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2人のキリスト教理解から読み解くおすすめ参考書!W.シューバルト『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』概要と感想
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)wikipediaより
今回ご紹介するのは1989年に富士書店より発行されたW.シューバルト著、駒井義昭訳『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』です。
ドストエフスキーとニーチェの関係性において書かれた本としてはシェストフの『悲劇の哲学 ドストイェフスキーとニーチェ』が有名です。この本は以前当ブログでも紹介しました。
この本はドストエフスキー論の古典として知られ、今でも読み継がれている名作です。
しかしです。今回ご紹介する『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』はドストエフスキーとニーチェの関係性を書いた本としてはシェストフを上回るのではないかというくらい面白い一冊でした。これは私にとっても嬉しい驚きでした。こんな面白い本に出会えるなんてと驚いています。
著者のワルター・シューバルトは1897年にドイツで生まれた哲学者です。日本ではほとんど知られておらず、ドイツ本国でもあまり知られていない存在だそうです。というのも、彼はナチスに反対していたためドイツから逃れリトアニアに亡命しなければなりませんでした。そこで苦労しながらも研究を続けこの『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』を1939年に書き上げました。
しかし1941年に独ソ戦が始まると今度はソ連によって連行されそのまま殺害されてしまったそうです。
ですのでシューバルトは学者時代に常に迫害され続けたため歴史の表舞台に立つこともなく、ひっそりとナチス、ソ連の対立の中でその生涯を終えてしまったのです。
こうした悲運の著者による力作が今回ご紹介する『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』になります。
ではこの本の特徴を知る上でも著者の言葉を聴いていきたいと思います。この本の第一章には次のように書かれています。
キリスト教的作家であるドストエフスキー、そして反キリスト者の哲学者であるニーチェ、この二人は互いに比較しがたいように思われる。彼らは、それぞれどんな接近もすることのない二つの世界の永遠に対立する二つのタイプであり、共犯証人のように見える。地上の可能性と天上の可能性という人類が選ばねばならない相反する二つの可能性を、彼らはわれわれに差し出してはいないだろうか?そのように思われるのである。
しかし、そのように見るのは誤っている。彼らは、通常、そのように見なされるようなドラマの相手役ではない。彼らは、ともに同じ方向を目ざして歩いたのであり、異なっているのはその距離だけであり、架橋しがたい対立と見えるものも同じ道の残された距離の違いにすぎない。彼らは、ともに同じ問題に苦しむ。彼らはまた、それに対して同じ答えを求めたが、見出された答えは異なっていたのである。
彼らの眼は、異常なまでに、来たるべきものに向けられている。彼らは、その病弱な身体の脆さと引きかえに、予言という神の賜物を手にいれている。より高い世界の照射に対して十分な感受性をもつためには、身体生活が衰えねばならないということが彼らにおいて示される。
彼らにおいて確証されるのは、天才とは感受性だ、というボードレールの言葉である。ひたすら灼熱し、引き裂かれるまでに張りつめた神経は、最も遠く、最も微細なものによってさえも動かされるものとして役立つ。ドストエフスキーについて、「彼の魂は炎のなかにあった」と、その最良の精通者の一人であるべルジャーエフは書いており、そしてニーチェも自ら、こう告白した。
そうだ!私には自分の血統がわかっているのだ!
炎のように、飽くことなく燃えつづけ
私はわが身を焼きつくす。
私の掴むものは、ことごとく火となり、
私の棄てるものは、ことごとく灰となる。
まことに、私は炎なのだ!
