(70)テナルディエ、ジャン・ヴァルジャンに気付く!そして彼の企みとは・・・

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(70)テナルディエ、ジャン・ヴァルジャンに気付く!そして彼の企みとは・・・
第三部 マリユス 第八章 腹黒い貧乏人 ⑸
エポニーヌが去った部屋の中で、ひとり夢想に耽るマリユス。
ですがそんな夢想を断ち切る大声が隣の部屋から聞こえてきました。
「いや、たしかだ。あいつに見覚えがある」
ジョンドレットは誰のことを言っているのか?誰のことがわかったのか?ルブラン氏か?「僕のユルシュール」の父親のことなのか?では、ジョンドレットはあの人を知っているのか?マリユスはこんなにだしぬけに、思いがけないところから手がかりを得られるのだろうか、それがなければ、自分の人生が灰色になるような手がかりを?自分が愛しているのが誰なのか、やっと知ることができるのか?あの若い娘は誰なのか?その父親は誰なのか?二人を包んでいた濃い闇も、ついに晴れるときがきたのか?ベールが引裂かれるのか?ああ、神よ!
彼は戸棚にのぼった、というより飛びのった。そして壁の小さな穴のそばに、また陣取った。
彼はジョンドレットの部屋の中をもう一度のぞきこんだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P343
そしてのぞき穴の先ではこんなやりとりが展開されていきます。
ジョンドレットは今帰ってきたところらしかった。外から戻ったばかりの荒い息づかいだった。二人の娘は暖炉のそばの床に坐りこんで、姉が妹の手に包帯をしてやっていた。女房は、びっくりした目つきで、暖炉のそばのべッドにぐったりと寝ていた。ジョンドレットは部屋の中を大股に行ったり来たりしていた。目つきはただごとではなかった。
女房は亭主の前で、おびえて、呆気にとられているようだったが、やっと口をきいた。
「でもほんとかね?たしかなのかい?」
「たしかだとも!八年前のことだが、俺にゃ見覚えがあるんだ!ああ!見覚えがあるとも!すぐわかった!お前にゃわからなかったのか?」
「わからなかったね」
「だが、言っといたろうが、注意しろって。あの体つきで、あの顔で、まるで老けていねえ。どうしてだかしらねえが、年を取らねえ奴がいるもんだ。それにあの声の調子だ。身なりがいいだけのこった!へん!なんとも不思議な爺いだがもうつかまえたぞ!」
彼は立ち止って、娘たちに言った。
「出ていけ、お前ら!ーお前にはわからなかったのか。おかしいぞ」
娘たちは言われたとおりに立ち上がった。母親はつぶやいた。
「手に怪我してるのに」
「外の空気にあたる方がいいんだ」とジョンドレットは言った。「出て行け」
この男には誰も口答えできないらしかった。二人の娘は出て行った。二人が入口を出ようとしたとき、父親は姉娘の腕をつかんで、特別の調子で言った。
「五時きっかりに帰ってきな、二人とも。用があるんだ」
マリユスはいっそう注意深くした。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P344-345
皆さんお気づきでしょうか。
ミュージカル映画でジャン・ヴァルジャンの正体に気付いたのはテナルディエのおかみさんでありましたが、原作ではテナルディエが彼の正体を見破ったのです。しかも、すぐに気づいたというのですからやはりこの男は只者ではありません。
たしかに、先ほどのシーンでもかなり早い段階でテナルディエは妙な挙動をしており、「あいつをよく見ておけ!」と妻や娘に指示しています。
ミュージカルではやり手ながらもどこか抜けている性格のテナルディエですが、原作ではそんな隙などどこにもありません。禿鷹のように獲物を貪る恐ろしい人間こそ、このテナルディエなのでありました。
そして彼の話は続きます。
だしぬけに彼は女房の方に向き直ると、腕を組んで、大声をあげた。
「もう一つ聞かせてやろうか?あの嬢さんはな……」
「えっ、なんだって!」と女房は答えた。「あのお嬢さんが?」
マリユスはもう疑えなかった。
たしかに彼女のことを話しているのだ。彼はひどく気になって、耳をすませた、全生命を耳に集中した。
だがジョンドレットは身をかがめて、小声で女房にささやいた。それから身を起すと、終りだけ声をはりあげて言った。
「あの娘だ!」
「あれが?」と女房が言った。
「あれがさ!」
女房の「あれ」の中にあったものは、どんな言葉でも言い表わせないだろう。驚きと、熱中と、憎しみと、怒りが一つにまじり合った、すさまじい調子だった。おそらく娘の名前だったろうが、亭主が耳にささやいた一言二言が、このぼんやりしている大女を、目ざめさせ、そのいやらしさを恐ろしさに変えさすのに十分だったのだ。
「そんなことがあるもんかね?」と、彼女は叫んだ。「娘たちは跣で、服もないっていうのに!サテンのマントにビロードの帽子に、編上靴と、すっかり揃っている!身につけているものだけでも、二百フラン以上だよ!まるで貴婦人じゃないか!違うよ、あんたが思い違いしているよ!第一あれは不器量だったのに、今のは、そんなにまずくないよ!ほんとにまずくないよ!あれのわけがないよ」
「いやたしかだ。今にわかるさ」
