チェーホフ『ワーニャ伯父さん』あらすじと感想~ゴーリキーが号泣した劇作品
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』あらすじ解説―ゴーリキーが号泣した劇作品
チェーホフ(1860-1904)Wikipediaより
『ワーニャ伯父さん』は1897年にチェーホフによって発表された劇作品です。
私が読んだのは新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』所収の『ワーニャ伯父さん』です。
早速あらすじを見ていきましょう。
失意と絶望に陥りながら、自殺もならず、悲劇は死ぬことにではなく、生きることにあるという作者独自のテーマを示す『ワーニヤ伯父さん』
新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』裏表紙
この一冊には、アントン・チェーホフ(1860-1904)の戯曲『かもめ』と『ワーニャ伯父さん』が収録されている。この二作は、同じ新潮文庫のもう一冊に収められた『三人姉妹』『桜の園』とともに普通チェーホフの四大劇と呼ばれて、演劇史上の傑作に数えられている。
新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』P241
この作品は『かもめ』の次に公演されることになったチェーホフを代表する劇です。
巻末解説には次のようにも書かれています。
『かもめ』のなかに見られるチェーホフの作家的な成長、絶望から忍耐へのテーマが一層あざやかに認められるのが、四大劇の第二作『ワーニャ伯父さん』である。
この戯曲はまた、前作『かもめ』が主として芸術と名声の問題を通して作者独特の人生への洞察を表現していたのに比べて、人間の労働という一層社会的な問題をふまえて、一方においては痛風病みの老教授と若く優美なその後妻、一方においては一生を領地の経営に捧げたワーニャ伯父さんとその姪ソーニャ、さらにはロシアの森の将来を気づかう医師アーストロフ、こうした対照的な人物配置の上に、チェーホフ独特の静劇の世界を築きあげている。
チェーホフ的な静劇とは、よく指摘されるように、これといった顕著な筋書も事件もなしに登場人物の日常生活とその会話で舞台の雰囲気を盛りあげて行く一種独特の作劇術であり、そのためには間の巧みなふんだんな利用や、音楽や効果の活用、抒情的な簡潔で美しいせりふ、工夫され計算された対話の妙など、さまざまな技巧が用いられねばならないのだが、そうした作劇上の巧みさが作者自身の人生観と見事に結びついているところに、チェーホフの物静かな暗い戯曲の持つ異常な迫力、緊迫感があると言えるのである。
新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』P247-248
この作品の大きなテーマは「絶望から忍耐へ」というものになっています。そしてここで「チェーホフ的な静劇とは、よく指摘されるように、これといった顕著な筋書も事件もなしに登場人物の日常生活とその会話で舞台の雰囲気を盛りあげて行く一種独特の作劇術」と言われるように、この作品も『かもめ』と同じく会話を主とした家庭劇となっています。
松下裕氏の『チェーホフの光と影』では次のようにあらすじがまとめられていましたのでご紹介します。
「ワーニャおじさん」四幕のあらすじはこうである。
セレブリャコーフ教授一家の領地を管理するワーニャおじさん、近隣の医師で忙しく飛びまわっているアーストロフが、わびしく、つらい田舎生活をかこっている。このところ、教授夫妻がやってきてからというもの、生活はすっかり乱脈になっている。若くて美しい教授夫人エレーナにたいするワーニャおじさんの片おもい、教授につくして無駄にすぎた過去の時間への悔恨と覚醒。
第二幕になると、教授の身勝手と、しのびよる老いへのいらだち。ワーニャおじさんの鬱屈はますますつのって行く。教授の先妻の娘で、ワーニャおじさんを助けて領地を管理しているソーニャの、医師アーストロフへの片恋。
そして第三幕、ソーニャの失恋、教授夫人エレーナにたいするアーストロフの恋ごころ。経済性のない領地を売りはらってしまおうという教授のひとりよがりなもくろみが、みんなにあかされる。それを聞かされた、二十五年も捨てぶちのような報酬で領地を管理して教授に送金してきたワーニャおじさんの憤激、ピストルさわぎ。
第四幕、喜劇は終りぬ、すべては元の木阿彌となる。あいかわらずの苦難の果てに、やがておとずれる永遠の休息を静かに迎えようとするワーニャおじさんとソーニャのせつない思いで幕はおりる。
スタニスラフスキーは回想記『芸術におけるわが生涯』に、その初演の感動を記している。
