藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』あらすじと感想~ドストエフスキーがなぜ妻とローマに行かなかったのかを知るために読んだ1冊!
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藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』概要と感想~国家としてのイタリアの始まりは最近だった!ローマ編入も1870年!
今回ご紹介するのは2012年に講談社より発行された藤澤房俊著『「イタリア」誕生の物語』です。
早速この本について見ていきましょう。
一八世紀末、イタリア半島は小国の集合体だった。サルデーニャ王国、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、モデナ公国、パルマ公国、トスカーナ大公国、教会国家、ナポリ王国、ハプスブルク帝国領のミラノ公国…。フランス革命の風を受け、統一国家「イタリア」の実現を目指す「再興運動」の激しいうねり。大国フランスとオーストリアの狭間で、いかにして「想像の政治的共同体」は成立したのか?明治日本にも大きな影響を与えた一大政治ドラマを活写する。
Amazon商品紹介ページより
この作品では国家としての「イタリア」がいつどのようにして誕生していったかを学ぶことができます。
私たちはイタリアというと、漠然とローマやフィレンツェ、ヴェネチア、ミラノ、トリノ、ナポリなどの街を含む国と想像してしまいますが、実はそれらが一つの国として「イタリア」となったのはごく最近のことなのです。
それまでイタリアという名前はあくまで「地方としての呼び方」でしかなかったのです。イタリアという国は存在していませんでした。
あのローマでさえイタリアとなったのは1870年のことです。しかも当時ローマ周辺エリアはローマ教皇領だったため、それを没収されたローマカトリック教会はその後も強い抵抗を続けることになりました。ローマ市内において今もバチカンが国家として独立して存在しているのはこうした背景もあったのです。
さて、私がこの本をなぜ手に取ったのかと言いますと、実はロシアの文豪ドストエフスキーと関係があるのです。
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ドストエフスキーは1867年に妻のアンナ夫人とヨーロッパ旅行に出掛けます。その時のルートがベルリン、ドレスデン、フランクフルト、バーデン・バーデン、バーゼル、ジュネーブ、ヴヴェイ、ミラノ、フィレンツェ、ボローニャ、ヴェネチア、プラハ、ドレスデン(中継地点は割愛しました)になります。
ドストエフスキー夫妻はイタリアにも長期滞在しました。ですが私はこれまでずっと気になっていたことがありました。それが「なぜドストエフスキーはローマに行かなかったのだろうか」ということです。
せっかくイタリアまで来てローマに行かないというのはよくよく考えてみれば不思議ですよね。時間もお金も行こうと思えばなんとかなったのです。(もちろん賭博ですってんてんになったドストエフスキーにあるのは時間ばかりでお金はほとんどありませんでしたが・・・)
フィレンツェからローマへはそれほどの距離もありません。それこそ行こうと思えば行けたはずなのです。ですが彼らは行かなかった。それが私にとって不思議で仕方なかったのです。
私は彼の伝記や参考書などを調べたのですが、各地「なぜそこへ行ったのか」は書かれていても「なぜそこに行かなかったのか」は書かれていませんでした。八方ふさがりであきらめかけた時、ちょうど読んでいたドストエフスキー書簡集の中に思わぬものを見つけたのでした。それがこちらです。
いろんな事情のため、去年の九月に途中ふと足をとめたジュネーヴよりほか、越冬の地を選ぶことのできないはめになったのです。たとえば、パリは冬が寒いし、薪は十倍も高いし、それに概して暮らしが高くつきます。わたしたちはイタリア、つまりもちろん、ミラノへ行こうと思っていたのです(それより遠くではありません)。そこは、冬の気候も比較にならぬほど温和ですし、町も大聖堂や、劇場や、画廊などがあって、魅力に富んでいるのですが、しかし、第一に、ちょうどその時ヨーロッパ全体が、戦火に包まれそうな危険が生じたのです。しかも、火元はほかならぬイタリアなのです。身重の女にとっては、戦争の火元などに居合わせるのは、どうもあまり愉快なことではありません。
A・PおよびV・M・イワーノフ妹夫妻宛ての手紙 1868年1月1日(露暦)※新暦だと1月13日
この書簡はジュネーブから送られた手紙なのですが、「第一に、ちょうどその時ヨーロッパ全体が、戦火に包まれそうな危険が生じたのです。しかも、火元はほかならぬイタリアなのです。」という言葉に私はハッとしました。「これか!」と思わず声を上げてしまいました。
たしかにローマがイタリアに編入されたのは1870年のこと。であればこの手紙が書かれた1868年はローマ近辺もかなり危険な状況だったことでしょう。私はこの時代のイタリア情勢を知りたくて居ても立ってもいられなくなりました。そこで手に取ったのが本書『「イタリア」誕生の物語』です。
そして実際ローマ含むイタリア南部はガリバルディによる戦闘が続いていて、1867年にはローマで反乱も起きていました。なるほど、これでは妊娠中の妻を連れてローマ観光というわけにはいかなかったでしょう。
この本のおかげでドストエフスキーが避けたローマ周辺の政治状況を知ることができました。私にとって非常にありがたい1冊でした。
イタリアという国について知る上でもこの本は非常に興味深い内容が満載でした。ぜひおすすめしたい作品です。
以上、「藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』~ドストエフスキーがなぜ妻とローマに行かなかったのかを知るために読んだ1冊!」でした。
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