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(68)1895年のエンゲルスの死と莫大な遺産について~最後まで規格外の男だったエンゲルス

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1895年のエンゲルスの死と莫大な遺産「マルクスとエンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(68)

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上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

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トリストラム・ハント『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』あらすじと感想~マルクスを支えた天才... この伝記はマルクスやエンゲルスを過度に讃美したり、逆に攻撃するような立場を取りません。そのような過度なイデオロギー偏向とは距離を取り、あくまで史実をもとに書かれています。 そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。 マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。マルクスの伝記に加えてこの本を読むことをぜひおすすめしたいです。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。

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マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために 私はマルクス主義者ではありません。 ですが、マルクスを学ぶことは宗教や人間を学ぶ上で非常に重要な意味があると考えています。 なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。 マルクス思想はいかにして出来上がっていったのか。 そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。 そうしたことを学ぶのにこれから紹介する伝記は大きな助けになってくれます。

では、早速始めていきましょう。

死期が近づいたエンゲルスの遺言~莫大な遺産の行方

快活に振る舞い、空威張りしてはいたが、エンゲルスは死期が迫り、近づいていることを感じており、自分の遺言に新たな補足はしっかりと加えていた。

いかにも彼らしく、どちらの書類も事務的で、実用的で、彼の周囲で愛情を注いでくれる人びとにたいし、驚くほど寛大なものだった。

彼の財産は八分割され、そのうちの三つはラウラ・ラファルグに、三つはトゥシーに、残りの二つはルイーゼ・フライべルガーに渡ることになった。

遺産は相続税を引いても二万三七八ポンドの価値があった(今日の貨幣で四〇〇万ドルほど)ので、これはトゥシーとラウラのそれぞれにたっぷり五〇〇〇ポンド(彼女たちの割当分の三分の一を、姉のイェニー・マルクス・ロンゲの遺児のための信託ファンドに当てたあとで)の額となり、ルイーゼには五一〇〇ポンド近い金額になった。

トゥシー、ラウラ、およびイェ二ーの子供たちは、『資本論』の販売による印税が生じれば、それも受け取ることになった。

パンプスにもたっぷりニニ三〇ポンドが遺され(その資金で彼女はアメリカへ移民した)、ルートヴィヒ・フライべルガーには医療費としてニ一〇ポンドが、そしてルイーゼにはリージェンツ・パーク・ロードの家財道具とともにそこに賃借しつづける権利が与えられた。

パンプスとパーシー、ラウラとポール・ラファルグ、それにエドワード・エイヴェリングにたいするすべての融資は返済免除になった。

何よりも重要なことに、エンゲルスはマルクスの論文に関しては、娘たちの希望に応じた。

マルクスのすべての原稿と家族の手紙が、遺作管理者としてトゥシーに手渡されることになっただけでなく、自分の手元にあるマルクス宛の手紙もすべて、、、彼女に渡すよう、彼はいまでは命じていた。

名前のわかる通信員からエンゲルス自身がもらった手紙は、それぞれに返却されることになり、残りは彼の遺作管理者であるアウグスト・べーべルとエドゥアルト・べルンシュタインに渡されることになった。

さらに、彼はべーべルとボール・シンガーにSPDの候補者を助けるための選挙運動資金として一〇〇〇ポンドを追加で割り当てた。彼の肉親の弟へルマンには、彼らの父親の油絵が手渡された。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P457-458

この箇所を読んで驚いたことにエンゲルスの遺産はなんと400万ドル、現代の日本円で軽く4億円以上もあったようです。そこにさらに様々な形の資産もあったでしょうから総額で言えばとてつもないものがあったと思われます。

