トルストイとカフカース(コーカサス)の強いつながり~圧倒的な山岳風景とトルストイの軍隊経験

ロシアの巨人トルストイ

トルストイとカフカース(コーカサス)の強いつながり~圧倒的な山岳風景とトルストイの軍隊経験

今回の記事ではトルストイの作家人生に巨大な影響を与えたカフカースについてお話ししていきます。

カフカースはロシア語読みで、一般的には英語読みのコーカサスの方が知名度は高いかもしれません。

Wikipediaより

カフカースは上の図に示された地域を指します。そしてその中でもジョージア(旧グルジア)北部にあるコーカサス山脈はこの地方を代表する景観の一つとして知られています。

コーカサス山脈 Wikipediaより

トルストイは1851年、23歳の年にこのカフカースを訪れています。

この圧倒的な自然やそこで出会った人々、命を懸けて戦った経験が彼の文学に大きな影響を与えています。

これより藤沼貴著『トルストイ』を参考にトルストイの「カフカース体験」を見ていきます。

トルストイの人柄や文学の特徴を見ていくためにもこれらは非常に参考になります。

では早速始めていきましょう。

トルストイの出発

トルストイは五一年四月二十九日、ヤースナヤ・ポリャーナを出発して、カフカースへ旅立った。カフカースの軍隊から一時帰省していた兄ニコライが軍務にもどる時、いっしょについて行ったのだ。

九七~九八ページで書いたように、当時カフカースに行くのは容易なことではなかった。行く以上相当な理由があったはずだ。

この場合、まず考えられるのは、いっさいの過去のしがらみを断ち切り、現在の行きづまりを打開するための脱出ということである。

トルストイは生涯で何度も過激な「脱出」を試みた。一八四七年四月の大学中退・帰郷の行為もそうだし、一九一〇年の死出の旅路となった家出もそうだった。

カフカース行きは、借金で首がまわらなくなり、事業にも失敗した若者が「夜逃げ」をして、異境へ消えたのだ、とも言える。しかし、トルストイの場合、数度の「脱出」のうちマイナス要素しかなかったものは一つもない。また、いくつかの「脱出」がそれぞれ違う特徴をもっていて、同じものはない。カフカース行きをトルストイによくある「脱出」の行為と言って片付けずに、もう少しこまかく見る必要がありそうだ。

カフカース行きの前、トルストイは前章の最後で述べたように、すでに文学創作の道に踏みこんでおり、遅まきながら自分の文学的才能にも気づいていて、作家としてなんとか立っていけるのではないかという曙光を見ていた。それでいながら、書斎に入り、拭き清めた机の前にすわるかわりに、馬車に乗り、船に乗り、馬にまたがって遠くカフカースに行った。

大学中退・帰郷の時も、たしかに「地主の義務をはたす」「自分をしっかり形成する」といった前向きの目的はあった。しかし、それは目的というよりむしろ理想で、まだはっきりした形はなかった。

それにひきかえ、カフカース行きの時は、トルストイはもう出版を予定した「私の幼年時代」の原稿を、つまり、手で触れることのできる確実な「物」を旅行カバンに入れていた。とすれば、何のためにわざわざ遠くて、つらいカフカースまで行く必要があったのか。

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P138-139

トルストイのカフカース行きは単なる逃避ではなく、何らかの思いや「突き動かされる何か」があった。

そして実際に彼はこの地で「その何か」を掴むことになります。

旅を楽しむトルストイ

ヤースナヤ・ポリャーナからカフカースまでは直線距離にしても約二千キロ。トルストイはヤースナヤ・ポリャーナからツーラに出、モスクワを経由してカザンに行き、そこに一週間滞在してから、サラトフに到着した。ここまでは馬車を使ったのだろう。モスクワ・ぺテルブルク間に鉄道が開通したのかちょうどこの年(一八五一年)だから、モスクワより東にまだ汽車はなかった。

