トルストイ『襲撃(侵入)』あらすじと感想~戦争に正義はあるのかと問う若きトルストイのカフカース従軍

ロシアの巨人トルストイ

トルストイ『襲撃』あらすじと感想~戦争に正義はあるのかと問う若きトルストイのカフカース従軍

今回ご紹介するのは1852年にトルストイによって発表された『襲撃』です。私が読んだのは河出書房新社より発行された中村白葉訳『トルストイ全集2 初期作品集(上)』1982年第4刷版所収の『侵入』です。(全集では翻訳の関係で『襲撃』が『侵入』という題になっています。)

早速この作品について見ていきましょう。

トルストイはこの作を一八五二年の十二月カフカーズで脱稿して、すぐさま雑誌「現代人」へ送った。処女作『幼年時代』、『地主の朝』のつぎに来た、この人の第三作に相当する。

彼は、カフカーズへ来てまだ間のないころ、兄にしたがってスタールイ・ユルトに滞在中、志願兵の資格で侵入に参加したことがあったが、この作はまさしくその時の体験から生まれたものといっていいであろう。

量からいっても質からいっても、数ある文豪の作品中では、かくべつ主要な地位を占めるものとは言いがたいけれども、彼のカフカーズ時代を代表する作品の一つとして、また、後年この人の牢乎たる特質となった諸条件を、芸術的にも思想的にも、小さいながらにあまさず具現している点において、かなり興味ある作品である。

内容は、カフカーズ駐屯軍の一隊が、ほとんどその年中行事ともいうべき敵地侵入を敢行して略奪をほしいままにし、帰途、カフカーズ戦争の特色である敵の追撃をむかえて退却戦をおこないながら、凱歌を奏してひきあげる―このニ日間のできごとを、なんの奇もなく、順を追って叙述したものにすぎないが、その境がすでに常凡の域を超越した、戦争という冒険生活のひとこまである上に、それを描きだすぺンがまた霊活をきわめて、山地の日の出日没、山や谷をこめる霧の浮動、影と音とによる神秘的な夜景画等、景観の美をもって鳴るその舞台を、絵画的・音楽的にまで紙上に再現させているあたり、後来『戦争と平和』にあらわれる戦争描写のみごとな模型を見せているばかりでなく、ひとりひとり生きいきと描きわけられている人物のタイプにも、それぞれあの特色あるトルストイの目が光っていて、読者につきせぬ興昧をあたえる。

河出書房新社、中村白葉訳『トルストイ全集3 初期作品集(下)』1980年第3刷版所収、巻末解説P433-434

この作品は1851年にカフカースに向けて出発し、従軍経験をした若きトルストイによる実体験をもとにした小説になります。

トルストイとカフカースについては前回までの記事でお話ししました。

カフカースはロシア語読みで、コーカサスという英語読みの方が私たちには馴染み深いかもしれません。

コーカサス山脈 Wikipediaより

トルストイは雄大なカフカースを訪れ、従軍することになります。

そして上の作品解説にありますように、トルストイも従軍したロシア軍は敵であるカフカースの村を襲撃します。

その襲撃と敵からの反撃を題材にしたのがこの小説の大筋なのですが、この小説の始まりからして私は驚いてしまいました。その箇所を引用します。

戦争はいつも私に興味があった。しかしそれは、えらい将軍との対戦といったような、大きな戦争の意味ではない―私の想像は、そうした厖大な行動をあとづけることを拒絶する―だいいち私には、そういうことはわからないので、私に興味のあるのは、戦争の事実そのもの―つまり殺人行為だったのである。私にとっては、どんなふうにして、またどんな感情の影響のもとに、ひとりの兵隊が他の兵隊を殺したかを知ることのほうが、アウステルリッツとかボロジノとかの戦争で、軍の配置がどうであったかということより、はるかに興味があったのである。

