(36)ジャヴェールの致命的な油断!肝心なところでへまをするジャヴェールにむしろ人間味を感じて味わい深い

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(36)ジャヴェールの致命的な油断!肝心なところでへまをするジャヴェールにむしろ人間味を感じて味わい深い
『レ・ミゼラブル』第二部 コゼット 第五章 暗闇の追跡に無言の同勢
前回の記事の最後でいよいよあの追跡劇の始まりまで見ていきましたが、その最後で次のような驚きの内容が語られました。
ジャヴェールは木から木へ、それから町角から町角へとジャン・ヴァルジャンを尾行して、一瞬も見失わなかった。ジャン・ヴァルジャンが絶対安全と思ったときでさえ、ジャヴェールの目は彼から離れなかった。
なぜそれではジャヴェールはジャン・ヴァルジャンを捕えなかったのか?それは、まだ疑いがあったからである。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P317
つまり、ジャヴェールは、ジャン・ヴァルジャンを捕まえようと思えばいつでも捕まえることができたにもかかわらず、失敗したのです。
そしてその理由としてユゴーは彼の疑いを指摘しています。しかもこの疑いはジャヴェールだけの問題ではなく当時の時代風潮とも関係していたことが明かされます。
この時代は、警察の自由気ままというわけにはいかなかったことを思い出さねばならない。言論の自由が警察をおさえていた。不当な逮捕があると、新聞でたたかれて、議会でも騒がれたので、警視庁もびくびくしていた。個人の自由の侵害は、重大事件であった。警官は失敗を恐れていた。そんなことをすれば警視総監から責任を問われた。一度の失敗で、くびだった。二十もの新聞に次のような小さな記事でものったら、パリでどんな反響が起るだろうか!「昨日、尊敬すべき年金生活者の白髪の老人が、八歳になる孫娘と散歩中、脱獄囚として逮捕され、警視庁の留置場に連行された!」
それに、繰返して言うが、ジャヴェールもまた特に用心していたのである。彼の内心の注意が総監の注意に重なっていた。彼は実際に疑いを持っていたのである。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P318
前回の記事で「疑いのあるときには、慎重な男のジャヴェールは、人の襟に手をかけるようなことはしなかった」というジャヴェールに喝采を送った私でありますが、実はこうした事情もあったのです。当時のパリではこれほど新聞の力が絶大だったのですね。これはジャヴェールも用心深くなるのもわかります。
ただ、引用の最後に強調されていますように、これは単に時代風潮にびくびくしていただけでなく、彼自身の信条によるものが大きかったことでありましょう。かつてマドレーヌ市長を告発した後、免職を願い出た彼の高潔さを思い返してください。彼はそういう男なのです。
では、これよりこの逃走劇をジャヴェール側から見ていくことにしましょう。
ジャン・ヴァルジャンは背を向けて、暗闇を歩いていた。
悲しみ、不安、気づかい、苦労、夜中に逃げ出して、コゼットのため、自分のために、パリであてもなく隠れ家を捜さねばならない新しい不幸、女の子の足に自分の足を合せる必要、そのすべてが重なって、知らず知らずジャン・ヴァルジャンの歩きぶりを変えさせ、身のこなしに老いの衰えが目立ったので、警察の化身のようなジャヴェールすら見まちがえることもありえたし、事実見まちがえたのである。すぐそばに近寄ることもできないし、亡命している老家庭教師のような服装をしているし、テナルディエは彼をおじいさんと言っていたし、最後に徒刑場で死んだと信じられていることなどが、ジャヴェールの心の中で不決断を深めていた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P318-319
なるほど、だからこそジャヴェールは確信を持てなかったのですね。
たしかにこの時のジャン・ヴァルジャンの歩き方や服装だけではさすがのジャヴェールも遠目からでは判断不能でありましょう。