サラトフからは船に、それも、大きな客船ではなく、わざわざやとった小舟に乗ってヴォルガ川をくだり、終着港であるカスピ海沿岸のアストラハンに着いた。その後はいよいよカフカース。悪路を馬で越えながら目的地のスタログラドコフスカヤにたどり着いたのはカザンに滞在した一週間を差し引いても、二十五目、距離にすれば二五〇〇キロにおよぶ旅程だった。

現代のわれわれには耐えられない、長くてつらい旅行だが、六一~六ニぺージでも書いたように、当時の人にはこの程度の旅はおどろくに当たらない。まして、トルストイは旅行好きだ。途中いやなこともあったが、大体は長旅を大いに楽しんだ。

大学中退・帰郷の時は肩をいからせ、勢いこんでいたトルストイだが、今度はそのような気負いが見られない反面、しっぽを巻いた負け犬のうらぶれた姿もない。出発直後モスクワで兄ニコライといっしょに撮影した写真を見ると、兄のほうは背をかがめて、さびしそうな様子をしているのに、トルストイは胸を張って、いばった顔つきをしている。

かれはカザンに一週間滞在したが、この予定外の長居の原因は、そこで偶然会った感じのいい若い女性ジナイーダ・モロストーヴァに一目惚れしたことだった。惚れっぽくて、思いこみの強いトルストイのことだから、いきなり愛を告白しようとまで考えたが、さすがにできなかった。

五月三十日、スタログラドコフスカヤに到着するとすぐ、かれはモロストーヴァ家と親しい(のちにジナイーダの妹と結婚した)友人のオゴーリンに、こんな戯れ歌のような手紙を送った。

 オゴーリンさん!
 大急ぎで
 手紙で知らせてね、
 皆さんのことを、
 お嬢さんの
 モロストーヴァのことも。
 お願いします
           レフ・トルストイ

そして、トルストイはジナイーダのことをその後何度も思い出したばかりか、この淡い想いを一生忘れなかった。

これも追いつめられて鬱状態になり、蒸発しかけている人間の言動ではない。トルストイはカフカースへ気軽な旅行に行くつもりで、長期間そこで生活したり、勤務したりするつもりはなかったのだろうか?

確かにはじめは、カフカース周遊という気楽な考えもあったようだが、出発の時点では、カフカース行きを生活全体に変化をもたらすかもしれない重要なものと考えていたようだ。
※適宜改行しました

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P139-141

カフカースへの旅程がまた凄まじいですよね。著者が述べるように現代人にはまず耐えられないような過酷な旅です。トルストイがいかに頑健な体だったかがうかがえます。

そしてトルストイの一目惚れのエピソードもトルストイらしさがすでに出ているように感じられました。

カフカースでの閃き

スタログラドコフスカヤに到着してからちょうど一か月後の六月三十日に、トルストイは日記にこう書いた。「どうして私はここへ来てしまったのか?わからない。何のために?答えは同じだ」

これを気楽な旅行者の言葉と考えることは不可能だ。何か一つのことをしてしまった者が、ふとわれに返って発した言葉と受け取れる。人間は重大な場合にかぎって、分析や判断より、直感で行動する。しかし、冷静になって、あらためて自分に問い直してみると、自分の行動の意味が自分にもよくわからなかったりする。トルストイのカフカース行きもそのたぐいのものだった。

カフカースに来てから半年あまりたった十一月に、トルストイはタチヤーナおばさんにあてたフランス語の手紙で、この行為は「coup tie tête(ぱっと頭にうかんだもの)」と書いていた。トルストイの記憶は半ば空想的で当てにならないが、これは到着直後の「どうして私はここへ来てしまったのか?わからない」という言葉と符合しているので、真相を伝えているに違いない。

しかも、トルストイは自分の行動を直感的で、衝動的だと認識しながら、その行動が間違っていなかったことも直感していた。coup de têteという語の前後もふくめると、タチヤーナおばさんあての手紙にはこう書かれていた。「いずれにしても、私はカフカースに来たことを決して後悔しないでしよう―それはcoup de têteですが、私のためになるものなのです」

