石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』~誤解された生涯やマタイ問題を問い直す名著!

ローマ帝国の興亡とバチカン、ローマカトリック

石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』~誤解されていたカラヴァッジョの生涯を問い直す名著!

今回ご紹介するのは2022年に平凡社より発行された石鍋真澄著『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』です。

早速この本について見ていきましょう。

「光と闇」の真実――。カラヴァッジョ評伝の決定版

バロック美術の礎を築いた革新者でありながら殺人を犯したならず者……。
巷に流布する「カラヴァッジョ神話」から、作風や生き様をわかりやすく光と闇にたとえ、評するのは容易だが、それはほんとうに正しいのか?
生涯をかけ作品に触れてきた西洋美術史の第一人者が、過去の伝記から最新研究まで丹念にひも解き、その時代の社会的背景に基づく現実的な解釈を加えながら実像に迫っていく。

カラヴァッジョは「魔性の画家」だといったが、実際、彼は美術史家たちを悩ませてきた。
カラヴァッジョをめぐる問題は、ある美術史家がいったように、しばしば「頭がおかしくなるほど」判断に迷うのだ。
カラヴァッジョという画家とその作品は、正反対の解釈や評価さえ平然として飲み込んでしまうようなところがあり、文字通り一筋縄ではいかないのである。
(本書「あとがき」より)

Amazon商品紹介ページより

この作品はローマ美術の研究者石鍋真澄氏によって書かれたカラヴァッジョの評伝になります。書名にもありますようにこの作品の特徴は「カラヴァッジョがほんとうはどんな画家だったのか」ということにスポットを当てている点にあります。

この作品は著者の次のような言葉から始まっていきます。

カラヴァッジョは、ほんとうはどんな画家だったのか。

これは美術史家としての私の切実な問いであり、本書のテーマである。カラヴァッジョの作品に魅了された者が、その生涯と作品について知りたいと思うのは当然だろう。しかし、私はここで、あえて「ほんとうは」という言葉を付した。それはなぜか。まず、その点について話さなければならないだろう。

平凡社、石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』P11

本書を始めるに当たり、まずカラヴァッジョがこれまでどのような人物として受け止められていたのかという解説をここから聞くことになります。カラヴァッジョという人物は1672年に書かれたベッローリの『美術家列伝』を基に今もその生涯や性格が描かれるのですが、まずこの列伝の内容が「カラヴァッジョ神話」の始まりだったと著者は指摘します。

べッローリのカラヴァッジョ像の要点は、次の三つの点だ。第一に無教養、第二に(天性による)自然主義者、そして第三に様式と本人の外見や気質の一致、の三つである。カラヴァッジョは単純労働をする石工の息子で、粗野で無教養な男だった。そして、その天性によって自然主義者に、つまリモデルを見て忠実に描くことのみに専心する写実の徒となった。さらにその様式は、彼の暗い容貌や粗暴な気質に呼応しているというのだ。

ベッローリはこのカラヴァッジョ伝を、親しみやすいエピソードを織り交ぜた、巧みなレトリックで書いている。すなわち、カラヴァッジョは石工の現場で漆喰を運んだり膠を作ったりする仕事から絵に関心を抱くようになり、ヴェネツィアで色彩派のジョルジョーネに感銘を受けた。ローマではモデル代が払えないのでカヴァリエル・ダルビーノの工房で働くようになったが、古代作品やラファエッロの作品を学ぶようにいわれても、群衆を指差して、自然だけが師であることを示した。そしてそれを証明するために、通りで見つけたジプシー女を招き寄せて、彼女をモデルに《女占い師》を描いた。また初めて祭壇画を描いたときには、品位もなければ聖人らしくもないといって拒否され、名声を失墜しそうになった。

こうしたよく知られたエピソードは、いずれもべッローリの創作だといってよい。一例を挙げれば、カラヴァッジョの生まれについて、マンチーニは「由緒ある市民の家系に生まれ」「父親はカラヴァッジョ侯の執事兼建築家だった」、またバリオーネは「富裕な石工(建築家)の親方の子」だと伝えている。こうした情報を知っていたにもかかわらず、べッローリはただの石工の子だとしか書いていない。べッローリにとっては、粗野で無教養な画家が、由緒ある家系の出で、侯爵の執事兼建築家の息子であってはならなかったからである(カラヴァッジョの父親はカラヴァッジョ侯の執事兼建築家ではなかったが、「由緒ある家系」の一員であった。カラヴァッジョの家系などについては第一章で詳しく述べる)。

このように、ベッローリが作り上げたカラヴァッジョ像は、今日流にいえばフェイクニュースによって描かれたものだ。それは、「カラヴァッジョ神話」とでも呼ぶべき歪められたイメージなのである。カラヴァッジョは確かに天与の才に恵まれていたが、美の理念なしに自然を写すだけの自然主義者であり、教養もない野卑で粗暴なヴィラン(悪党)画家だったといったイメージである。

この「カラヴァッジョ神話」はその後のカラヴァッジョ像の基礎となり、カラヴァッジョの人格と作品の見方に影響を及ぼし続けた。こうした負の神話が生き続けたのは、一つには、彼の作品の写実描写と明暗法が、野卑で粗暴な性格と深く関係している、とするべッローリの主張がもっともらしく思われたためであるが、今もなお、われわれはこの「カラヴァッジョ神話」の呪縛から解放されていないのではないだろうか。

平凡社、石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』P13-14

現在でも語られているカラヴァッジョ像が「フェイクニュース」のようなものだったというのは驚きですよね。ですがその歪められたカラヴァッジョ像があまりにわかりやすく面白いことからその影響をいまだに脱することができていないというのも衝撃でした。

