(24)親鸞の恵信尼との結婚~親鸞の生涯における最大の謎について

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』】(24)親鸞の恵信尼との結婚~親鸞の生涯における最大の謎について
親鸞の結婚。
かつて親鸞を語る上で「公然と妻帯した最初の僧親鸞」「破戒僧親鸞」というフレーズがよく出てきたものですが、このフレーズが実は正確なものではないことはこれまでお話ししてきた通りです。当時の仏教界では妻帯や破戒はよくあることでした。
しかし、親鸞が妻帯したというのは事実です。そしてその妻の名が恵信尼であったことも確定しています。

ただ悩ましいことに、この恵信尼というお方が何者なのかは未だにわかっておりません。
「え?」と思われるかもしれませんが本当なのです。恵信尼が誰の娘なのか、どこ出身なのかが未だに不明なのです。この「恵信尼とは何者なのか」という問題は現在も歴史学者の間で大変な論争が続いています。
では現在提起されている説は一体どのようなものがあるのでしょう。それがこちらです。
⑴「摂政九条兼実の娘の玉日姫説」
⑵「京都の中下級貴族三善為教の娘説」
⑶「越後の在庁官人の娘説」
結論から申し上げますと私個人としては⑶の「越後の在庁官人の娘説」を採っています。
まず⑴の「摂政九条兼実の娘玉日姫説」ですが、これは親鸞の弟子達が後年に伝承として継承していたものですが、その内容を見ると、物語としては美しいのですが史実とは認めがたいものがあります。そもそも九条家と親鸞の日野家では身分が全く釣り合いません。こうした身分差のある結婚は当時においてはありえないことだと歴史学者平雅行氏は指摘しています。他にも様々な根拠があるのですが、ここでは長くなってしまうので割愛します。
⑴に関してはこれで私も納得したのですが、ここからが問題でした。
⑵の「京都の中下級貴族三善為教の娘説」は歴史学者今井雅晴氏が提唱したもので、⑶の「越後の在庁官人の娘説」は先ほども出てきました平雅行氏が述べている説なのですが、これがどちらもありえるのです。
この両者の論争には私も正直頭を抱えました。どちらの説も説得力があって、歴史学者ではない私にはもはや判断が不可能だったのです。
ただ、私が最終的に⑶の「越後の在庁官人説」を採ったのにはいくつか理由があります。
今井氏の恵信尼京都出身説では以前紹介した『恵信尼文書』に着目して、恵信尼と親鸞が法然教団で出会いそのまま結婚したとしています。文書内の助動詞「き・けり」に着目したその説はたしかに説得力があり、今井氏だけでなく草野氏などの歴史学者も「これで恵信尼問題は決着した」と述べています。
ただ、その今井説に疑問を呈したのが平氏でした。「き・けり」の助動詞の用法から恵信尼が京都で親鸞と会っていたとするのは無理があると指摘するのです。そしてこの指摘を論証したのが沙加戸弘氏の「『恵信御房文書』管見」という論文でした。たしかに沙加戸氏の論文では今井説の根拠となっていた「き・けり」の用法が適用できず、恵信尼が京都で親鸞と会っていたという論が成立しなくなります。つまり、今井説の根拠が崩れてしまったのです。ただ、そうは言ってもこれだけでは恵信尼京都出身説を完全に退けることはできません。『恵信尼文書』が根拠とならなくなってしまっただけで、恵信尼京都出身説は変わらず存在し続けます。
そこで私が着目したのが平氏の「在庁官人の娘説」でした。前回の記事でもお話ししましたように、京の貴人は地方の在庁官人の娘婿として最高の存在でした。源頼朝が伊豆の在庁官人北条時政の娘政子と結婚したのはまさにその典型です。親鸞もこの形で恵信尼と結ばれたのではないかと私も思うのです。
また、親鸞と恵信尼は晩年、経済的な事情から別居を余儀なくされます。親鸞は亡くなるまで京に住み続けましたが、恵信尼はいつかのタイミングで京都から越後に帰り所領の管理をして生活していました。平氏によると、少なくとも20人弱の下人を所有するほどの領地を持っていたのではないかと指摘しています。これは現地に元々基盤がなければ不可能な規模ではないかということになります。
こういうわけで私も平氏の「越後在庁官人の娘説」を採用しています。
