バルザック『あら皮』あらすじ解説と感想~まるで仏教説話!欲望は実現するとつまらない?
バルザック『あら皮』あらすじ解説と感想~欲望は実現するとつまらない?まるで仏教説話!
『あら皮』は1831年にフランスの文豪バルザックによって発表された小説です。
私が読んだのは藤原書店の小倉孝誠訳の『バルザック「人間喜劇」コレクション あら皮―欲望の哲学』です。
早速この本について見ていきましょう。
若きラファエル・ド・ヴァランタンは、死んだ父のわずかな遺産で放蕩三昧に明け暮れたが、その空しさに気づき、裕福なロシア人女性フェドラとの恋も破れて絶望におちいり、自殺まで考えるようになる。そのような時、たまたま入った骨董屋の主人から一枚の「あら皮」をもらいうける。それは、持ち主の願いをたちまちかなえてくれるが、同時に、願いがひとつ実現するたびに縮まっていく魔法の皮である。ラファエルは豊かになり、可憐なポーリーヌと束の間の幸福な生活をあじわうものの、あら皮は木の葉ぐらいの大きさに縮小してしまう。やがてラファエルは病気になり、温泉地に行って保養するが健康は回復せず、パリに戻ってくる。そしてポーリーヌへの激しい欲望に苛まれながら息絶える。
Amazon商品紹介ページより
全てに絶望したラファエロがひょんなことから手に入れたあら皮。
このあら皮は持ち主のどんな願いも叶えることができます。
しかし残された命をその代償にしてではありますが・・・
欲望を叶えることは私たちには抗いがたい魅力があります。
それは単に食欲や性欲や権力欲などという、わかりやすい形を取ったものから、個人個人の願いに応じて様々な形をとることでしょう。
そしてその欲望は私たちを常に追い立てます。時には身を焼き尽くすほどの渇望を感じることもあるでしょう。
人間が破滅に向かう時はたいていこの欲望が原因となるのが一つのパターンです。
ではその欲望が叶えば、苦しむこともなく身を焼き尽くすような渇望から救われるのかというと、そうではないということは経験上私たちも想像できるのではないでしょうか。
この作品は欲望がすべて叶うとわかった瞬間、人生が一変し、欲望が叶う度に残りの命が減っていくという運命を背負ってしまった青年の物語です。
感想―ドストエフスキー的見地から
前回の記事で紹介した『ウージェニー・グランデ』と同様に、若きドストエフスキ―はフランスの文豪バルザックのこの作品を読んでいたと思われます。
彼の作品や記録には直接この作品について言及されたところは見つかりませんが、欲望というテーマについて書かれたこの作品が及ぼす影響は見逃すことはできないのではないかと思われます。
さて、この作品を読んで個人的に思ったのが、タイトルにもありますようにまるでこの作品から仏教説話のような雰囲気が感じられるということでした。
その箇所をちょっと長いですが引用したいと思います。
舞台はあらゆる欲望を叶えるあら皮を手にしたラファエルが、その力を使って上流社会の社交界でのパーティーに参加した後のシーンです。彼の参加したパーティーは若者も多く、大いに盛り上がり、酔っ払った人間がそのまま会場で朝(実際は昼)を迎えたところでした。
翌日の正午頃になって、美しいアキリナはあくびをしながら起きあがった。くたびれていたうえ、頭をのせていた色つきビロードの腰掛けの跡がついて、頬がまだらになっていた。ウーフラジーのほうは、アキリナが動いたせいで目が覚め、しゃがれた叫び声を上げながらいきなり起きあがった。前夜はあれほど白く、みずみずしかった彼女の顔が、いまは施療院に入る娼婦のように黄色くやつれていた。客たちは気昧の悪い呻きを上げながら、しだいに動きだした。腕や脚がしびれ、目覚めた彼らはさまざまな疲れのせいでぐったりしていた。従僕がやってきて、サロンの鎧戸と窓をあけた。そこにいた人々は、眠っている者たちの顔のうえでおどっている暖かい日差しのおかげで生気をとりもどし、立ちあがった。何度も寝返りをうったせいで優雅な髪形がくずれ、化粧も落ちてしまっていたので、かがやく陽光をあびた女たちは見るもおぞましい姿になっていた。髪はみだれて垂れさがり、表情は変わりはて、あれほど生き生きしていた目は疲れてどんよりしていた。ろうそくの光の下ではあざやかにかがやく黄ばんだ顔色が、いまではぞっとするほど醜く、休んでいるときは白くて柔らかいリンパ質の顔が緑色に変わっていた。かつては赤く官能的だった口元が、いまでは白く干からび、酔いの恥ずべき痕跡をとどめている。
