V・ザスラフスキー『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』あらすじと感想~ソ連が隠蔽した大量虐殺事件とは
ヴィクトル・ザスラフスキー『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』概要と感想
今回ご紹介するのはみすず書房より2010年に出版されたヴィクトル・ザスラフスキー著、根岸隆夫訳の『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』です。
この本を読むきっかけとなったのは2019年の私の旅でした。
私は2019年にアウシュヴィッツを訪れるためにポーランドのクラクフへ向かいました。
そして帰国後に北海道ポーランド文化協会の方とお話しする機会があり、その時にカチンの森事件のことを知ったのでありました。
第二次世界大戦中に起きたポーランドでの虐殺事件。大戦中の虐殺というとアウシュヴィッツのホロコーストがまず浮かんできがちですが、ソ連による虐殺も実はたくさんあったということを知りました。
そしてソ連史、特に独ソ戦を学んでいる今こそ改めてカチンの森事件について学びたいと思いこの本を手に取ったのでした。
では、この本の内容について見ていきましょう。
1939年8月の独ソ不可侵条約、それにもとづく両国の相次ぐポーランド侵攻、こうして第二次大戦ははじまった。
1940年春、ソ連西部、スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連秘密警察は約4400人のポーランド人捕虜将校を銃殺した。犠牲者数は、同時期に他の収容所などで殺されたポーランド人と合わせて22,000人以上。職業軍人だけでなく、医師、大学教授、裁判官、新聞記者、司祭、小中学校教師など、国をリードする階層全体におよんだ。
しかしソ連は、犯人はドイツであると主張。さらに連合国もすべてソ連の隠蔽工作に加担し、冷戦下も沈黙を守りつづけた。
ソ連が事実を認めたのは1990年、ゴルバチョフの時代。92年になるとスターリンの署名した銃殺命令書も閲覧可能になる。
スターリンが、ボーランドという国自体を地図から抹消しようとした理由は何か。
なぜゴルバチョフは、もっとも重要な文書の公開に踏み切れなかったのか。著者は簡潔にバランスよく、独ソ不可侵条約とカチン虐殺の関係、欧米列強の対応と思惑、歴史家の責任、さらにはカチンに象徴されるソ連全体主義の根本的を問題と、ふたつの全体主義国家(ナチ・ドイツとソ連)の比較まで、最新資料を駆使しながら解析する。
日本では類書はきわめて少ないが、欧米では蓄積がある。本書はそのなかでも決定版として評価が高い。今後、20世紀ソ連の全体主義見直しのなかで、ますます重要度を増すことだろう。 2008年、ハンナ・アーレント政治思想賞を受賞。
Amazon商品紹介ページより
カチンの森で見つかった大量の遺体。巨大な穴に埋められた遺体は銃殺されたポーランド将校たちでした。
ソ連は1939年独ソ不可侵条約に基づき、ポーランド東部を自国の支配下に置いていました。
そして戦後のポーランド支配を睨み、ソ連は国の指導者層の抹殺を目論んだのでした。軍の将校は当然、軍を指導する立場の人間です。そのため、彼らがいなくなれば軍は顕著に弱体化します。将来、いや今もソ連に抵抗する可能性のあるポーランド軍を弱体化させることはソ連にとって非常に重要な問題でした。
そして上の引用にもありますようにカチンの森以外の場所でもたくさんの方が犠牲になっています。
「職業軍人だけでなく、医師、大学教授、裁判官、新聞記者、司祭、小中学校教師など、国をリードする階層全体におよんだ。」とありますように、国を支える知識人層、文化人が標的にされたのです。
ある国を支配するためにはまずはその国の文化や制度を支える知識人層を殺す。そうすることで国を守ろうにもリーダーがいないポーランド人は抵抗することができないだろうということなのです。
実はこれはソ連自身が自国民に対して行ったことでもあります。ソ連は知識人や高級将校を大量に粛清しています。ロシア正教もレーニン時代から継続して弾圧されています。
スターリンに歯向かう可能性のある者は根こそぎ粛清し、スターリンに忠誠を誓う者しか生き残れませんでした。そうすることでスターリンは圧政を続けることができたのです。(このことについては以前紹介したノーマン・M・ネイマーク著『スターリンのジェノサイド』に詳しく説かれています)
そしてこの本で興味深いことがもうひとつあります。上の引用の後半部分にありますように、ソ連はこの事件の全貌を隠蔽し続けました。
そしてさらに不都合なことに、それに連合国側も加担していたという事実です。
「連合国は正義であり、解放者であり、真実を明るみに出す」と私たちは考えてしまいがちです。
ですが国際情勢とは同盟側であろうと連合国側であろうと、複雑怪奇な怪物同志の戦いに他なりません。どちらかが絶対的な正義などということはありえません。
