⑷親鸞聖人の9歳での出家~師匠は『愚管抄』で有名な天台座主慈円?

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】⑷ 親鸞聖人の9歳での出家~師匠は『愚管抄』で有名な天台座主慈円?
前回の記事までで、親鸞聖人(以下敬称略)の御誕生と優秀すぎる叔父たちをご紹介しました。
今回の記事ではそんな親鸞の仏教人生の始まりたる出家についてお話ししていきます。
本願寺の覚如(親鸞のひ孫)によって書かれた『御伝鈔』によると、親鸞は1181年、9歳の年に青蓮院にて出家の運びとなりました。

そしてその師匠が後に比叡山のトップ(天台座主)となる慈円だったと記されています。

慈円といえば歴史書たる『愚管抄』を書いた人物として有名な、当時最高の文化人のひとりです。しかも彼は摂関家の長者藤原忠通の息子であり、兄には九条兼実がいます。つまり名実ともに最高位の僧侶ということになります。
「こんなすごい人物の弟子になるなんてさすが親鸞聖人!」と言いたい所ですが、残念ながら史実としてはこれは厳しいようです。
と言いますのも、親鸞が出家した1181年当時、27歳の慈円はまだ弟子を取れるような状況ではありませんでした。他にも政治的な状況なども影響していますが、長くなってしまいますのでここでは割愛します。
いずれにせよ、歴史学的な観点から見ていくとこの慈円師匠説は否定せざるをえないということになります。
では、実際のところ誰が師匠だったのか。
残念ながらそれはわかっていません。
有力貴族の出家であれば日記などで記録も残っていたでしょうが、これまでお話ししてきましたように親鸞の一族は没落した中下級貴族です。悲しいかな、当時においては誰も気にも留めないような存在だったのでしょう。
そして親鸞は出家後、範宴という僧名を名乗ることになります。当時は師匠の名前を一字頂くという慣習がありましたので、「宴」がつく名の僧侶の下に弟子入りしたのではないかとされています。「範」の字は親鸞の父「日野有範」あるいは叔父の「範綱」から来ていると思われます。
さて、こうして親鸞は9歳で仏門に入ることとなりました。
・・・それにしても、9歳で世俗の社会を捨てて仏門に入ると聞いて皆さんはどのように感じられますでしょうか。
早い?
昔ならそんなものだったのでは?
いかがでしょうか。
実は9歳での出家は当時としてもかなり早いものだったそうです。
ではなぜそんなに急いで出家せねばならなかったのか、そこにはやはり1181年当時の時代背景が大きく絡んできます。
皆さんは鴨長明の『方丈記』を読まれたことはありますでしょうか。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」という名文で有名なあの古典です。
「そんな古典と親鸞に何の関係があるの?」と思われるかもしれませんが、この『方丈記』こそ親鸞が出家した当時の京都を知るのに格好の資料になるのです。
当時の京都は地震や大火、暴風、飢饉、戦乱によってまさに地獄のような苦しみに満ちていました。それを驚くべきリアルさで書き出したのが『方丈記』なのです。
親鸞はまさにこうした地獄の中から仏教人生をスタートさせます。
「地獄のようなこの世に本当に救いはあるのか」
これが親鸞の仏教人生の底流に流れている気がしてなりません。
次の記事ではそんな『方丈記』を題材に親鸞が出家した当時の京都の様子を見ていきます。
続く
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