(17)フェルメールの故郷デルフトをご紹介!顕微鏡で有名なレーウェンフックとのつながりも!

秋に記す夏の印象~パリ・ジョージアの旅

(17)フェルメールゆかりの地デルフトの町をご紹介!顕微鏡で有名なレーウェンフックとのつながりも!

フランス、ベルギーを経て私はいよいよオランダにまでたどり着いた。

私がオランダへ来たのはジョージアへの飛行機に乗るためであったのだが、何と言っても大好きなフェルメールに会いに行くこともその大きな目的だった。

私がフェルメールにはまるきっかけとなったのは『デルフトの眺望』という作品だった。

フェルメール『デルフトの眺望』Wikipediaより

このリアルを超えた現実感、不思議な魅力に私は一発でやられてしまったのだ。

フェルメールは1632年にこのデルフトの町で生まれ、生涯のほとんどをこの町で過ごした。いわばデルフトは彼の故郷であり、画家としての本拠地であったのだ。

そのデルフトに私はこれから向かおうというのである。

デルフトはオランダの首都アムステルダムから電車で一時間ほどの距離にあるこじんまりした町だ。

デルフトのバスターミナル

私はというと、ブリュッセルからロッテルダムで乗り換えし鉄道でここまでやってくる予定だったのだが、ロッテルダムから先がまさかのストライキ。鉄道がすべてストップしていた。

そのためなんとかバスを見つけてここまでやって来たのである。やれやれ、ヨーロッパの公共交通機関はこれが怖い。

デルフトは運河が有名。町の中心部のほとんどあらゆる場所がこうした運河で繋がっている。

では、これからフェルメールゆかりの地をひとつひとつ紹介していくとしよう。

フェルメールの生家、空飛ぶキツネ亭

フェルメールの生家。父が経営していた居酒屋兼宿屋。ここでフェルメールが1632年に生まれた。

フェルメールが育った家、メーヘレン亭

生家からフェルメールの家族が移り住んだ家。フェルメール9歳の頃からここに住んでいたそう。現在はお土産屋になっている。

フェルメールが洗礼を受けた新教会

フェルメールが洗礼を受けた新教会。町の中央のマルクト広場にどんと立つ巨大な教会。遠くからでもはっきり見えるデルフトのシンボル。『デルフトの眺望』でもこの教会が描かれている。

フェルメールの家兼アトリエ

マルクト広場や新教会から目と鼻の先にあるフェルメールの家兼アトリエ跡。

現在は教会の施設の一部となってしまっているため当時の状態とは異なっている。

『デルフトの眺望』モデルの地

『デルフトの眺望』が描かれたのは1660-1661年頃。当時からはもちろんその景色は変わってしまっているがところどころ面影を感じさせるものは存在する。

私が撮影した日は天気がイマイチの日ではあったが、それにしてもこの風景をあの美しい絵に変換してしまうフェルメールの画力にはやはり驚くしかない。絵を描くというのは単に目の前の風景をそのまま写し出すのではなく、そこにいかに画家の目や技量が付け加えられているのかということを改めて実感した。

ただ目の前の風景をリアルに写し出すだけならカメラが最強のツールだ。だが絵画だからこそ表現できるものがある。その美しさを際立たせるために何を付け加え、何を削るのか、そうした取捨選択も画家の腕の見せどころなのだろうとこの景色を見ながら感じたのであった。

『小路』モデルの地

フェルメールの『小路』が描かれたのは1658年頃。こちらも現在は様子は変わってしまっているがなんとなくではあるがその面影を感じることができる。

この辺りを歩いていると似たような建物が並んでいるのでこの場所を探すのには少し苦労した。

フェルメール美術館

ここはかつてデルフトの絵画ギルドの拠点として使われていた。フェルメールも当然このギルドに所属し、その理事も務めていた。

今はフェルメール美術館としてこの建物は利用されていて、これが非常におすすめなスポットとなっている。

というのも、ここではフェルメールの全作品のオリジナルサイズのコピー画が展示されていたり、彼の生涯や絵の特徴なども初心者にもわかりやすく解説してくれる。

絵の具の材料だったり彼の使っていた道具はどんなものだったのかという展示は非常に興味深かった。そして一番右の写真はフェルメールの絵に描かれている光の効果がいかに高度なものだったかを実体験できるブースだ。絵と同じような光を実際に身をもって体感することでその効果を実感できる。フェルメールがいかに光に敏感な画家だったかがよくわかる展示だった。