「無能な、だれにとっても必要のない教授がぬくぬくと暮らしている。彼は柄にもなく高名な教授という虚名を博し、ぺテルブルグじゅうの崇拝の的となって、愚にもつかぬ学術書を書き、先妻の母、老婆のヴォイニーツカヤがそれに読みふけっている。
みんなが熱にうかされたようになったなかで、ワーニャおじさん自身さえ或る時期そのとりことなって、彼を偉い人間のように思いこみ、この有名人を養うために彼の領地で損も得もなく働いた。
だが、セレブリャコーフが、高い地位を占める資格のない張り子の人形で、ワーニャおじさんやアーストロフのような生きた才能のある人びとが、その間、広大な未開のロシアの僻地で生涯を朽ちさせていることがあきらかになる。
そして草ぶかい片田舎で凍えているほんとうの働き手、働き者たちを権力の座に迎え、有名でこそあれ無能なセレブリャコーフ輩のかわりにその高い地位につけたいという気になってくる」
筑摩書房、松下裕『チェーホフの光と影』P160-162
主人公のワーニャおじさんは教授のために全てを捧げて田舎の領地で身を粉にして働きました。
しかしその教授が実は無能な張りぼてであり、25年にわたる彼の献身は幻想への奉仕に過ぎなかったことが明らかになります。
ワーニャおじさんは才能ある人間でした。しかし彼は幻想を信じたが故にその才能を無駄にし、田舎で朽ちていく運命を生きることになります。その反抗と目覚めがこの劇のメインテーマとなります。
劇の後半のワーニャのセリフにはどきっとするものがありました。それがこちらです。
一生を棒に振っちまったんだ。おれだって、腕もあれば頭もある、男らしい人間なんだ。……もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにもドストエーフスキイにも、なれたかもしれないんだ。……ちえっ、なにをくだらん!ああ、気がちがいそうだ。
新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』P211-212
ドストエフスキーの名前がチェーホフ劇の中で出てくるのにはちょっと驚きました。チェーホフがどのような意図でこの二人を出したのかはわかりませんが、チェーホフにとってもドストエフスキーは名声に価する作家であることがここからうかがわれるような気がします。
そしてこの作品における結末は人生の目覚めについて何とも言えない余韻を残したシーンで終わります。チェーホフ研究者の佐藤清郎氏は次のように述べます。
終幕でのヴァーニャの最後の科白は、「ソーニャ、わたしはつらい。わたしのこのつらさがわかってくれたらな!」である。
つまり、諦観に徹しているわけではないのだ。苦悩はなお続くのである。彼の肉体のうえにも、心のなかにも。しかし、チェーホフは、苦悩のない人生を尊重してはいないのである。人間が人間らしく生きるのに苦悩は大切な手段だと思っていたのである。
チェーホフの全作品は自己満足の「幸福者」たちへのさげすみに満ちている。「……運命がわたしたちにくだす試練を、辛抱強く、じっとこらえていきましょう」というソーニャの慰めに弱者の諦めを見ることは自由であるが、夜明けの遠い時代に生きた善意の人たちにとって、これは切ない立派な覚悟であったにちがいないし、今日でも、それぞれ何らかの不幸に耐えて生きている人たちにとって胸に食い入る声であろう。かつて若きゴーリキーが、この言葉に心を突き刺されて、思わず鳴咽せざるをえなかったように。
苦悩はこの先にもまだあるだろう。しかし、幻想はもはやない。いまは、覚醒という「大地」が足の下にはあるのだ。
私は、この劇から「覚醒」へのいざないを聞き取る。
筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ劇の世界』P93
チェーホフは自己満足の幸福者を批判します。
それが最も顕著に現れている作品といえば、以前紹介した『すぐり』という作品です。
教授はぬくぬくと自分の幸福な境遇にいながらもワーニャたちの苦悩を知ろうとしません。そして才能も体力もあったワーニャはそんな無能な教授を養うために自らを犠牲にし田舎で朽ちていく人生になってしまいました。
しかし終幕でワーニャは目覚めます。苦悩を背負いながら生きていくという道を彼は歩むことになったのです。当然、躍り上がるような幸せではありません。ですが苦悩を背負いながらも耐えて生きていこうという人生が始まるのです。
ここにゴーリキーが号泣した所以があると佐藤氏は述べています。
この劇は『かもめ』というロシア演劇界に革命を起こした作品を経てさらに円熟した作劇が光る作品となっています。
以上、「チェーホフ『ワーニャ伯父さん』あらすじと感想~ゴーリキーが号泣した劇作品」でした。
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