そして著者は序章の最後をこう締めくくります。

本書で私がもっとも重きを置くのは、彼の生涯の詳細とパトロンとなった人物や作品制作の背景についてである。時代と社会の中のカラヴァッジョを明らかにすることだといってもいいだろう。それが、カラヴァッジョとはどのような画家だったのかを知ることであり、少なくとも、その基礎となるべきことだと考えるからだ。だから、資料などからわかることと、単なる推測とを、できるだけ明瞭にするように努める。こんなことをわざわざ述べるのは、カラヴァッジョに関しては、事実と推測や仮説とが節操なく語られているのが実情だからである。また、生涯に関しては、マイクロヒストリー的に、ささいな事実にも言及するつもりである。作品を見て考えるだけでは、われわれは恣意的な理解に陥りがちだ。そこから救ってくれるのは、結局のところ、そうしたささいな事実であるに違いない、と考えるからである。

良識ある読者は、「カラヴァッジョの真実」などありえない、というかもしれない。確かに、その通りだ。せいぜいのところ「私が受け止めた」真実でしかありえないだろう。しかしそれでも、それを目指して進むことは誤りではないだろう。カラヴァッジョの作品が感動的であり偉大であることは、議論の余地がない。彼が、イタリアが生んだもっとも偉大な画家の一人であり、イタリア美術史、そしてヨーロッパ美術史を理解するための鍵となる人物であることを疑う者はないだろう。カラヴァッジョがどんな人間で、どんな生涯を送ったにせよ、その評価が揺らぐことはない。だからこそ、いっそう、カラヴァッジョの真実が求められるのである。

平凡社、石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』P16-17

「カラヴァッジョに関しては、事実と推測や仮説とが節操なく語られているのが実情だ」という著者の指摘はドキッとするものがありました。と言いますのも、これまで私もいくつかカラヴァッジョについての本を読んできたからです。

案の定、この本では「え!?そうなの!?」という事実がどんどん出てきます。

著者は近年発見された新資料や最新の学説を基に丁寧にカラヴァッジョの生涯や時代背景を追っていきます。「作品を見て考えるだけでは、われわれは恣意的な理解に陥りがちだ。そこから救ってくれるのは、結局のところ、そうしたささいな事実であるに違いない、と考えるからである。」と著者が述べるように、証明された細かい事実をベースにこれまでの誤解を解いていきます。

その中でも特に印象に残ったのは有名なカラヴァッジョの殺人事件の真相についてのお話でした。カラヴァッジョは怒りに任せて殺人を犯し、その後逃亡しながら悲惨な最期を迎えたというように語られがちですが、これが時代背景やその他の資料を綿密に見ていくと全く違った事情が見えてくるようになります。

わかりやすくて単純で刺激的なエピソードはたしかに面白いです。ゴシップ的に語られるカラヴァッジョ像はたしかに私たちにとって魅力的です。ですが本当はどうだったのか。こうした事実と神話のずれを著者は私たちの前に示してくれます。これは目から鱗。思わず声が出てしまうほどの読書になりました。

そしてもう一点。これもショッキングなお話でした。有名なマタイ問題についての著者の指摘です。

カラヴァッジョ『聖マタイの召命』1599-1600年、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会Wikipediaより

マタイ問題はその名の通り、「キリストに指差されたマタイはこの絵の中で誰なのか」という問題です。

この絵が描かれてから現代に至るまで、キリストに指差されたマタイは黒い服のひげを生やした男性だとされてきました。

ですが、そうではなく一番左のうつむいてコインを数えている若い男こそマタイではないかと1980年代にドイツの研究者が問題提起したのが始まりになります。

そしてここから日本でのマタイ問題について語られます。

そのうち、この新解釈に触発された論文が少なからず書かれ、マタイはだれか、という「マタイ論争」が起こった。その詳細は書かないことにするが、日本では中村俊春が一九九〇年にこの議論を紹介し、宮下規久朗がニ〇〇一年と〇四年に独自の考察を加えて若者説をとる論文を書いた。宮下によれば、「キリストの声を聞いた瞬間に男(若者)の内面で静かに起こったドラマ」こそが、この絵のテーマなのである。宮下は多くの著書でこの解釈を繰り返したので、日本では左の若者がマタイだという解釈が主流のようになっている。

平凡社、石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』P190

これを読んで私はドキッとしました。実は私も宮下規久朗氏の本を読んでいて、マタイがその若者だと思い込んでいたのです。ですがここから著者は丁寧にこの問題についての回答を述べていきます。これを読んでいくと「あぁ、やはりマタイはこの若者ではなかったのだな・・・」と納得することになります。

たしかに宮下氏の説のように若者がマタイのようにも見えなくもないのです。ですが当時の時代背景や資料精読を通して絵を見ていくとやはりひげの男がマタイということになっていきます。宮下氏の説を聞いてかつて「おぉ!そうなんだ!面白い!」となった私でしたが「おぉ・・・そうなのか・・・」と今回正直がっかりした面もありますが、学問や研究というのはそういう世界なのだなと強く感じました。

石鍋氏も宮下氏を全否定しているのではなく、この説は間違っていると指摘しているだけです。学問の世界、研究の世界はこのように問題提起、議論、批判を通してどんどん進んでいきます。こうしたやりとりを感じることができるのもこの本の魅力だなと思います。

この作品はカラヴァッジョの生涯や特徴を時代背景と共に見ていける貴重な作品です。とても刺激的で興味深い作品でした。カラヴァッジョや当時の時代背景を知りたい方に特におすすめしたい名著です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「石鍋真澄『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』~誤解された生涯やマタイ問題を問い直す名著!」でした。

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