Koichi Motoki, "Laughing Vermeer and Smiling Mona Lisa: The Mystery of Laughter in the Masterpieces of Vermeer and Mona Lisa" - Recommended commentary book to learn even the connection between smiles and Christianity.

Vermeer, the Painter of Light and the Scientific Revolution

元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザー名画に潜む笑いの謎』概要と感想~笑顔とキリスト教とのつながりまで知れるおすすめ解説書

今回ご紹介するのは2012年に小学館より発行された元木幸一著『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザー名画に潜む笑いの謎』です。

Let's take a quick look at the book.

数々の名画を生み出した「笑い」の謎に迫る

17世紀オランダの巨匠フェルメールの作品は、一般に、静謐で精神性の高い世界を描き出していることで知られています。しかし、わずか30数点しかない彼の作品のうち、約三分の一にあたる10点の作品に、「笑う人物」が描かれていることには、意外と気づかないのではないでしょうか。しかも、その笑いは思いのほかに俗っぽく、見る者を誘うような笑いから、恥ずかしさを示す笑い、皮肉な冷笑、嘲笑や嬌笑まで、実に多様で豊かなものなのです。

実際に作品を前にしても、あまり意識されず、そのためついつい見過ごしてしまいがちですが、実は、西洋絵画の歴史において「笑い」は、数々の名画を生み出す原動力となってきました。イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが、傑作《モナ・リザ》において「人間性」の本質として「笑い」を描いて以来、「神(笑わない)に捧げる絵画」に対して「人間(笑う)のための絵画」である証として描かれた「笑い」は、豊かで奥深い独自の発展を遂げたのです。
本書では、いかにして「笑い」の表現が名画を生み出してきたのか、多くの具体的な作例を見ながら、その謎に迫ります。

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As the title suggests, the book is an exploration of the hidden meaning of the smile in the history of painting, using the smiles of Vermeer and the Mona Lisa as its subject matter.

この作品で私が印象に残ったのはキリスト教における笑顔の意味です。著者はまず次のように語ります。

さて、あなたは笑顔のイエス像を見たことがあるだろうか。幼子イエスではなく、大人のイエスの笑っている姿である。宗教画だからといって、イエス像に感情が表されることがないというわけではない。怒るイエス、苦悩するイエス、優しそうなイエス、さまざまな描き方があるが、ロを開けて笑っているイエスを見たことはあるだろうか。私はないのである。

それはどうしてかと考えると、どうも聖書に基づくらしいと気づく。新約聖書の「ルカによる福音書」の中に、次のような箇所がある。

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。……(中略)
『今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。』(第六章二〇-ニ五節)

これは、今は幸福な人も将来不幸になることもあり、そして逆に今は不幸な人でも将来は幸福になることができるという、運命の変わりやすさを語った句である。しかし聖書解釈の多くの場合と同様、言葉が一人歩きして極端な意味をもってしまう。この句を根拠に、笑いと不幸を結びつけて、笑いの否定へと論理を飛躍させる人が現れた。

特に、修道士たちが信仰に集中するための組織として中世初期に成立し、以降中世文化の担い手となった修道院では、笑いが厳しく禁止された。もとはといえば、祈りを妨害しないように、静穏な環境を整えるための口実にすぎなかったのだろうが、いつのまにか「笑い禁止」が前提になってくるのである。例えば、東ローマ帝国のビザンティン教会(ギリシャ正教会)における修道院制の確立者であったバシレイオスは、『修道士大規定』という修道院での注意事項を書き連ねた文書で、笑いを禁止している。

それによれば、大笑いは自分を抑えることができない、思慮分別のない人のしるしであるという。また福音書ではイエスは笑ったことがないとされ、それゆえ笑いをこらえられない人は不幸なのだというのだ。

小学館、元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザー名画に潜む笑いの謎』P50-51
マティアス・グリューネヴァルト イーゼンハイム祭壇画(第1面)(1512-16)Wikipedia.

たしかにイエスが口を開けて大笑いしている姿というのはイメージできません。上の絵のような受難の絵のイメージがやはり強烈に残っています。

ですがこの受難のイメージというのもはじめからあったわけではありません。著者は次のように解説します。

キリスト教美術は、シモーネ・マルティー二の絵が描かれた14世紀中ごろ以降大きく変わる。それは、一三四八年から四九年のペスト(黒死病)流行と関係があるというのが、おおかたの美術史家の共通した見方である。

そのなかで、イエス・キリストの表現も大きく分けて二つの方向に変わっていく。

ひとつの方向では、イエス像は今まで以上に苦悩に満ちた表情を帯びることになる。人類の救済のために十字架にかけられて亡くなる過程を描いた「受難のキリスト像」が、そのもっとも主要なテーマである。逮捕され、鞭打たれ、荊冠を頭にかぶせられ、つばを吐きかけられ、髪の毛を引っ張られ、重い十字架を担いで裸足で丘を登らされ、子どもにすら石を投げられ、手足に釘を打たれ……まだまだある。「キリスト受難伝」は苦痛のオンパレードである。しつこいほどキリストへのいじめが繰り広げられる。このような絵をよくもまあ好んで見るものだ、ヨーロッパ人はなんと残酷なのだろうと、驚くほどなのである。