〔一八八一年から八ニ年にかけて書かれた「この人を見よ」という題の詩〕
炎こそ、彼らの本質を象徴するものなのだ!それゆえ、このニ人には忘我への、憑かれた状態への、一切の限界と尺度とを爆破せんとする同じ病的な傾向が見られ、彼らに日常世界への出入りを拒むディオニュソス的悲劇の傾向、彼らの生活と苦悩との非市民性がある。例外者であることが彼らの運命なのである。
この運命が彼らを最高の者にまで高め、同時に極限の者となるまで責め苛む。この運命が彼らに希望の光に満ちた頂上を開くのであるが、しかしまた闇に満ちた深渕をも開くのである。
※一部改行しました
富士書店、W.シューバルト著、駒井義昭訳『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』P5-7
また、このすぐ後の箇所では同じ道を歩んでいたはずのドストエフスキーとニーチェにおける決定的な違いについて次のように述べています。
この二人は人間の欠陥を見、人間の危険を感じとる。彼らは人間に、あまりにも多くの汚点を見すぎるのである。ドストエフスキーは恐ろしいものを多く見、ニーチェは軽蔑すべきものを多く見る。それゆえ、新しい人間が出現しなければならない。新しい人間像への憧憬が彼らの思索と創作の総体である。
そして、彼らは二つの同じ人間像をもとめる。しかし、彼らが見出すものは等しいものではない。合理的なヒューマニズムに飽きたらず、彼らはひたすら人間的なものに悩む。彼らは、人間的なものを超えた何ものかをもとめる。
ドストエフスキーは、ここでも他のところでと同じように、ニーチェを超えてゆき、ニーチェが混濁した予感のなかに迷いこんだり、さまざまな矛盾に巻きこまれたりするようなところで、明るい見通しを手にいれる。
ドストエフスキーが認識するのは、神が存在するときにのみ、人間が存在するということである。人間の理念は神の理念から切り離すことができないのである。人間の生の意味や価値への問い、そしてまた神の問題は共通の形でしか解決することができない。新しい人間像は、それに倣って人間が創造された神的原像を回復せずにはありえないのである。人間をめぐる新しい知は、新しい神の体験と手をたずさえてゆく。新しい人間学は、結局のところ、新しい神学へと注いでゆく。新しい人間をさがすことは、人間のうちに神をさがすことを意味している。人間を高めることは、人間と神的なものとの関係を新たな形で接近させることを意味している。
ドストエフスキーとニーチェの全著作は最深の根拠において神をめぐる戦いであり、そしてこの二人が区別されるのは、一方にとっては、この戦いが明晰な意識となって彼のさがした神は見出されたが、他方にとっては、おのれ自身と神への道とをもはや掴みとることなく狂気のなかへ沈んでしまった、ということだけによっている。
※一部改行しました
富士書店、W.シューバルト著、駒井義昭訳『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』P13-15
ここでこの本の基本的な立場が明らかになりました。
著者は絶対的な真理を追い求める両者を神との関係性から見ていきます。
さらにこの本では『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のイワンとニーチェの類似についても語っていきます。理性を突き詰めたドストエフスキーの典型的な知識人たちの破滅とニーチェの発狂を重ねて見ていきます。これもものすごく興味深かったです。
この本では興味深い箇所が山ほどあり、正直、本そのものを全部引用して紹介したいくらいの気持ちです。ですがそれをしてしまうと大変なことになってしまうのでそれはあきらめます(笑)
ただ、私自身にとってもこの本は非常に衝撃的なものであり、これからも何度もじっくりと読み返していきたいなと思える本でした。
この本はドストエフスキー、ニーチェの両者を考える上で非常に有益な参考書です。この本がほとんど知られていないのはあまりにもったいないです。ぜひともこの本がもっと広まることを願っています。
以上、「W.シューバルト『ドストエフスキーとニーチェ その生の象徴するもの』2人のキリスト教理解から読み解くおすすめ参考書!」でした。
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コメント
コメント一覧 (2件)
よく日本の学者にあることなのですがニーチェやこのドフトエフスキートルストイを書き表すとき書いている著者自身が教会へ行ったことがないか殆ど足を踏み入れたことがないのです。神の概念や教会の人間にとっての位置付けを体験しないまま頭で書いてしまうその不思議な勉強の徒はやがてその宗教と生活の意味を誤解をし偏狭な反ナショナリストかおぞましい自然主義者に変わってしまうのです。例えばヨーロッパやアメリカに留学などすると学者達はキリスト教を形として認識し帰国すると信者達の救いや恵みの概念を理解することは殆どありません。日本の学者にとって十字架や教会の建物またその集まりが日本の学者にとってのキリスト教なのです。
ヨーロッパ人が教会へ行かなくなった理由を教会の堕落に結びつけたがる日本の学者が余りにも多すぎるのです。それはニーチェやトルスト、イスピノザ、などを読んでそのように解釈してしまうのです。彼らも言っているように神はどこに存在していますかということなのにです。日本の学者はまずそこから勉強しなくてはならないのです。ヨーロッパ人はそこのところに気ずいたからなのです。逆にアメリカ人は家族単位でよく教会へ行きます。それは教会へ行きさえすれば神に会えると信じているからです。再び聞きますがそこに神はいるのでしょうか?万物の魂に形は存在せず見えないしそれぞれの個人で感じかたが違うということを古代の宗教はそうして存在していたのです。
コメントありがとうございます。
まさに神の問題は本当に重要な問題ですよね。
私もドストエフスキーをこれまで学んできてそのことを強く感じました。
これからも「宗教とは何か」をテーマに学び続けていきますので、今後ともよろしくお願いします。