実際、さんざん考え、理性と哲学を基盤にし、マニフェストまで用意して決行されたカザンから郷里への「脱出」はたちまち挫折したのに、「ぱっと頭にうかんで」即行された郷里からカフカースへの「脱出」は、トルストイ自身とその生活に根本的な変化を生じさせ、その後のトルストイを形成する重要なものになった。

カフカースに来てからも、トルストイは相変わらず次の日の日課を作っては実行しなかったり、ギャンブルで負けて借金をこしらえたり、いかがわしい女たちと付き合ったりしていた。しかし、カフカース行きの前と後では、トルストイの生活に明らかな違いが生じていた。

しかし、それについて語る前に、カフカースで展開されていた血なまぐさい戦いと、そのなかでのトルストイの活動を見ることにしよう。
※適宜改行しました

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P142-143

トルストイはカフカースの地で様々な経験をすることになります。

そしてそれらの体験が彼の名作『コサック』や数々の短編小説となって結実します。

トルストイ初期の作品はそのほとんどが実体験と密接に繋がっています。

ですのでこれからの記事ではそれらカフカース体験によって生まれた作品たちを見ていくことで、トルストイにとっていかにカフカースが巨大なものだったかを考えていきたいと思います。

そして上の引用の最後に、「しかし、それについて語る前に、カフカースで展開されていた血なまぐさい戦いと、そのなかでのトルストイの活動を見ることにしよう。」と述べられていたように、まずは次の記事でロシアとカフカースの歴史について見ていきます。

なぜロシアの軍隊はカフカースへ向かったのかという歴史背景を知ることでトルストイの置かれた状況がよりわかりやすくなります。

ではこの記事の最後にトルストイが訪れたカフカースの道を紹介して終わりにしたいと思います。

ジョージアの軍用道路

Wikipediaより
Wikipediaより
Wikipediaより

ジョージア軍用道路は、1799年に帝政ロシア軍が古来の街道を軍用車用に整備した道路で、大コーカサス山脈を越えてロシアのウラジカフカス(「コーカサスを征服せよ」という意味)とトビリシの約200kmを結んでいる。ときに貿易の道として、またときに侵略者の道として、地域の歴史に重要な役割を果たしてきた。同時に風光明媚なことでも知られ、プーシキンやレールモントフといったロシアの詩人たちを魅了してきた。

そんな軍用道路も、今はすっかり観光道路となって世界各国の観光客を魅了している。カズべギまで全行程が舗装され、道中も快適だ。途中のグダウリや終点のカズベギにはホテルやゲストハウスも多く、泊まりがけで行ってもいいだろう。

ちなみにカズべギの町の名は、近年革命前の「ステパンツミンダ」に戻されたが、いまだにカズベキと呼ばれるほうが一般的なので、ここでもそのようにする。

ダイヤモンド・ビッグ社『地球の歩き方A31 ロシア ウクライナ ベラルーシ コーカサスの国々 2018~2019年版』P422

なんと、トルストイやプーシキンが歩いた行程が今や人気の観光名所となっているそうです!これはぜひ行ってみたくなりますよね!

そしてこの軍用道路を含めたカフカース、ジョージアについて非常に充実したサイトがありますのでここでご紹介します。

小山のぶよさんの『さぼわーる』というサイトの中にあるページなのですが、これがまたすごいんです。

現地に長く滞在しているからこその濃い情報が山ほどあります。

読んでいるだけで旅行気分になれる楽しいサイトですのでぜひぜひおすすめしたいです。

私もいつも参考にさせて頂いていて、もう現地に行きたくて行きたくてうずうずしています。

上のTwitter記事をクリックして頂ければすぐに軍用道路の記事に飛べますのでぜひご覧になって頂けたらと思います。

では、次の記事ではロシアとカフカースの戦争の歴史についてお話ししていきます。

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