行列が通りすぎた後の往来で踏みつぶされている花さながら、死人のように蒼ざめている情婦を目にすると、男たちにはそれが前夜の女とは思えなかった。とは言っても、この横柄な男たちのほうがさらに醜いさまをしていたのだが。くぼんで隈のついた目は何も見ていないようであり、酒のせいで麻痺し、ひとを元気にするよりもむしろ疲れさせる浅い眠りのために茫となった彼らの顔を見れば、思わずぞっとしたことだろう。魂が飾りつけてくれる詩情もなく、ただ肉体の欲望だけがむきだしに表れている日焼けした顔には、何かしら獰猛で、冷たいまでに獣的なところがあった。この勇敢な競技者たちは、放蕩と闘うことには慣れていたとはいえ、衣裳も白粉もかなぐりすてたこの悪徳の目覚めと、ぼろをまとい、冷たく、空疎で、精神の詭弁をなくしたこの悪の抜け殻を目にして、さすがにぞっとした。芸術家と高級娼婦たちは、あらゆるものが情欲の炎で破壊され、焼きつくされた乱雑な部屋を血走った目でながめながら、じっと黙っていた。(中略)
何ひとつ欠けるもののない情景だった。それは奢侈のなかの汚れた生活、人間の豊かさと貧しさの恐ろしい混合にほかならなかった。放蕩がそのおおきな手で人生の果実を搾りとり、そのまわりに醜い残骸やみずからも信じていない虚偽しか残さない、そんなときの放蕩の目覚めであった。疫病におそわれた家族のなかで、「死」がほほえんでいるかのようだった。もはや香りもなければ、目の眩むような光もなく、陽気さも欲望もない。あるのはただ嫌悪感と、そのむかつくようなにおいと悲痛な哲学であり、真理のごとく燦々とかがやく太陽であり、美徳のごとく清らかな空気であり、それらが瘴気をはらんだなま暖かい大気や、乱痴気騒ぎの瘴気とあざやかな対照をなしていた!p244
藤原書店 小倉孝誠訳『バルザック「人間喜劇」コレクション あら皮―欲望の哲学』P243-244
夜中に酔っぱらってどんちゃん騒ぎをしていた時はあんなに美しく見えた女性たちが朝起きたら見るも無残な姿になっている。そしてそれを眺める男たちはもっと惨めな姿に他ならない。
あれだけ求めていた美しい女性たちとの華やかな社交の場の実態は、朝方に目の前に繰り広げられている惨めな姿に他ならない。
欲望も叶ってしまえば残されるのは空虚さのみ。
ラファエルは命を食らう欲望そのものに恐れを抱くのでありました。
さて、これが『あら皮』でもっとも印象に残ったシーンだったわけでありますが、先ほども申しましたように実はこれ、非常に仏教説話的な物語なのであります。
私がこの話を読んで真っ先に思い浮かんだのはブッダの生涯のとあるお話でした。
ブッダももともとは釈迦族の王子さまであり、何でも欲望が叶う立場にありました。
父である王様がブッダに王位を継いでもらうために、この世のあらゆる楽しみを味あわせ、王様であることの旨味を味わってもらおうと画策していたのです。
そのため若いブッダのもとでは、大規模の宴会が開かれ、すばらしい音楽、贅沢な食事、そしてたくさんの美女たちがブッダの前で踊り、歌を歌い、ご機嫌を取っていたのであります。
もちろんその宴会ではお酒もたんまり振舞われますので、宴会は大盛り上がり。夜更けまでその大騒ぎは続けられることになります。
ですがいつかはその宴会も終わりを迎え、酔っぱらった人々は皆その場で寝息を立てています。
ブッダはそんな彼らの醜い姿を見て、改めてこの世の儚さを思い、この世に絶望し、出家の意をさらに強めたとされています。
思うに、ブッダも欲望が叶う立場にいたからこそ、欲望追求の虚しさにひどく心を痛まれたのであろうと想像します。
欲望を持つことそのものは人間である限り仕方のないことです。ですがそれを無限に追求した果てに何が待ち受けているのか、それをブッダは嘆かれたのであろうと思います。
まさにこの華やかな大宴会の末の醜い姿はそれを象徴しているのではないでしょうか。
夜の内はあんなに美しく、素晴らしく見えていたのに、その夢が解けてしまえば目も当てられない惨状。
欲望は叶えられていないからこそ美しく見える。これさえあれば私は幸せになれる。そう思い込ませる危険な魔力が欲望にはある。
ですが欲望は、満たしてしまえば今度は空虚さをもたらします。そしてその空虚さを埋めるためにまた欲望にかき立てられる。その繰り返し。
そして最後は命を縮めることになる・・・
こうしたことがブッダのお話でよく説かれるお話でございます。
バルザックの『あら皮』を読んで、図らずもこのお話を連想してしまいました。
やはり時代や場所が変わっても人間は変わらないということを強く感じます。
以上、「欲望は実現するとつまらない?まるで仏教説話!バルザック『あら皮』」でした。
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