G・ステイナー『トルストイかドストエフスキーか』あらすじと感想~ロシアの二大文豪の特徴をわかりやすく解説した名著!
G・ステイナー『トルストイかドストエフスキーか』概要と感想~ロシアの二大文豪の特徴をわかりやすく解説した名著!
今回ご紹介するのは1958年にジョージ・ステイナーによって発表された『トルストイかドストエフスキーか』です。私が読んだのは白水社、中川敏訳の『トルストイかドストエフスキーか』1971年第2刷版です。
この本の内容に入る前に著者のプロフィールを紹介します。
ジョージ・ステイナーはユダヤ系オーストリア人を両親として一九二九年パリに生まれ、フランスのリセを終えたあと、シカゴ大学、ハーヴァード大学、オックスフォード大学に学んだ。ウィリアムズ・カレッジ、スタンフォード大学、ケンブリッジ大学で教鞭を取り、プリンストン高等研究所の一員となったこともあり、《オー・ヘンリー短編小説賞》と《オックスフォード大学総長エッセイ賞》を受けたこともある。批評書としては、『卜ルストイかドストエフスキーか』(一九五九)、『悲劇の終焉』(一九六一)、『言語と沈黙』(一九六八)があり、ほかに短編小説集『西暦』と小さな詩集を出している。
白水社、ジョージ・ステイナー、中川敏訳『トルストイかドストエフスキーか』1971年第2刷版P351
著者のジョージ・ステイナーは1929年生まれのパリ出身の学者です。今回ご紹介している『トルストイかドストエフスキーか』はなんと著者が30歳の頃に書かれた作品です。30歳にしてこれほどの名著を残しているのは驚異としか言いようがありません。
では、この作品について訳者の解説を見ていきましょう。
ステイナーは『トルストイとドストエフスキー』と言わずに、『トルストイかドストエフスキーか』という題名をつけた。トルストイびいきはドストエフスキーを敬遠し、ドストエフスキーびいきはトルストイをあまり読もうとしない。
平均的教養を身につけるためならいざ知らず、偉大な作家の世界の中に深く入りこもうとするとき、あるいは読者として一つの文学観を抱く場合、どちらか一方に片寄ってしまいがちだ。
といっても、日本ではドストエフスキーびいきのほうが圧倒的に数が多い。この二人の作家の内蔵する哲学ないし宗教観は完全に正反対のものであり、創作方法の相違というものが忘却されかねないありさまである。
一方が田園生活を描き、他方が都会生活を描いたとか、一方が革命思想の持ち主で他方が反革命思想の持ち主であったというような簡単な話ではないのである。かならずしも両者が十九世紀ロシアの二つの類型を代表しているとは言いがたいし、両者が互いに補い合っているわけてもない。この二人の作家は絶対値のごとき存在であり、しかも対立し合う。読者はいやでも二者択一を迫られる。一方を選んだあとに、なお読者はもう一方を忘れることができない。
白水社、ジョージ・ステイナー、中川敏訳『トルストイかドストエフスキーか』1971年第2刷版P351
※一部改行しました
「トルストイかドストエフスキーか」。両方はありえない。
このことはこれまでトルストイ作品を読んできて強く感じたことでした。
前回の『復活』や『クロイツェル・ソナタ』の記事でお話ししたように、私はこれらトルストイの作品に対して身体が拒否を起してしまうほどの苦手意識を持つことになりました。
まさしく「トルストイかドストエフスキー」かということを身体で実感したのでありました。
この作品ではそんなトルストイとドストエフスキーの違いがわかりやすく、刺激的に解説されます。それがあまりに興味深く、できることならばそのひとつひとつをこれから全て紹介していきたいのですが私にはそのような時間が残念ながら残されていません。
ですのでその一部を紹介した訳者解説をここに引用します。
ステイナーは、トルストイはホメーロスの叙事詩の系譜につながる作家であり、ドストエフスキーは悲劇の系譜につながる作家だという。トルストイが叙事詩を書くように長編小説を書き、ドストエフスキーが戯曲を書くように小説を書いた、というだけのことだったら別に目新しい意見ではない。
しかし、ステイナーは叙事詩や悲劇をめぐる固定した通念によっては見のがされがちな面を鋭く指摘したうえで、二人の作風を叙事詩的なものと悲劇的なものとして比較対照させる。
トルストイもドストエフスキーもいかにもロシア的な巨人的作家であるが、西欧の文学を強烈に意識し、西欧文学の技法を巧みに摂取した。『ボヴァリー夫人』は芸術だが『アンナ・カレーニナ』は人生の断片だなどと言うわけにはいかない。また、ドストエフスキーの残酷な描写は西欧文学にお手本があったのだ。ステイナーは驚くべき博覧強記をもって、縦横にロシア文学と西欧文学を比較して考察を行ないつつ、この二人の作家の特異性を分析し、強調する。
むろん、比較文学的考察がこれまで行なわれなかったわけではない。しかし、ステイナーのやり方は実に徹底している。系譜を見いだすことによって、逆に彼は独自性を主張するのである。(中略)
トルストイもドストエフスキーも心の中にニつの相反するものを内蔵していた。そのかぎりでは二人は似ている面もあったのであろうが、言語によって表現されたちもは、きわめて対照的なものとなったのである。
「あれかこれか」という二者択一、「否定と肯定」という矛盾をはらんだ二人の作家を比較対照させることは決してやさしいことではない。ステイナーの見解にたいしても異論があるかもしれない。しかし、芸術家としてのトルストイとドストエフスキーを、叙事詩と悲劇というニつの系譜から、また当然の文学的風潮や二十世紀文学との関連から考察したこの本の示唆するものはきわめて大きいと言わなくてはなるまい。
白水社、ジョージ・ステイナー、中川敏訳『トルストイかドストエフスキーか』1971年第2刷版P353-4
※一部改行しました
トルストイがホメロス的で、ドストエフスキーがシェイクスピア的だったという見解は特に興味深いものがありました。
『戦争と平和』が『イリアス』に非常に大きな影響を受けていることは有名ですが、ドストエフスキーが『リア王』とつながりがあるというのはとても驚きでした。ですがステイナーの解説を聞いていると「おぉ!なるほど!たしかにそうだ!」とものすごく納得できました。
さらに面白いことにシェイクピアの『リア王』といえば、トルストイが『シェイクスピア論および演劇論』で徹底的にこき下ろした作品です。
トルストイには『リア王』の何から何までが気に食わないのです。その『リア王』の作風と似ているのがドストエフスキーだというのですからこれはもう大変です。
両者がどうしても作風の上で折り合わないのはこういうところからもうかがえます。
いやぁ~、とにかく面白い!この本はものすごいです!これはぜひともおすすめしたい作品です!
トルストイとドストエフスキーの特徴が非常に鮮明に見えてきます。ぜひぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。ドストエフスキーが好きな人はドストエフスキーを、トルストイが好きな人はもっとトルストイを好きになることでしょう。
以上、「G・ステイナー『トルストイかドストエフスキーか』~ロシアの二大文豪の特徴をわかりやすく解説した名著!」でした。
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