このさっぱりした断定を聞くと、女房はブロンドの大きな赤ら顔をあげ、顔をゆがめて天井をにらんだ。そのときマリユスには、女房の方が亭主よりもっと恐ろしく思われた。まるで虎の目をした牝豚だった。
「へぇっ!」と彼女は言った。「うちの娘たちを哀れっぽそうに見ていたものすごい別嬪のお嬢さんが、あの乞食娘だって!ああ!あいつの腹を木靴で蹴破ってやりたい!」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P345-347
これで私たち読者もこのジョンドレット一家が何者であり、あの慈善親子が何者かが完全にはっきりわかります。ユゴーはジョンドレット一家も慈善家親子の正体をまだ一言も言っていません。この記事では便宜上彼らの存在を明かしてきましたが、物語としてはここで読者に開陳されたと言ってよいでしょう。
とはいえ、我々読者からするとそもそも彼らの正体は予想がつくのでありますが、やはりこうして答え合わせがあるとなんだか嬉しくなるものですよね。推理が当たる快感というのは多かれ少なれ誰にでもあるものです。
それに、今この状況はマリユスだけが何も知らない人間です。そのマリユスの目を通してこの状況が語られているのですが、私達はそのもっと奥の事情まで知っています。つまり、「マリユスは知らないけど、我々読者は知っている」、この状況そのものだけでも気持ちが良いのです。
読んでいてハラハラはするけれども、全く状況がわからないというわけではない分、どこか心に安全弁と言いますか、安心感があるのです。それがあるからこそ安心しながらハラハラするという絶妙な心理状態で物語を読んでいくことができるのです。
先の記事で私はここでの出来事がレミゼ全体を通して最も面白いと述べましたが、その一因がまさにこの状況と心理状態にあるのではないかと考えています。
そして最後に、ジョンドレットは自身の企みについても語り始めます。
「もう一つ聞かせてやろうか?」
「なんだね?」と彼女は訊いた。
彼は低い声で素気なく答えた。
「俺に財産ができたってことよ」
女房は、相手が気が変になったのではないかとでも言いたそうな目で、彼をながめた。(中略)
「何を言ってるんだよ?」と女房が訊いた。
彼は頭を振り、目をぱちつかせて、いよいよ実演にとりかかる大道の香具師そっくりの声をはりあげた。
「何を言ってるんだと?聞きな!」
「しっ!」女房がたしなめた。「そんなに大声を出しなさんな!人に聞かれちゃまずい仕事だろう」
「馬鹿言え!誰が聞いているってんだ!隣の野郎か?あいつならさっき出て行くのを見たぜ。いるにしたって、あの馬鹿が、聞くもんか。それに、ちゃんと、出て行くとこを見たんだぜ」
それでも、本能みたいなもので、ジョンドレットは、声を低めた。しかしマリユスに聞き取れないほどではなかった。幸い雪が積って大通りの馬車の音もにぶく、マリユスはその会話を一言もらさず聞くことができた。マリユスが聞いたのは次のようなことだった。
「いいか、ふんづかまったんだ、百万長者がさ!つかまったも同然だ。じたばたしても駄目だ。手筈はととのった。仲間にも会ってきた。奴は今夜六時にまた来る。六十フラン、とどけにな、馬鹿野郎が!俺の口上は聞いたろう、六十フラン、家主、二月四日とな!家賃なんざ、一期分もためちゃいねえや!だまされやがって!六時にやって来るわけだ!隣の野郎は飯を食いに行っちまう。ビュルゴン婆あも、町へ皿洗いに出かけらあ。家の中にゃ誰もいねえ。隣は十一時まで帰らねえ。娘どもは見張りだ。お前も手伝うんだぞ。野郎をやっつけてやる」
「やっつけられなかったら?」と女房が訊いた。
ジョンドレットはすごい身ぶりをして言った。
「俺たちでやっつけちまわあ」
そして大きく笑った。
マリユスは彼が笑うのを見るのは、初めてだった。その笑いは冷たく、静かで、身の毛がよだった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P347-350
さすがのマリユスもこれは聞き捨てならないものがありました。
ジョンドレットはあの慈善家のおじいさんを襲おうとしている!これは何とかしないといけない!
マリユスは、夢想家にはちがいなかったが、前に述べたとおり、生来、しっかりした、強い性格だった。孤独な物思いの習慣が、心に同情と憐れみを増して、やたらに腹を立てる力を弱めていたかもしれないが、憤慨する力まで減じはしなかった。彼はバラモン僧の思いやりと、裁判官の厳格さを兼ね備えていた。蝦蟇蛙を憐れむ一方、マムシを踏み殺す勇気も持っていた。ところで、彼が今のぞいていたところは、マムシの穴であり、目の前に見たのは怪物の巣窟であった。
「こんなひどい奴らは、踏みにじってやるべきだ」と彼は言った。
新潮社、ユゴー佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈢』P353
そこでどうすべきか思案したマリユスは静かにのぞき穴から離れ、ジョンドレットの女房に気付かれないようにこっそり屋敷を出ます。
そしてその行く先は警察署・・・。ここで作中屈指の痺れる名場面が展開されます。
ぜひお楽しみに!
続く
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