簡単にまとめますと、親鸞は越後で在庁官人の娘恵信尼出会い結婚し、その後の関東・京都生活を共にして最後は経済的な事情から別居せざるをえなかったものの、最後の最後まで愛し合っていたということになります。
ただ、先ほども述べましたように、本当のところは誰にもわかりません。資料が限られている以上、今段階ではどうしようもないというのが実情です。
ですが恵信尼という優れた妻が親鸞にはいたというのは紛れもない事実です。
私たちはつい「出自はどこだ、史実としてどうなのか」と詮索したくなりますが、信仰という面ではこういう細かいところは各々心の中にそっとしまっておきましょう。学問としては資料研究ですから決着をつけなければいけないかもしれませんが、私は僧侶です。そして皆さんの多くは歴史学者ではないと思います。わからないものはわからなくてもよいのです。困ったらそれぞれの宗派の公式見解に委ねるのもひとつです。
いずれにせよ、今井説も平説も越後段階で恵信尼と共に生活しているという点では共通しています。恵信尼が何者なのかは今もわかっていませんが、恵信尼という素晴らしい伴侶を得たというのは間違いないことです。
恵信尼のお手紙を読んでみますと、その教養の高さは明らかです。そして家のやりくりのこともかなり的確な指示を出しています。つまり、恵信尼はかなりしっかりした女性でした。
それに対し親鸞というお方は天才型です。しかも「(18)信行両座と信心争論~若き親鸞は尖っていた!?法然教団を騒がした事件とは」の記事で見ましたようにかなり尖った一面もお持ちです。常識人というよりは信念に真っすぐすぎるタイプの方だったと思われます。そんな親鸞が現実生活でうまく立ち回る姿は想像できません。まさに恵信尼はこのようなタイプの男性にぴったりの女性だったのではないでしょうか。
飛び抜けた才能を持った人間も一人では何も成し遂げられません。天才を理解し、サポートする人あっての成功です。才能があるだけではだめなのです。飛び抜けた才能の持ち主はたいてい、周りから理解されません。協調性も希薄なため、孤立してしまいがちです。しかもその才能の源泉は朝から晩まで、いや寝てる間も何かに没頭する天性の性格にあります。つまり生活能力がそもそも欠落しているのです。
この天才親鸞としっかり者の恵信尼の夫婦関係に私はロシアの文豪ドストエフスキー夫妻を連想してしまいます。詳しくは以前当ブログで紹介した「借金取りを撃退した『らんまん』の寿恵子さんとドストエフスキーの妻アンナ夫人がそっくりなのではないかという件について」の記事でお話ししていますのでそちらをご参照頂きたいのですが、天才を支える実務家の妻というパターンは古今東西見られる好相性の結婚だったのではないかと私は思います。
それを裏付けるかのように、恵信尼は夫親鸞のことを観音菩薩の化身だと思っていたようです。これは親鸞が亡くなった直後に夫のことを回想して書いた手紙にそう記されています。そして親鸞自身もかつて六角堂で観音様が妻となって生涯仕えるという夢告を受けています。互いに相手を観音菩薩様として敬いながら暮らしていたとしたらなんと微笑ましいことでしょう。親鸞自身は相変わらず自分のことは書き記しませんのでその夫婦生活の中身まではうかがいようがありませんが、恵信尼という妻を持ったことは親鸞にとって実に大きな意味を持っていたのではないでしょうか。
続く
前の記事はこちら

この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『日本中世の社会と仏教』
野口実『北条時政』
元木泰雄『河内源氏』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
大谷大学真宗総合研究所著『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』
アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー』
主要参考文献一覧はこちら

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