(10)『カラマーゾフ』執筆直前に亡くなった最愛の息子アリョーシャ。ドストエフスキーの実体験がこの小説には込められている

「カラマーゾフを読む」(10)『カラマーゾフ』執筆直前に亡くなった最愛の息子アリョーシャ。ドストエフスキーの実体験がこの小説には込められている
第二編 場違いな会合 三 信者の農夫たち
フョードルの道化ぶりが炸裂した庵室から一旦退出したゾシマ長老は、彼を待つ民衆の下へと向かいました。
そして今か今かと待ちわびていた信者たちの熱狂ぶりを私たちは目の当たりにすることになります。
その熱狂ぶりは本文を読んで頂くとして、これら狂信的とも言える人々の熱狂を見て私たち現代日本人は何を感じるでしょうか。きっと時代遅れで迷信的な印象を受けるのではないかと思います。
これは当時のロシアの知識人たちからしてもそうであったようで、ドストエフスキーはそれを見越して先回りした解説を加えます。つまり、こうした人々の熱気の源泉たる奇跡というのは実は合理的なものであるのだと。彼女たち素朴な農婦たちは治癒の奇跡を心の底から信じ切っているからこそそれが精神と身体に作用し、痙攣や病気の治癒などが起こるのだと言うのです。
ドストエフスキーはロシア正教の信仰に生きた人でありましたが、同時に極めて合理的な思考も持ち合わせていました。この奇跡と合理的精神をどう調和させるかがドストエフスキーの大きな関心事であったわけです。これはまさに主人公アリョーシャにも反映されています。
それに対しトルストイは奇跡を徹底的に排した理性的宗教を掲げます。彼の『要約福音書』という著作はまさに聖書から奇跡を徹底的に排除した作品となっています。ここがドストエフスキーとトルストイの決定的な違いとも言えるでしょう。

ドストエフスキーは奇跡を否定しません。ただ、アリョーシャの描写にもありますように、ただ闇雲に奇跡を信じるというのではないというのがミソです。
これ以上はここでは踏み込みませんが、こうしたドストエフスキーのキリスト教観が反映されるのが後の「大審問官」の章であり、カナンの婚礼の箇所になります。このことを念頭に置いておくと後の箇所ももっと楽しめること間違いなしです。
では、いよいよ核心に入っていきましょう。
奇跡を求めて熱狂する農婦たちの中に、ひと際目を引く女性がいました。そしてその姿をゾシマは見逃しませんでした。並々ならぬ悲しみがその女性から溢れ出ていたのです。
女性の名はナスターシェスカ。遠方からはるばるゾシマ長老に会いにきたようです。
そして話を聞いていくと、3歳になろうかという幼い子を亡くし、絶望しているとのことでした。
こう書くとあまりに散文的でその悲しみは伝わりにくいと思いますので、ここはぜひ本文で何度も何度も味わってください。私はこの箇所を読む度に泣きそうになります。
そして重要なのはこの母親と長老のやりとりがドストエフスキーの実体験から来ているということです。
ここまでもお話ししてきことではありますが、ドストエフスキー自身、最愛の子を失い、絶望に沈んでいたのです。しかもちょうどこの『カラマーゾフ』を構想・執筆しているまさにその時です。
せっかくですので妻のアンナ夫人の回想記からこの時のドストエフスキーの様子を見ていくことにしましょう。
一八七六年五月六日に、恐しい不幸がわが家をおそった。下の息子のアリョーシャが亡くなったのだ。
わたしたちにふりかかった悲しみの前ぶれらしいものは何もなかった。子どもはふだん元気で機嫌がよかったから。
亡くなる日の朝も、アリョーシャは、わたしたちがスターラヤ・ルッサに発つまえにしばらく遊びに来ていたばあやのプローホロヴナと、やっと少しわかる片言でおしゃべりをして、声をあげて笑っていたくらいだった。