ソ連の影響力は戦後圧倒的なものになり、連合国側もうかつに手出しはできません。こうした背景を利用してソ連はカチンの森事件の隠ぺい、改ざんに成功したのでした。
歴史とは何かを考える上でこのことは非常に大きな示唆を与えてくれます。
私たちが知っている歴史は誰が作ったものなのでしょうか。私たちが歴史の真実だと思っていることは本当に正しいものなのでしょうか。私たちには知りえない「真実」が歴史上には数え切れないほどあるのではないか。歴史は「誰かが」編纂するものです。そこに「誰かの」意図がどうしても入らざるをえない。そのようなことを改めて考えさせられました。
最後にもう一つ、この本を読んでいて度肝を抜かれた箇所をご紹介します。
ドストエフスキーやトルストイも訪れたロシアで最も有名な修道院の一つ、オプチーナ修道院が強制収容所として利用されていた
一九三九年十月、将校を主として約一万五五〇〇人の捕虜がモスクワの西約二五〇キロのコゼルスク(五〇〇〇人)、北西約三二〇キロのオスタシュコフ(六五〇〇人)、それにキエフのハリコフから東に約ニニ〇キロのスタロべルスク(四〇〇〇人)の三つの特別収容所に抑留された(本書巻末の地図を参照)。どの収容所もロシア正教の僧院跡に設けられていた。かつてトルストイ、ゴーゴリのような作家が修道僧に混じって瞑想にふけったところだ。コゼルスクのオプチマ僧院に行く道は『カラマーゾフの兄弟』に描写がある。
みすず書房、ヴィクトル・ザスラフスキー著、根岸隆夫訳『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』P160-161
カチンの森事件の犠牲者が収容された強制収容所がロシア正教の僧院跡に設けられていたというのはなんとも衝撃的でした。ソ連はロシア正教を弾圧しその財産や土地を没収しました。彼らはその土地をこうして活用していたのです。
正教の祈りを捧げる場所を強制収容所として用い、さらには虐殺が行われていくという現実・・・
そして一番私が驚いたのはコゼルスクの強制収容所がオプチーナ(本文ではオプチマ)修道院であったという記述でした。
なぜこのことがそんなにも驚きかというと、この修道院はあのドストエフスキーが訪れ、彼の晩年の最高傑作『カラマーゾフの兄弟』にも大きな影響を与えた場所だったからなのです。
以前このブログでも紹介しましたが、オプチーナ修道院はロシア正教における最も権威ある修道院のひとつであり、多くの著名な長老を輩出している聖地です。そしてさらに、ここはロシアを代表する作家、ゴーゴリやトルストイが訪れたことでも有名です。
いつか私も訪れてみたいと思っているこのオプチーナ修道院ですが、まさかここがカチンの森事件の犠牲者の収容所となっていたとは本当に驚きでした。
※2023年7月15日追記
ソ連時代のロシア正教弾圧については高橋保行著『迫害下のロシア教会―無神論国家における正教の70年』で詳しく解説されています。オプチーナ修道院をはじめとして多くの修道院が収容所として転用されていくその過程などもこの本で知ることができます。ソ連国内における宗教弾圧もすさまじいものがありました。
おわりに
アウシュヴィッツのホロコーストに比べて日本ではあまり知られていないカチンの森事件ですが、この事件は戦争や歴史の問題を考える上で非常に重要な出来事だと私は感じました。
歴史が隠蔽され続け、連合国側もそれに加担していたというのは無視できない問題だと思います。無条件に連合国あるいは国連を信じる危険性を感じました。国際情勢においてはこうしたことが実際に起きているということを忘れてはいけないと改めて思ったのでありました。歴史の怖さを感じる一冊です。
そしてこの本では写真もたくさん掲載されています。かなりショッキングな写真です。埋められた遺体が発見された時の写真やミイラ化した死体、穴の中で積み重なっている無残な遺体の写真など、かなりストレートな写真がいくつもあります。目をそらしたくなってしまうような凄惨な写真ですが、この事件の恐ろしさをより伝えるために筆者が意図して掲載した写真です。「こうした事件があったことについて目を背けてはいけない」と筆者から警告されているような気がしました。
この事件については映画化もされています。
日本ではあまり知られていない事件ですが、これを学ぶ意義は非常に大きいものと思われます。
国の指導者、知識人層を根絶やしにする。
これが国を暴力的に支配する時の定石であるということを学びました。非常に恐ろしい内容の本です。ぜひ手に取って頂ければなと思います。
以上、「V・ザスラフスキー『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』ー独ソ戦中のソ連による隠蔽された虐殺事件」でした。
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