モンテーニュ『旅日記』~『エセー』で有名な16世紀フランス人思想家のイタリア紀行!16世紀末のローマを知れる貴重な文献

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モンテーニュ『旅日記』概要と感想~『エセー』で有名な16世紀フランス人思想家のイタリア紀行!16世紀末のローマを知れる貴重な文献

今回ご紹介するのは1992年に白水社より発行されたモンテーニュ著、関根秀雄、斎藤広信訳の『モンテーニュ旅日記』です。

早速この本について見ていきましょう。

1580年、モンテーニュは『エッセー(随想録)』初版を完成するや、パリに出て国王に自著を献呈し、そのままスイス、ドイツを経てイタリアへ旅立った。イタリアのガラヴィーニ女史による綿密な本文校訂と詳細な注に基づく新版旅日記。

Amazon商品紹介ページより
モンテーニュ(1533-1592)Wikipediaより

モンテーニュは16世紀フランスに生きた哲学者で、主著『エセー』が特に有名です。

そんな彼のイタリア旅行の記録が今回ご紹介する『旅日記』になります。16世紀末のローマを知る上でこの作品は非常に貴重な資料となります。

この作品について本書の解説では次のように述べられています。少し長くなりますがこの本について非常にわかりやすくまとめられていますのでじっくり読んでいきます。

モンテーニュは生まれつき旅が好きであった。これまでにも、国内では度々公私の旅をしている。特に一五七八年に腎臓結石の最初の発作に見舞われてからは、バルボタンやプレシャックの温泉にもっぱら湯治の旅をしている。だが、外国旅行はこんどが始めてである。彼はすでに老いかつ病んでいるのに、交通機関も発達していない当時、遠くローマまで出向いたのは、ただ単に彼の旅行好きのせいであったろうか。

モンテーニュの旅の動機として最も自然に考えつかれることは、当時のルネサンス人が誰しも心に抱いていた、ユマニストの故郷イタリアの空へのあこがれである。特に幼少の頃から書物を通して古代の人たちに親しんできたモンテーニュにとって、イタリアとりわけローマは確かにあこがれの土地であったにちがいない。(中略)

われわれはこの『旅日記』の中に、モンテーニュその人を実によく見ることができる。そこには最もくつろいだ、誰に遠慮も気兼ねもしない、ありのままのモンテーニュがある。その生来の愛すべき稚気、つまらぬ虚栄がさらけ出されているところもある。いわばシャツ一枚のモンテーニュが、すなわち『随想録』の著者でもなければ哲学者でもない、むしろただの田舎貴族の、ただの大地主の、ミシェルのありのままの姿が、ここにしばしば見られるのである。(中略)

『旅日記』のもう一つの価値は、十六世紀後半のヨーロッパ諸国の都市の様子や人々の暮らしや風習など、いわば当時の生きた社会をじかに垣間見ることができることにある。

例えば、スイスやドイツでは、暖房にシュミネ(壁暖炉)ではなく。プワル(ストーブ)を備えているとか、寝具には羽根布団を使用している、という記述がある。ルター派の教会で見たごく普通の結婚式の様子も記している。イタリアの都市で娼婦たちの許を訪れた時の印象記もある。ローマでは、法王のおみ足に接吻する儀式をはじめ、罪人カテナの処刑、悪魔祓い、ユダヤ人の割礼の儀、自ら鞭打つ苦行僧の行列など、いずれもその様子を詳細に記している。

あるいは、フランスびいきの都市とか、フランス派とスペイン派とに二分されている都市とかの記述は、当時のヨーロッパの政治情勢の一端を伝えるものとして興味深い。また各地の温泉と湯治の様子は、特にわれわれ日本人には面白く読まれるであろう。

モンテーニュの飽くなき好奇心は、建築・彫刻あるいは変化に富んだ風景や工夫をこらした庭園など、あらゆる美しいものの見物に彼をかりたてている。ルネサンス以後のイタリアに旅しながらモンテーニュはルネサンス美術を空しく看過した、ラファエロやミケランジェロの名一つ挙げていない、と指摘する人もいるが(スタンダール Stendhal、シャトーブリアン Chateaubriand’等)、それは後世の、ロマン主義以降の人たちの批判であって、彼は当時の美術作品にも決して無関心であったわけではない。(彼はミケランジェロの名もその作品も挙げている。)今日ルネサンス美術に出てくる芸術家の名前こそ挙げていないが、すぐれた作品そのものに対する彼の関心は「日記」中に読まれるとおりである。
※一部改行しました

白水社、モンテーニュ、関根秀雄、斎藤広信訳『モンテーニュ旅日記』PⅫ-ⅩⅧ

モンテーニュがローマに旅をしたのは一七世紀の末。後年同じようにローマに憧れてやって来たのがあのゲーテであり、そこから生み出されたのが『イタリア紀行』でした。

文学者によるイタリア旅行記と言えばまずこのゲーテの『イタリア紀行』が最も知名度、影響力があるのではないでしょうか。また、前回の記事で紹介したアンデルセンの『即興詩人』もある意味彼の「イタリア紀行」と言うことができます。

こうしたローマの「旅もの」の先駆的作品がまさに本書『旅日記』になります。

上の解説にありましたようにモンテーニュは素朴に、率直にローマの印象を綴っていきます。と言うのも、元々は出版の意図はなく、まさしく自分のための日記としてこれを書いていたからです。この作品が世に出たのはなんと彼の没後182年を経た1774年だったそうです。

こうした出版意図のない書き物ということで、モンテーニュの飾らない素の言葉を私達は目の当たりにすることになります。

とはいえ、ヨーロッパを代表する思想家モンテーニュの筆はさすがの一言。彼の観察眼は並大抵のものではありません。世界の首都ローマを彼はどのように見たのか。そして16世紀末のローマの様子はどんなものだったのかを彼は語っていきます。

16世紀末のローマは当然ながら今とは全く違った風景です。さらに言えばゲーテやアンデルセンらが見た景色とも全く異なった状態です。

今の美しいバチカン周辺の街並みは実は17世紀に入ってからの都市改造、さらにはベルニーニの設計によるものが大きいです。ですのでそれ以前に訪れたモンテーニュは今では到底見ることのできない、かつてのバチカンを見ていたことになります。フォロ・ロマーノも現在のように発掘されず、野ざらし、いや、土に埋まったままの状態でした。

そんな私たちが思い浮かべるようなローマとはまったく違った世界を見たモンテーニュの貴重な言葉を聞けるのが本書になります。

私もローマを学ぶまでこの作品のことは全く知りませんでしたが、ローマやバチカンのことを知るのに非常に興味深い内容が満載の素晴らしい作品でした。やはりモンテーニュ恐るべしです。

以上、「モンテーニュ『旅日記』~『エセー』で有名な16世紀フランス人思想家のイタリア紀行!16世紀末のローマを知れる貴重な文献」でした。

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