見方が現在の歴史学では否定されてきています。
その大きな例として挙げられるのが北条時政です。大河ドラマや歴史ものではたいてい「田舎の気の良いおじさん」という人物像で描かれがちですが、実は京との行き来を頻繁にこなしていた文化人でもあったのです。

時政は単なる田舎武士ではなく、所領が小さくとも交通の要所に位置した関係でかなりの情報を手に入れることができる存在でした。さらに物資の流通にも関わっていて、所領以外からの収益も得ていたことが明らかになっています。
つまり、関東は決して何もない田舎なのではなく、すでに豊かな文化がある土地なのです。
親鸞が住んだ稲田もまさに同じです。ここが交通の要所であったことは先に述べた通りです。しかも親鸞が滞在した稲田の草庵は実は稲田神社の境内にありました。なんと、親鸞は神社の境内に住んでいたのです。


そしてさらに驚くべきことにこの稲田神社というのが当時全国でも指折りの巨大神社であったことです。格で言えばあの鹿島神宮と同格です。

それほど巨大な神社の中に親鸞は住んでいたのです。現在はかなり小さくなってしまいましたが、親鸞が稲田神社境内に住んでいたというのは私たち真宗僧侶にとっても大きな意味があります。このことについては後に改めてお話ししますが、巨大な神社があるということはそこに確固たる文化もあるということです。繰り返しになりますが親鸞がやって来た関東の地は、何の文化もないまっさらな土地ではなくそれぞれの信仰がしっかり根付いていた地域なのでありました。そこに親鸞はやって来て布教をしていくわけです。
そして結果的に親鸞の布教は成功し、多くの門弟が生まれることになりました。
これも『御伝鈔』を読むとごく当然のように布教が大成功しているかのごとく私たちは受け取ってしまいがちですが、よくよく考えるとこれは大変なことです。なぜなら、これはかつての信仰を捨ててまで親鸞の教えに宗旨替えした人が多数いたということになるからです。
では、関東の人々は親鸞の何に惹かれ、なぜ宗旨替えをしてまで帰依したのでしょうか。
これも今井雅晴氏が興味深い説を提起しています。
次の記事ではなぜ親鸞の教えが関東に広まったかを考えていきたいと思います。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
今井雅晴『親鸞の伝承と史実 関東に伝わる聖人像』
平雅行『日本中世の社会と仏教』
野口実『北条時政』
元木泰雄『河内源氏』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
江田郁夫編『中世宇都宮氏』
高橋修『熊谷直実 中世武士の生き方』
平雅行『法然』
菅田祐凖『西山證空上人とその思想』
東実『鹿島神宮』
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