そしてそれらのほとんどはマルクス一族に相続されることになります。

身近な人に対して遺産を残したいという気持ちはわかります。が、どうでしょう。ブルジョワに対して猛烈な批判を続けてきたエンゲルスとマルクスです。

そのふたりの家族は結局労働者の搾取によって得た莫大なお金を相続することになったのです。

これはどう捉えたらいいかなかなか難しい問題ですよね・・・エンゲルスは最後の最後までマルクスとともに矛盾を生きたのでありました。

1895年8月5日、エンゲルス死す

遺言が読まれる日もそう遠くはなかった。八月初めには、〈将軍〉も液状のものでしか栄養がとれなくなり、意識もうつらうつらし、話す能力も失っていた。

ベーベルが見舞いにゆくと、彼はまだ「石版を使って悪い冗談を書く」ことができた。

彼は死の床で、フレディ・デムートの本当の父親が誰であるかを、取り乱したトゥシーにチョークで書き示し、この特別な不祥事に関する自分への嫌疑を晴らした。

八月五日の午後十時過ぎに、ルイーゼ・フライベルガーが着替えのために彼のべッド脇からつかの間離れた。

彼女が戻ったときには、「すべては終わっていた」。「こうして彼は打ちのめされた」と、ヴィルヘルム・リープクネヒトは嘆いた。

マルクスとともに科学的社会主義の基礎を築き、社会主義の戦術を教えたあの巨大な知性が、ニ十四歳の若さで古典作品『労働者階級の状態』を書き、『共産主義者宣言』の共著者となった人が、カール・マルクスの分身となって国際労働者協会〔第一インターナショナル〕の誕生を手伝い、『反デューリング論』を、考えることのできる者なら誰でもわかるあの明解な科学の百科事典を執筆し、『家族の起源』をはじめ多数の著作、小論、新聞記事を書き、友人であり、助言者であり、指導者であり、闘士であった、その彼が死んだ。

葬式はエンゲルスが望んだようなものではなかった。計画では、親しい仲間だけが内輪で弔い、火葬を見届けるはずだったが、葬儀の噂が広まって八〇人近い人がロンドン・アンド・サウスウェスタン鉄道のウエストミンスターブリッジ駅にある、ネクロポリス社の部屋に詰めかけた。

エイヴェリング夫妻、ラファルグ夫妻、ロッシャー夫妻、ロンゲ家の子供たち、フライべルガー夫妻、それにエンゲルスの親戚が何人か参列したのに加え、SPDからはリープクネヒト、シンガー、カウツキー、レスナー、べルンシュタインが、オーストリアの党からはアウグスト・べーベルが、ロシア人ではヴェーラ・ザスーリチが、そして社会主義同盟からはウィル・ソーンが出席した。べルギー、イタリア、オランダ、ブルガリア、フランスの社会党からは花輪が届けられ、エンゲルスの甥のグスタフ・シュレヒテンダールとサミュエル・ムーアなどが弔辞を読んだ。非宗教的な告別式が終わったあと、エンゲルスの遺体を乗せた列車はロンドンを出発して、単線軌道を通ってウォーキング火葬場に向かった。

「イーストボーンの西で海岸沿いの断崖は徐々に高くなり、一八〇メートルほどの高さにもなるビーチーへッドの白亜の大きな岬を形成している。

てっぺんに草が生い茂ったこの場所は、最初はなだらかに傾斜しているが、やがて突然、水辺まで一気に落ち込む。下方にはあらゆる種類の窪みや散らばった固まりが見える」。

このいかにもイギリス的な場所へ、「秋のひどく荒れた日に」、エドゥアルト・べルンシュタインはトゥシー、エイヴェリング、フリードリヒ・レスナーとともに旅をした、と追想する。

これら四人の垢抜けない社会主義者たち―上品なイーストボーンには不似合いな四人組―は小舟を借りて、イギリス海峡に向かって着実に漕いでいった。

「ビーチーへッドから八、九キロほど離れた場所」で、彼らは向きを変えてサウスダウンズの見事な海岸線と向き合い、それから遺言の明確な指示に従って、フリードリヒ・エンゲルスの遺灰の入った骨壷を海に投げ入れた。

死後も生前と同様に、マルクスの栄光から人びとの注目をそらすものは何もなくなった。これほど魅力的な矛盾をかかえ、限りない犠牲を払った男には、ハイゲートの墓石も、家族の墓も、公的な記念碑もない。

晩年の短い期間、第一バイオリンを奏でたあとで、エンゲルスはオーケストラに戻っていったのである。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P458-460

なんと、エンゲルスは本人の希望により海洋散骨されることになりました。彼のお墓はこの世に存在しないのです。これには私も驚きました。無神論者としての思いがあったからでしょうか、それは「本人のみぞ知る」ですが、マルクスとは違いエンゲルスにはお墓がないというのは私にとっても強烈なインパクトを受けることになりました。

マルクスのお墓はある意味、後の共産主義者にとって聖地のようなものとなっています。マルクスの死の直後、エンゲルスが彼を神格化するような演説をしたのもまさにこのお墓においてです。

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死後においても影響力を持ち続けるためにはお墓という存在はとてつもなく大きな意味があります。

そのお墓を自分から放棄するあたり、エンゲルスらしさがあると言えるかもしれません。彼はあくまでマルクスを支える存在として死後もありたかったのかもしれません。本当のところは私にはわかりませんが、エンゲルスがお墓を持とうとしなかったというのは非常に大きな意味があるように私には思えました。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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