河出書房新社、中村白葉訳『トルストイ全集2 初期作品集(上)』1982年第4刷版P264

これはこの後10年以上も後に書かれることになるあの大作『戦争と平和』にまさしく直結する考え方になります。

トルストイは作家デビュー間もなく、すでにこうした考え方を持ちカフカースでの日々を過ごしていたのです。これは驚くべきことです。

そしてもう一つ、晩年のトルストイの戦争観につながる言葉もこの作品で述べられています。これがまた興味深いので紹介します。

戦争?なんという不可解な現象であろう?理性が自分に向かって―それは正しいことであるか、必要なことであるか?こういう問題を課するばあい、心内の声はつねに答える―否と。ただこの不自然な現象のひとつの持続性が、それを自然らしく、自己保存の感情が、それを正当なものとするのである。

ロシヤ人対山人の戦争において、自己保存の感情から流れ出た正義が、わがほうにあることをだれが疑うであろう?

もしこの戦いがなかったら、何が隣接した富裕な、ひらけたロシヤの領土を、野蛮で好戦的な国民の掠奪や、殺害や、襲撃から保証するか?

しかしここにはまず、双方の個人を例にとってみよう。はたしてどちらのがわに自己保存の感情、すなわち正義があるか。

あのぼろ服をまとったどこかのジェミー―ロシヤ人の接近を知って、呪いの言葉とともに壁から旋条銃をとりおろし、容易にははなたぬ三、四発の弾薬を用意して、異端者どものほうへ駆け出し、ロシヤ人が依然として前進をつづけ、彼らの播きつけた畑へ踏みこんでそれを荒らし、彼の小屋を焼き、彼の母や妻子が恐れにふるえながらかくれている谷間のほうへ進んでくるのを見て、これでは自分を幸福にしてくれるものをなにもかもとり上げられてしまうのだと考え―力ない憤怒に絶望の叫びを上げて、まとっていたぼろぼろの外套をかなぐり捨て、銃を地べたへたたきつけて、帽子を目の上まで引きさげ、臨終のうたをうたって、短剣さか手に、死にもの狂いにロシヤ兵の銃剣のなかへとびこんで行く男のほうにあるか?

それともまた、将軍の幕僚のひとりで、私たちのそばをとおりすぎるたびにいかにもうまくフランスの歌をうたう、あの将校のほうにあるのか?彼はロシヤ本国に家族を持ち、親戚を持ち、友人を持ち、百姓を持って、彼らとの関係ではいろんな義務を持っているけれども、山人と戦うべきなんの理由も希望も持ち合わせてはいないくせに、カフカーズへやって来た男である……ただ漫然と、自分の勇気を示したいばかりに。

それともまた、これもやはり、ただすこしも早く大尉に昇進して、いい地位にすわりたいと、そればかり望んでいて、こんどほんの偶然に山人どもの敵となったような、私の知人の副官のほうにあるのだろうか?
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉訳『トルストイ全集2 初期作品集(上)』1982年第4刷版P279

ロシア軍はカフカースに生きる人々の村を襲い征服していきます。そしてそれはロシアの国土を攻撃してくる「山人」をやっつけるためだと言います。つまり「我々こそ正義だ」と言い、村々を侵攻していきます。

ですがカフカースに住む人からすれば、いきなり攻めてきて村を焼き払い、多くの人を殺し、略奪をほしいままにするロシア人をどう思うでしょうか。

抵抗しなければ殺される。そうした状況に置かれたカフカースの人々は必死で抵抗します。

それに対しロシアの士官たちはどんな理由があって戦いに来たのか。

トルストイは上の箇所で痛烈に問うています。

トルストイはこの時のカフカース体験に大きな影響を受けています。彼は晩年になると特に強く戦争反対、非暴力を主張します。

それはこの時に感じた戦争への疑問が残り続けていたからかもしれません。

トルストイにおけるカフカースの意味を考える上で、この作品は大きな意味を持っているのではないかと私は感じています。

以上、「トルストイ『襲撃(侵入)』あらすじと感想~戦争に正義はあるのかと問う若きトルストイのカフカース従軍」でした。

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