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ドストエフスキー資料の何を読むべき?―ドストエフスキーは結局何者なのか
皆さんこんにちは。
本日は今後の記事の方向性とドストエフスキー研究について思うことをお話ししていきたいと思います。
さて、ドストエフスキー全集を去年の8月から読み始めた私でしたが、いざドストエフスキーのことを知ろうとするにあたってまず私が困ったのが「何から読み始めればいいのかがわからない」ということでした。
ドストエフスキーはあまりに有名で、あまりに巨大な作家です。
そのためドストエフスキー関連の書籍も膨大なものとなり、どこから手を付けていいのか非常に悩むことになりました。
手元にある伝記だけでもこの通りです。
しかもさらに厄介なことに、本によって描かれるドストエフスキー像が違います。
本によってはもはや別人のように感じられるようなこともあります。
これは伝記作家の物語の書き方、そして著者の立場の違いが大きく影響しているものと思われます。
ソ連のマルクス主義全盛期の作家は当然その影響を受けますし、イギリスの作家はソ連とは距離を取った立場でドストエフスキーを描きます。ドストエフスキーに対する個人的な思い入れの度合いによってもその姿は変わってきます。
また、ドストエフスキーと実際に交際のあった人たちの手紙や証言などから構成した伝記と、ドストエフスキーの奥様その人による伝記でも自ずから違いが現れてくるでしょう。
それらの伝記の内、どれか1冊だけを読むのなら「お~ドストエフスキーってこういう人なのか」と納得して終わることができます。
しかし何冊も何冊も読んでいくと、その相矛盾する内容から「じゃあ結局ドストエフスキーって何者なんだ」と逆に混乱していくことになります。
ドストエフスキーは「事実は小説よりも奇なり」を地で行く人です。この人自身が波乱万丈で奇妙な人生を送った劇的な人間です。
ただでさえ理屈を超えた生涯を送ったドストエフスキーです。仮にその生涯の全てに密着したカメラマンがいたとしても、彼の思考や感情、思想の奥底を完全に掴むことは難しいでしょう。
しかもドストエフスキーの若かりし頃の資料はただでさえわずかな物しか残っていません。
晩年に至るまでも多くの書簡やノートが残されてはいますが、ドストエフスキーがどこまで本心からのことを話しているかというのはやはり難しい問題なのです。
「こういうことがあったからこうこうこうなり、その結果ドストエフスキーはこう思い、こうこうこうなっていくのだ」という推論はドストエフスキーには通用しないことがあります。
であるのにも関わらず、ドストエフスキーの生涯というのはこういう推論を強いるような空白が多すぎるのです。
その1例を挙げてみましょう。
ドストエフスキーの生涯において多大な影響を及ぼしたと言われるある出来事があります。
それがドストエフスキーの父の死です。
当時18才だったドストエフスキーは実家のあったモスクワ近郊のダーロヴォエ村から離れてサンクトペテルブルグで学生生活を送っていました。
しかし突然ある知らせを受け取ることになります。
それが実家にいる父の死でした。
このことについてドストエフスキーは生涯の間ほとんど何も語りません。死因はおろか父に対する思いすらドストエフスキーは沈黙を続けます。
ドストエフスキーが何も言わない以上、ドストエフスキーの作品や書簡、ノートなどから「そうであろう」というところを切り取り、「ドストエフスキーはこう思っていたのではないか」と研究者は推論していくしかなかったのです。
こうしたことが多様なドストエフスキー解釈の原因になっているように私には思えます。
プロの学者さんたちはこの難問に決着をつけるため緻密な研究をしています。
それぞれの立場は違えども、膨大な資料や当時の社会事情、作品研究を経て、学問的な批判に耐えうるようなドストエフスキー像を表現しようとします。
「学問的な批判に耐えうる」というのは、しっかりとした根拠があるということです。単なる思い付きや空想でドストエフスキー像を決め付けてはいけないということです。空白の多いドストエフスキーには特にこの姿勢が重要であります。
先に述べたドストエフスキーの父の死の真相についても、近年の研究の結果、従来の通説とは異なる様々な事実が浮かび上がってきています。以下の記事の中でその点についても詳しく解説していますのでぜひご参照ください。
このように、プロの学者さんたちの研究成果のおかげで私を含めた一般の人間に多くの書物が届けられています。
私はプロのドストエフスキー研究家ではありません。
あくまで私はアマチュアです。
ですが、アマチュアにはアマチュアなりの身軽さや初学者ゆえの自由というメリットがあります。
この記事の冒頭でも述べましたように、私はドストエフスキー関連の膨大な書籍を目の前にしてどこからどう手を付けていいのか非常に悩むことになりました。
私は訳もわからずとにかく片っ端から読んでいくという方法を取りましたが、何かガイドブックのようなものがあれば便利なのになぁとつくづく感じていました。
そこで今後の記事では私が読んだドストエフスキー研究の資料の内容や、その本がどのような立場で書かれ、どのような人にその本はおすすめかということを書いていきたいと思います。読んだ全ての本を紹介するというわけにはいきませんが、出来るだけ多くの本を取り上げていきたいと思います。
ここからは私自身の学びのための記事という意味合いも強くなりますので、ドストエフスキーに馴染みのない方にはご迷惑をおかけしてしまいますが、しばらくの間はお許し願えましたら幸いでございます。
続く
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