そしてこの美術館の中で私が最も嬉しかったのがこの展示だ。これはカメラ・オブスクラという道具で、フェルメールが実際にこれを使って光の研究をしていたとされている機械だ。

カメラ・オブスクラは写真機の走りのような機械で、外部の世界をレンズを通して見ることができる。肉眼で見る世界とはまた違った世界がそこには映し出されるため、当時の画家や科学者の間で話題になった装置だ。

このカメラ・オブスクラについては「F・ステッドマン『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』写真機の先祖カメラ・オブスクラとは何かを知るのにおすすめ!」の記事で紹介したのでここではこれ以上はお話しできないが、その実物をこうして見ることができたのは私にとって非常に嬉しいものであった。しかも実際にこれを使ってカメラ・オブスクラの映像がどんなものかまで体験することができたのだ。

窓に向かって取り付けられたレンズ。そしてそのレンズを通して箱の中に映像が映し出される。カメラ・オブスクラの重要なポイントはレンズを直接覗くのではないということ。箱の中に映像が映し出されてそれを私たちは見ることになる。その映像の上に薄い紙を置けばたしかになぞり書きができそうであった。

フェルメールはこういう映像を見て絵を描いていったんだということをリアルに想像することができた。

この美術館はフェルメールのすごさを知る上でもとても役に立つありがたい存在だ。ぜひぜひここはおすすめしたい。

フェルメールのお墓がある旧教会

町の中心マルクト広場から5分もかからない距離にある旧教会。ここにフェルメールのお墓がある。

ただ、ここでややこしいのが、この教会にはフェルメールの墓石がふたつあるということだ。

左が元々あった石で、右が新しく作られたフェルメールの墓石。

この写真のようにキリスト教の教会では床の石に墓碑銘が刻まれていることがある。この教会も人が歩くその足元にこうして墓石がある。しかも墓石がかなり密集して置かれているのでその上を歩いていいのか正直とまどってしまうほどだ。

そして先に紹介したように今やフェルメールの墓石は二つある。わざわざ改葬したわけではないので、そもそもフェルメールがその石の下に埋葬されているかもわからない。この教会のどこかに眠っているのだろうとしか言いようのないものなのかもしれない。

だが、仮にそうだとしても墓石があるというのはやはり大きな意味がある。その石の前で手を合わせお参りするとき、何らかの印となるものがなければ私たちはどこに向かってお祈りすればいいのかもわからない。そういう意味でもここにしっかりと墓石があるというのはやはり大切なことだと思う。私もフェルメールのお墓参りをこうしてさせてもらったのである。

そしてこの旧教会ではデルフトが生んだもう一人の天才レーウェンフックも葬られている。

フェルメールの墓碑とは異なり明らかに立派な墓石。レーウェンフックがこの街においていかに名士として扱われていたか、また力を持っていたかを感じさせる。

アントニ・ファン・レーウェンフック(1632-1723)Wikipediaより

レーウェンフックはこの町の役人だったが、独学で顕微鏡を自作し、20年以上も改良をし続け観察を続けた結果、水中の微生物を発見したという人物。

かつてのキリスト教世界ではすべてのものは神が創り、善悪の秩序もすべて神のものだった。すべては聖書に書いてある。すべては神の思し召しのままという世界だった。疫病の原因も目に見えない菌が原因だったなどとは想像すらできない世界だ。

そんな世界においてレーウェンフックは肉眼で見えない世界を人々の前に開くことになった。

そして彼の後を継いで研究を進めた科学者たちによって新発見がどんどんなされていく。

これまで悪霊や災い、天罰としか考えられていなかった疫病の原因が「目に見えないが実際に存在する生物」だった。そういう発見が相次ぐとどうなるのか。当時の人々が次のように考えてしまってもおかしくない。

「これまで教会が言ってたことは何だったのだ?全知全能の神が言ってたことは正しくなかったのか?」

科学の発展とキリスト教の教える世界。

この対立はルネサンス以降の永遠のテーマとなっていく。

そうした意味でもレーウェンフックの顕微鏡と微生物の発見はとてつもない衝撃をキリスト教世界に与えたのではないだろうか。

そして、なんと驚くべきことにフェルメールとこのレーウェンフックは同じ年に同じ町で生まれているのだ!

