(5)宗教は幸せを願うもの?ヒンドゥー教の明るさに思う

『シン日本仏教史』⑸ 宗教は幸せを願うもの?ヒンドゥー教の明るさに思う
晩のプージャにショックを受けた私は早めにベッドに入りました。よっぽど疲れていたのでしょう。いつもよりかなり早く眠ってしまいました。
しかし明朝、まだ外も暗いかという時間に私は目を覚ましました。何やら外が騒がしいのです。
時計は何時だ?ん?まだ朝の5時ではないか。何だこの騒ぎは・・・
気になった私は部屋を出て廊下の窓から外を見てみたのでありました。

パッと見てすぐにわかりました。
あぁ・・・そうか・・・もう朝のお祈りの時間か・・・と。
まだ日も上がらぬ内から巡礼者が行動を始めているのです。それに合わせて露店も商売開始。その喧噪が部屋まで筒抜けだったのです。こればっかりはどうしようもないですが、疲労困憊の私にはかなり厳しいものがありました。
この喧噪では再び眠るわけにもいかず、この後私はしばらく目の前を行き交う巡礼者を眺め続けることにしました。

私の宿の目の前にはガンジス川が流れており、ここでも沐浴ができるようになっています。
そしてしばらくすると、一人の中年男性が私の目に留まりました。
この人がものすごい勢いでガンジスの水を全身に塗りたくっていたのです。しかもそれがあまりに高速で、あまりに気合いの入った動きだったので私はその俊敏複雑な動きに目を奪われてしまったのでありました。
昨日ガイドさんは言っていました。「こうしてガンジスで悪いものを洗い流すと運がよくなるんです」と。
これを迷信と言うのはたやすいことですが、この人は本気で身体を洗っているのです。彼にとってガンジスは本当に悪を洗い流す聖なる存在なのです。外部の人間が単に迷信と切り捨てていいものでは決してありません。
ですが、そんな気合の入った姿のすぐ横をゴミが流れていくのです。その光景に、私はこう思わずにはいられませんでした。「どうしてインド人はこの聖なる川をきれいにしようと思わないのだろうか」と。
しかしすぐにハッとしました。
「この川は汚いものを洗い流す川なのだから、汚れていたって構わないのだ」と。悪いものを流してしまうのだから汚れるのはむしろ当然のことなのだろうと。
・・・それにしても川に浸かれば自身の悪が浄化されるというのは非常に楽観的な思想ではないでしょうか。昨日のプージャの火に殺到した巡礼者も然りですが、自分の幸福に対する飽くなき思いが感じられます。自分の幸せのために何の躊躇もなくぶつかっていく。そこに遠慮なんて存在しません。そんなことをしていたら横入りされて終わりです。
現世利益、欲望肯定の極み。ですがそこには同時に底抜けの明るさがあります。自分の感情をそのままぶつけるオープンさがあります。幸せになりたくて何が悪い!神様、私に幸運をください!そんなすがすがしささえ感じられないでしょうか。
このような人達に「それは迷信である。悪は日頃の慎み深い行為によってのみ浄化される。ガンジスに入ってもそれだけでは意味がない」と言ったところで何になりましょう。
ですが、今からおよそ2500年前、仏教の開祖たるブッダはまさにそれを説いて回ったのです。ブッダがいかにとてつもないことを言っていたかをまざまざと感じました。今よりももっと迷信的な時代に信じられない程過激なことをブッダは言っていたのです。
となると誰がその教えを聴いていたのかという疑問が浮かんできます。おそらくこうしたガンジス信仰を持つインドの一般民衆には厳しいでしょう。こうなると当時のアウトサイダーが中心となってくるのではないか。あるいは当時の社会秩序に不満を持っていた新興勢力か・・・。このこともこの連載で後にじっくり考えていきますのでぜひお楽しみに。
いずれにせよ、早朝からインドの宗教について考えざるをえない光景と直面することになった私でありました。
続く
主要参考文献一覧
〇インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧
〇インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧
〇仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧
〇中国仏教・中国思想のおすすめ解説本一覧
〇親鸞聖人や日本仏教を学ぶためのおすすめ参考書一覧
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