いきなり身分証明書を出させてみようかという考えが一瞬浮んだこともあった。しかしもしあの男がジャン・ヴァルジャンでなかった場合、そして、まっとうな年金生活者の善良な老人ではなかった場合には、たぶん、パリの悪事の人知れぬ陰謀に深く、巧妙に関係している古狸か、危険な一味の頭目のたぐいで、ほかの才能を匿すために施し物をするという、古い手を使っている奴だろう。腹心の者や共謀者があり、もしもの場合の住居も幾つかあって、きっとそこに逃げ込むにちがいない。道を歩くのにやたらに曲ったりするところはただの爺さんではない。あまり早く捕まえるのは、「金の卵を産む鶏を殺す」ようなものだ。待ったところでどこに不都合があろう?逃がすものかと、ジャヴェールにはちゃんと自信もあった。だから、この謎の人物についてたくさんの疑問を考えて、あとをつけながらもかなり迷っていたのである。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P319
なるほど、つまり、この迷いはジャヴェールが優秀だったからこその迷いだったのです。彼はこの老人が只者ではないことをすでに見抜いています。そしてだからこそその背後にある「何か」にまで頭が回っているのです。ふむ、やはりさすがジャヴェールです。
だいぶあとになってからやっと、ポントワーズ通りで、居酒屋から流れる明るい光のおかげで、彼ははっきりとジャン・ヴァルジャンだとわかった。(中略)
たしかに、あの恐ろしい徒刑囚ジャン・ヴァルジャンだとわかるとすぐに、自分たちが三人しかいないと気づいた。それで彼はポントワーズ通りの警察署長に応援を求めた。
刺のある棒を握る前には、手袋をはめるものだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P319-320
このタイミングでようやく彼は確信します。あいつがジャン・ヴァルジャンだ!と。
そしてここからの流れも実に見事でありました。
ロラン十字路で、警官たちとの相談で手間どり、立ち止ったので相手の行くえを見失いかけた。しかし、彼は、ジャン・ヴァルジャンが追っ手を川で引離そうとするだろうとすばやく見ぬいた。まるで猟犬が正しい道を行こうとして地面に鼻をつけるように、彼は下を向いて考えこんだ。
ジャヴェールは力強い本能的な正確さで、まっすぐオーステルリッツ橋へ行った。橋番にひと言訊いてはっきりわかった。「女の子を連れた男を見かけなかったか?」「二スー払わせてやりましたよ」と橋番は答えた。
ジャヴェールが橋にさしかかったときにちょうど、川向うの岸の月に照らし出された空地をコゼットの手を引いてジャン・ヴァルジャンが横切るのが見えた。ジャン・ヴァルジャンがシュマン・ヴェール・サン・タントワーヌ通りに入って行くのが見えた。ジャヴェールはそこにまるで罠をしかけたようになっているジャンロ袋小路と、ドロワ・ミュール通りから、ピクピュス小路へのただ一つの出口のことを思い浮かべた。
彼は猟師の言うように先回りした。彼はその出口に部下の一人をほかの道から急いで行かせた。兵器廠の哨所に帰るパトロールの一隊が通りかかったので、頼んで一緒に来てもらった。こういう勝負では兵隊は切札である。それに猪を仕止めるには、猟師の才覚と犬の力がいるのが原則である。
こうした手筈がととのったのだし、ジャン・ヴァルジャンは、右はジャンロ袋小路、左は警官、うしろはこのジャヴェールと、袋の鼠になったと思って、彼は一服した。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P320ー321
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました。
なるほど、こういう流れでジャン・ヴァルジャンが追いつめられていったのですね。だとすればこれを逃げ切ったジャン・ヴァルジャンはやはり大したものです。