急に、子どものちいさな顔が、かすかにけいれんしはじめた。ばあやは、歯が生えるころに子どもにときどき見られるひきつけだろうと思った。たしかにこの子はそのころ臼歯が生えはじめていた。わたしは驚愕して、すぐにわが家のかかりつけの小児科のチョーシン医師を呼びにやった。彼は近くに住んでいたので、すぐに来てくれた。きっと彼はたいした病気とも思わなかったのだろう、なにか処方してくれて、ひきつけはすぐにおさまると言った。
だが、けんれん(※ブログ筆者注、けいれんの誤植?)はつづいたので、わたしはフョードル・ミハイロヴィチ(※ブログ筆者注、ドストエフスキーのこと)を起こしたが、夫はひどく心配した。
わたしたちは神経科の専門医に診てもらうことにして、わたしがウスぺンスキー教授にたのみに行った。教授は診察中で、二十人ほどの患者が待合室で待っていた。彼はちょっと会ってくれて、診察がすみ次第、すぐに往診するからと言ってくれた。そして何かの鎮静剤を処方して、ときたま子どもにかけることもある酸素吸入器を持っていくように命じた。
帰ってみると、かわいそうな坊やはやはり同じ状態だった。意識を失って、ときどきちいさな体を、けいれんさせた。見たところ、うめき声も叫び声もあげないので、苦しそうではなかった。わたしたちはこのちいさな受難者のそばを離れず、じりじりしながら医者の来るのを待った。二時ごろやっと医者が来てくれたが、子どもを診て、わたしにこう言った。「泣かないで、心配しないでください。まもなく治まりますから」。
夫が医者をおくって出たが、まっさおになって帰ってきて、医者が診察しやすいように坊やを移してあったソファのかたわらにひざまずいた。わたしも夫と並んでひざまずき、医者が何と言ったか夫に聞きたくてたまらなかったが(あとになって聞かされたのだが、医者は夫に、もう臨終の苦しみがはじまっていると告げたそうだ)、夫は、しゃべってはいけないとわたしに合図した。
一時間ばかりたつと、けいれんは目だって弱くなっていた。医者の言ったことに元気づけられ、けいれんは静かな眠りに変ろうとしている、これはなおるしるしかもしれないと思って、よろこびさえしたほどだった。すると突然、坊やの呼吸がとまって、それで終りだった。そのときのわたしの絶望的な気もち!夫は坊やに口づけし、三度十字を切って、すすり泣きしはじめた。わたしも声をあげて泣きだした。かわいいアリョーシャをあれほど愛していた上の子どもたちも泣き叫んで悲しがった。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー2』P151-152
私はこの悲しい出来事を読むといつも目を潤ませずにはいられなくなります・・・ドストエフスキー夫妻の悲しみを思うとやりきれなくなるのです・・・。
フョードル・ミハイロヴィチはこの死につよい衝撃をうけた。彼はなぜか特にアリョーシャをかわいがっていて、病的なほどのかわいがりようは、まるでまもなく失うことを予感していたかのようだった。夫は、てんかん—自分から遺伝したこの病気で坊やが亡くなったことにとりわけ苦しんでいた。見た目には冷静で、運命の打撃に男らしく耐えているようだった。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー2』P152
現代の医学ではてんかんの遺伝性は低いことが知られています。
なのでドストエフスキーが自分を責める必要はありませんでしたが、時は1878年。どうしてそのことを知ることができましょう。それに、たとえ知ったとして何になるでしょうか。
ドストエフスキーは自分のせいだと苦しみました。最愛の子アリョーシャが自分のせいで死んでしまった。なぜこの子がこんな目に遭わなければいけないのだ。この子が一体何をしたというのだ!