1632年にデルフトで生まれた2人。

そして2人は生涯のほとんどをこの町で暮らし、それぞれ偉業を成し遂げている。

レーウェンフックは顕微鏡、フェルメールはカメラ・オブスクラで、この2人は「レンズ」を通して肉眼では見えぬ世界を探究した。

フェルメールとレーウェンフックが直接交流したという証拠は残されていないが、デルフトという小さな町でそれぞれが町の役職に就き、さらにはかなりご近所さんだったということから、この2人は生前つながりがあっただろうとローラ・J・スナイダー著『フェルメールと天才科学者』で述べられていた。

フェルメールのあの『天文学者』と『地理学者』もこのレーウェンフックがモデルだったという説もあるほどだ。

せっかくなので次はそのレーウェンフックの家を紹介したい。

レーウェンフックの家

レーウェンフックもマルクト広場から徒歩数分の距離に住んでいた。ここから彼の職場であるマルクト広場の市庁舎に毎日出勤していた。下の写真がマルクト広場にある市庁舎だ。

マルクト広場はその名の通り、多くの市場が開かれていた。つまり住民たちの生活の場として大いに賑わっていた場所だ。フェルメールもレーウェンフックもまさにこの広場を歩いていたに違いない。

しかも驚くべきことに、フェルメールの家からレーウェンフックの家までなんと徒歩3分もかからぬ距離なのだ。実際に私も歩いてみたのだがその近さには驚くしかなかった。この近距離に住み、さらには二人ともが町の名士だとしたら互いに面識がなかったというのは非常に考えにくい。

現代よりもはるかに社会の結びつきが強い時代だ。見ず知らずの他人のままでいられるとは到底思えない。

やはりこの二人には接点があったのではないかと私は思う。

以下のツイートはフェルメールの家をスタートして新教会、マルクト広場、市庁舎、メーヘレン亭、フェルメールが理事を務めた画家ギルド跡(現フェルメール美術館)、空飛ぶキツネ亭、レーウェンフックの家と歩いた動画だ。デルフトの雰囲気や両者の家の距離感をぜひこの動画で感じてほしい。

また、レーウェンフックが作ったオリジナルの顕微鏡はデルフトからも近いライデンという街のブールハーウェ科学博物館に展示されている。

私も彼の顕微鏡が見たいがためにこの博物館を訪れた。

オリジナルの顕微鏡を見た時に私は度肝を抜かれた。こんな小さな道具で微生物を見ていたのかと。パッと見ても使い方すらわからない。しかもレンズがあまりに小さすぎる。こんな小さなレンズを独学で当時の最高水準をはるかに超えるレベルで作っていたというのだからあまりに恐ろしい。なんという天才、怪物ぶりだろう。

こういう圧倒的な人物が生まれてくるからこそ時代は変わっていくのだろう。

そしてレーウェンフックやフェルメールをはじめとした光の研究者たち、彼らを生み出した土壌が当時のオランダにあったということ。そのことも非常に大きな意味があると思う。

17世紀半ばから活躍した二人。日本で言うならば江戸時代が始まった世紀だ。それと同時期に彼らは生きていたのだ。当時の日本とオランダ、ヨーロッパ諸国との関係はどうだったのか、ここでは長くなってしまうのでお話しできないがやはりこれは私にとっても非常に興味深い事柄だ。このことについてはこれまで当ブログでも様々な本を紹介したのでぜひそちらも手に取ってみて頂けたら幸いである。

そしてデルフトの美しい運河を眺めながら歩いていたとき、私はふと気付いたことがあった。

この運河沿いにある木の葉っぱはまるで点描のように細かい。そしてよくよく考えてみればこの町の建物の壁もそのような色合いだ。

『デルフトの眺望』も近くでよく見てみると、フェルメールの絵の描き方もそうした点描のような細かいタッチをたくさん用いていることがわかる。

そしてデルフトに滞在した2日間、あいにくの曇天が続いたのだが、そもそも地中海などのラテン地域と違ってオランダは曇りの日が多い。だからこそたまに日の光が差し込んだ時にはそれに敏感になる。フェルメールが光に注目したのもそうした光に対する敏感さがあったのではないかと思ってしまった。

そしてまた運河の話に戻るのだが、この運河が「本当に流れているのか?」と思うくらいピタッと止まっている。そのためまるで鏡のように周囲の景色が映ることになる。ただ、ほんの少しの風や様々な変化によって見え方や光の加減が変わってくる。こうした運河を毎日目にしていたフェルメールだからこそものの見え方や光に対する感性というのが養われていったのではないだろうか。

環境が画家に与える影響ということを考えさせられたデルフトでの滞在であった。

続く

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