それからジャヴェールは、仕事にかかった。うっとりとするような、残酷な一ときだった。彼は相手に目の前を勝手に歩かせておいた。その男は自分の手中にあるとわかっていたし、しかも捕える時間をできるだけひきのばしたかったからである。手中にしていながら、勝手にさせておくのが愉快だった。蠅をじたばたさせておく蜘蛛や、鼠を走りまわらせておく猫の喜びで、じっと彼を見つめていた。爪には恐るべき快感がある。爪が捕えた動物の闇雲のあがきが、それである。じわじわと息の根を止めるのは、なんという快感だろう。
ジャヴェールは楽しんでいた。網の目はしっかりと結ばれていた。成功は疑いなしだった。今はただ手を握りしめさえすればよいのだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P321
あっぱれジャヴェール!勝利は目前です!勝ちを確信したジャヴェールの赤裸々な内面をユゴーは私達にも開陳してくれています。
ですが残念。
これは壮大な前フリです。まさに、この直後、「なん・・だと・・?」と言わざるを得ない大逆転劇が彼を襲うのです。
こんな味方がついているのだから、ジャン・ヴァルジャンがどんなに力が強く、勇敢で、必死になっても、手向うなどとは思いもよらない。
ジャヴェールはゆっくりと進んだ。まるで泥棒のポケットのように、通りがかりの道の隅々まで検査し、探ってみた。
網の中心まで来たとき、そこには、もう蠅はいなかった。(中略)
彼の激しい怒りは想像がつく。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P321-322
そんな馬鹿な!いないだと!
この時のジャヴェールの驚きたるやものすごいものがあったことでしょう。
そしてこの時のジャヴェールの失敗をユゴーは次のように分析しています。これが振るっていてまたいいんですよね!ユゴー大先生の切れ味抜群の解説を味わいましょう。
失望のあまり、彼は一時絶望と狂気の状態だった。
たしかに、ナポレオンもロシアとの戦争で失敗した。アレクサンドロスもインドの戦争で失敗した。カエサルはアフリカの戦争で失敗した。キルスはスキチアの戦争で失敗した。そして、ジャヴェールはジャン・ヴァルジャンとの戦いで失敗した。
彼はあの前科者を認知するのをためらったのが悪かった。彼ならば最初の一目でわかるはずだ。ぼろ屋敷であっさりと簡単に捕えなかったのが悪かった。ポントワーズ通りで、はっきり彼とわかったときに捕まえなかったのが悪かった。ロランの十字路で、月光を浴びて、部下と相談したのが悪かった。
なるほど助言は役立つものだし、信頼できる犬どもの意見を聞いて知っておくのはよいことだ。しかし、猟師は狼とか徒刑囚のように敏感な動物を狩り立てるときには、あまり用心しすぎてもいけない。ジャヴェールは、猟犬の一隊を配置することに夢中になりすぎて、かえって獲物に匂いをかぎつけられて、逃がしてしまった。
とりわけ、オーステルリッツ橋で足どりを見つけ出したとき、あれほどの男を糸の先につけておこうなどという馬鹿げた、幼稚ないたずらをやったのが悪かった。
彼は自分を実際以上に買いかぶって、鼠と同じようにライオンを玩具にできると思った。同時に、応援が必要だと思ったとき、あまり自分を弱くみすぎた。致命的な用心であり、貴重な時間の損失であった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P322-323
※スマホ等でも読みやすいように一部改行しました
う~む、実に的確です。的確であることこの上なしです。
特に「オーステルリッツ橋で足どりを見つけ出したとき、あれほどの男を糸の先につけておこうなどという馬鹿げた、幼稚ないたずらをやったのが悪かった」というのは痛烈です。そうです、あのジャヴェールほどの男でも油断してしまっていたのです。これは痛恨のミスです。これでは逆転負けを喫しても文句は言えません。完全に前フリになってしまっています。
そしてジャヴェールは今回の失敗で肝に銘じたことでしょう。「やるべき時は自分でやるべきなのだ」と。