14世紀半ば以降、先に述べたペストをはじめ、疫病が次から次へとヨーロッパを襲い、一〇年に一度は多いときで都市人口の三分の一を死に至らしめた。さらに英仏百年戦争(一三三七~一四五三年)などの戦争があり、都市でも、旅先でも理不尽な暴力、盗賊などの危険がたくさんあった。人生は苦痛・苦悩に満ちていたのである。

このような日常の中で、キリストの受難物語が、同じように苦痛に満ちた人々にとって、心の底から共感を呼び、一体化する対象となったのは自然なことだろう。自らの苦悩の人生がキリストの人生に重なることに気がついたとき、この苦悩の道を耐えて歩むことによって、自分もキリストと同様に救済されると信じるようになる。それは14世紀にフランドル(現在のべルギー)に始まり、16世紀初めにかけてヨーロッパじゅうに広がった「キリストのまねび(キリストの模倣)」という教えなのである。キリストの受難の地である聖地エルサレムへの巡礼も、そのような信仰に基づいていた。

であるから、苦痛に満ちたキリスト像は、けっして今日のわれわれが思うような救いようのないものではなかった。むしろ苦痛に満ちたキリストこそ、人を救いへと導く像として崇拝された。したがって、ここには笑いはない。むしろその対極に位置するイメージなのである。ドイツ・ルネサンスの大画家マティアス・グリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》などがそのもっとも典型的な例といえよう。あの恐ろしい、あまりにもリアルに苦痛を描いたキリストの「磔刑」(P59)は、だからこそ共感を呼ぶことができる、人を救いへ導く装置だったのである。

小学館、元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザー名画に潜む笑いの謎』P56-58
マティアス・グリューネヴァルト イーゼンハイム祭壇画(第1面)(1512-16)Wikipedia.

実生活があまりに苦悩に満ちたものだった中世ヨーロッパ。

そんな地獄のような苦しみの中で、苦しみそのものが救いへと転化していった・・・

これは非常に興味深い指摘です。

「苦しみを背負うことこそ救いである。」

これはロシアのドストエフスキーの思想にもつながりますし、浄土真宗の開祖親鸞聖人の救済観すら連想させます。たしかによくよく考えてみればドストエフスキーの生きた時代もロシアは混乱していましたし、親鸞聖人の生きた時代は平安末期から鎌倉初期、つまり源平合戦の大混乱の時期です。そこに飢饉や天災も重なりそれこそ地獄のような時代でした。この地獄のような様相は鴨長明の『方丈記』に描かれています。

そして著者はさらに続けます。こちらも非常に興味深いです。

もうひとつの方向は、その正反対である。もちろんキリストの受難は承知しながらも、喜びへの共感を演出するタイプである。

その典型として「聖母マリアの七つの喜び」というテーマがある。マリアはイエスの将来の運命を知りながら、それでもイエスの生のいくつもの場面で喜びを感じたというのである。それは、日常的な人生の喜びと共通する。疫病が流行し、死と隣り合わせになった人生でも、いやそれだからこそ、日常のささやかな歓喜を味わい尽くしたいという欲求がむしろ強まったのではないだろうか。そこでは生は笑顔に包まれる。幼子イエスもマリアも、そして父ヨセフも笑いに包まれる。笑顔は日常のささやかな喜びを示し、もう一方で、救済後の永遠なる生のしるしともなったであろう。幼きイエスの絵を見るとき、イエスの運命が受難であると知っているからこそ、その笑顔はひときわ、いとおしいのではあるまいか。

中世末期に笑顔の幼子イエスが登場するのは、このような背景があったからである。それゆえ笑顔のイエスと、苦悩のキリストは、苦痛に満ちた人生と救済への強い希求を共通の背景にして、表裏をなすものだったのである。

小学館、元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザー名画に潜む笑いの謎』P59-60
ラファエロ 『ニッコリーニ=カウパーの聖母子』Wikipedia.

成長したイエスに笑顔はありませんが、幼子イエスにはなぜか笑顔がある。

その理由がここで語られたのでした。

無垢な幼子イエスは笑顔に幸福に生きている。これはつまり、現世のささやかな幸せだけでなく、苦難の先の幸福な来世の象徴でもあったのでした。

キリスト教の絵画における笑顔の両面の意味。これは絵を観ただけではなかなか気づけないものではありますが、一度知ってしまったらその見方は一変してしまいますよね。

ではこの本のメインテーマであるフェルメールとモナ・リザの笑顔にはどんな意味があるのか。

これもまたものすごく興味深いのですがあえてこの記事ではお話ししません。ぜひこの本を読んで頂けたらと思います。非常に面白い本でした。ぜひぜひおすすめしたい作品です。

以上、「元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザー名画に潜む笑いの謎』笑顔とキリスト教とのつながりまで知れるおすすめ解説書」でした。

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