ドストエフスキーの苦しみようは尋常ではありませんでした。
だが、わたしは、彼がこの深い悲しみをこらえた結果、それが彼自身にも悪く影響しはしないか、体でもこわしはしまいかとひどく心配した。
夫は(※ブログ筆者注、「夫を」の誤植か)いくらかでも慰め、彼のつらい気分をまぎらせたいと思って、わたしは、この悲しい期間にたびたび訪ねてきてくれたヴラジーミル・ソロヴィヨフに、この夏彼が行こうとしていたオプチナ僧院にいっしょに行くよう夫を誘ってくれないかと頼んだ。
オプチナ僧院をたずねることは、夫の年来の夢だったが、いざ実行するとなるとなかなかむずかしかった。ソロヴィヨフは承知して、いっしょに出かけるよう夫を説得にかかった。わたしもそれを強くすすめたので、夫は六月の半ばにモスクワに行き(彼は次の小説をカトコフに相談するために、前からモスクワに出かけるつもりだった)、その機会を利用して、ソロヴィヨフとオプチナ僧院に行ってくることにした。
ひとりだったら、わたしは、こんなに遠い、ことにそのころは難儀だった旅に出したりはしなかったろう。ソロヴィヨフのほうも、わたしに言わせれば「世間離れのした」人にはちがいなかったが、それでも夫がてんかんの発作をおこしたりしたら、気をつけてくれるにちがいなかった。
かわいい坊やの死に、わたしの心は揺がされた。だれもがわたしを見ちがえるくらい、なにごとも手につかず、悲しんで泣いてばかりいた。ふだんの快活さもいつもの精力もなくなって、かわりにあらゆることに無感動になってしまった。どんなことにも興味がもてず、家事にも、仕事にも、自分の子どもさえもがどうでもよくなって、三年このかたの思い出にふけるだけだった。夫は、わたしのさまざまな悩み、物思い、それにロにしたことまで、「カラマーゾフ兄弟」の「信心ぶかい女たち」の章で、子どもを亡くした女がその悲しみをゾシーマ長老に語るところに描いている。
夫はわたしのようすを見てひどく悩んだ。彼はわたしに、神の御心に従うように、神が与えたもうたこの不幸を甘受するように、彼の言葉で言えば、わたしが「無関心」になった自分と子どもたちをあわれに思うようにと、説き聞かせ、たのむのだった。彼が説きさとしてくれたことに動かされ、わたしは、自分のすぐ表にあらわれる悲しみが、いっそう気の毒な夫を苦しめることにならないように、自分を抑えることにした。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー2』P153-154
この箇所を読めばわかりますように、『カラマーゾフ』はこうしたドストエフスキー夫妻の悲しみから生まれてきた作品でもあったのです。
この世に生まれてきた子どもたちの運命。そのことにドストエフスキーは強い思い入れを抱いていました。そしてそれはすでに『作家の日記』の中でも幾度となく優しい眼差しをもって語られていましたが、このアリョーシャの死を通してさらにその思いを強くしたのではないでしょうか。『カラマーゾフ』では子どもたちがとてつもなく大きな役割を果たしています。血なまぐさくて愚かな大人たちの世界に対して、救いとしての子どもたちが描かれているのです。
アリョーシャを埋葬してすぐに(わたしたちはボリシャーヤ・オフタ墓地に葬った)、スターラヤ・ルッサに移ったが、つづいて六月二十日、夫はもうモスクワに着いていた。そこで彼は、新しい小説(『力ラマーゾフ兄弟』を、編集部との話合いで極く短期間にまとめることができた。この仕事を片づけると、彼はオプチナ僧院に出かけた。旅行のいきさつ、というよりは、ソロヴィヨフとの「彷徨」は、夫がわたしにくれた一八七八年六月二十九日の手紙に述べられている。
フョードル・ミハイロヴィチは、あたかも心を和らげられでもしたかのように、目に見えて落ちついて、オプチナ僧院からもどってきた。そして、まる二日すごすことになったこの僧院のしきたりについていろいろ話してくれた。
当時名だかい「長老」アンブローシー神父には、三度お会いした。一度は群集にまじって、残りの二度は差向かいだったが、神父とかわした話は、彼に深い、心からの感動をあたえた。夫が長老に、自分たちをおそった不幸と、わたしのはげしすぎるほどの悲嘆のようすを話すと、長老は、わたしが信心深いかどうかと問うたそうだ。夫がうなずくと、長老はわたしに自分の祝福を伝えるように言ったという。それと同じ言葉を、のちに小説のなかゾシーマ長老が嘆き悲しむ母親に語っている。
夫の話から、この誰もが尊敬する長老がどんなにりっぱな洞察者であり予見者であるかがよくわかった。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー2』P154
アンナ夫人が述べるように、子を失った母に優しく声をかけるゾシマ長老のシーン。これはまさにここでの実体験があったからこそです。
『カラマーゾフ』はあまりに有名な作品で、しかも「東大生が読むべき小説!」のような紹介もされるほどですので、ドストエフスキーその人の人生を知らぬままこの作品を読み進める人が大多数だと思います。私自身もそうでした。「この小説はすごいらしいから読んでみよう」という形ですね。きっと、ドストエフスキーその人への関心から読み始めた方は少ないのではないかと思います。
ですが、こうしたドストエフスキーの生涯を知ってから読むと、この作品に込められた思いがより伝わってくるように感じませんでしょうか。
私は彼自身の波乱万丈の人生がこの最後の大作に込められているのだと思うといつも胸が熱くなります。『カラマーゾフ』というのはそういう作品なのです。
次の記事では実際にそのゾシマの言葉を見ていくことにしましょう。
続く
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