彼は完璧を期すばかり、用心しすぎました。応援を要請したり、兵隊を呼んでまでジャン・ヴァルジャンを捕えようとしました。たしかにこうすれば盤石です。ですが、彼ほどの猟師であれば自らの感覚を信じ、自ら動くべきであったのです。実際、彼はその嗅覚でジャン・ヴァルジャンを追いつめていました。ですがそれを自分の楽しさを満たすために手放してしまった。これは大きな失策です。
そしてユゴーは次のようにまとめます。
大失敗も、太い綱のように、無数の小さな失敗でできていることが多い。大綱を一本ずつの糸に分け、小さな決定的な根本原因にばらばらにしてみたまえ。それを一つ切ってみれば、「なんだこれだけのことか!」と言うことになる。それを編み、より合せると、大きなものになる。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P324
なんと気の利いた箴言でありましょう。
たしかに、ジャヴェールの敗北は上で述べられたように、その要因自体はいくつもあり、ひとつひとつは些細なものでありました。ですがそれが合わさり、最後の大逆転を許してしまったのです。
ミュージカルに慣れた私達は有能で完璧なジャヴェールをイメージしてしまいがちですが、よくよく見ていくと実はこうしたへまを時おり彼はやっています。後のバリケード戦でもあっさり学生たちに捕らえられたりと、散々な目に遭っているのは私達もよく知ることでしょう。
たしかにジャヴェールは優秀です。ですがやらかす時はやらかすのです。私はそんなジャヴェールが大好きです。やはり彼も人間なのです。
そして致命的な油断によりジャン・ヴァルジャンを取り逃がすという大失態を犯した彼でありますが、さすがはジャヴェール、すぐに気持ちを切り替え、次の行動に移っています。しかもそれは実に的確なものでありました。
ともかく、ジャン・ヴァルジャンに逃げられたと気づいたとき、ジャヴェールは度を失うようなことはなかった。潜伏した徒刑囚はそう遠くに行けるはずがないと信じて、見張りをおき、罠や待ち伏せをつくり、一晩じゅう町を狩り立てた。
最初に見つけたものは、街灯がこわされ、その綱が切られていることである。貴重な手がかりだったが、かえって彼の判断をあやまらせて、ジャンロ袋小路の方面に捜査をそらしてしまった。その袋小路には、かなり低い塀が幾つかあった。その塀は庭に面しており、その庭の囲いは広い荒地につづいていた。ジャン・ヴァルジャンはそこから逃げたにちがいない。事実、もし彼がもう少し奥までジャンロ袋小路に入り込んでいたら、おそらくそうして逃げ、運の尽きとなったことであろう。ジャヴェールは、針でも捜すかのように、そこの庭や空きをくまなく探索した。
夜の明けるころ、彼は二人の腕ききの部下を見張りに残して、まるで泥棒に捕まった刑事のようにすごすごと、警視庁に引きあげた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈡』P324-325
ただ、ここで述べられますように、優秀だからこそ今度も推理が外れ、ジャン・ヴァルジャンを捕らえることに失敗します。
普通ならば成功していたはずがまたも当てが外れてしまったのです。
そう考えるとジャン・ヴァルジャンがあの修道院にたまたま逃げ込んだというのはとてつもないウルトラCだったということになります。やはりジャン・ヴァルジャンは持っています。英雄たる者、こうした偉大なるたまたまを味方にするものです。この勝負、主人公の勝利です。残念、ジャヴェール!
それにしても、このパリの逃走劇をジャヴェール側の視点からもう一度検証してみるというユゴーの大胆な構成に私は唸らざるをえません。この逃走シーンはたしかにそれだけ臨場感ある名シーンであることは間違いないのですが、それをこれだけ奥行あるものに進化させたというのはやはり尋常ではありません。あっぱれユゴーであります。
いずれにせよ、レミゼのもう一人の主人公と言ってもよいジャヴェールの意外な一面を知れるのがこの場面になります。ぜひ原作ならではの楽しみとして深く味わって頂ければと思います。
続く
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