(42)親鸞の死~90年の生涯を終えた偉大なる僧侶の最期

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(42)親鸞の死~90年の生涯を終えた偉大なる僧侶の最期
80代半ば、善鸞事件によって多くの著作や書簡を残した親鸞でしたが、さすがにこの歳になると自らの衰えを感じるようになっていました。
85歳の時に出された弟子宛ての手紙にも「最近は目も見えなくなってきた」と弱音を述べています。
まあ、85歳になって初めてこうした弱音を吐くという時点で親鸞の超人ぶりが見て取れるのですが、さすがの親鸞も体の衰えをひしひしと感じていたのでしょう。
そんな親鸞の最晩年の生活ですが、これがどのようなものだったのかも残念ながらほとんどわかっていません。
ですが、いくつかの足跡は辿ることができます。
親鸞の最晩年もいくつかの家を転々としていたらしいことがわかっているのですが、その中でも最も長く住んでいたとされるのが善法院というお寺でした。諸説ありますが、ここが親鸞の終の棲家であったともされています。

この善法院は親鸞の弟尋有が管理していた僧房でした。親鸞は弟の家に住んでいたのです。
「え!?親鸞に弟がいた!?」
そうなのです。実はここまでお話ししていませんでしたが、実は親鸞には4人の弟がいます。そして皆親鸞と同じく出家しています。
そして次男の尋有は最終的に少僧都となりそこそこの出世をしています。出世は遅かったそうですが、おそらく叔父の宗業を介して後鳥羽上皇からの取り立てがあり、この出世が叶ったのではないかとされています。親鸞は早くに比叡山を下りてしまったので間に合いませんでしたが、弟たちはその後も天台僧侶として地道に励んでいたようです。
また、いつの時点かは不明ですが妻の恵信尼が京から越後へと渡り、親鸞と別居生活となっています。ただ、これは夫婦の仲が悪くなったからではなく、経済的な理由であったようです。と言いますも元々恵信尼の実家が所有していた越後の領地を彼女が管理することになったとのこと。当時は女性の権利が強く、所領の管理も女性が任されることが普通だったのです。
こういうわけで親鸞と恵信尼は別居することになったのですが、その親鸞の身の回りの世話をしていたのが末娘の覚信尼でありました。後の恵信尼の手紙から見ると、覚信尼がかいがいしく親鸞の世話をしていたことがうかがわれます。親鸞はその最晩年、愛する末娘と暮らしながら静かな日々を過ごしていたことでしょう。
善鸞事件は親鸞の晩年を襲った巨大な嵐でした。
しかし、その嵐もいつしか過ぎ去り、穏やかな日々がやって来ます。
85歳で「目も見えなくなってきました」と吐露した親鸞。87歳以降はさすがにその執筆もほとんどなくなり、89歳でついにその筆は完全に止まります。
ここまで猛烈な勢いで書き続けていたこと自体が信じられないことではありますが、いよいよ親鸞の体は弱って来ていたのです。
こうした最晩年の親鸞の思いは、やはり記録に残されていません。親鸞は最後まで自分のことを書き残してはくれませんでした。
しかし、それ以前に遺された親鸞の手紙や著作からその最晩年の心境を想像することは私たちにもできるかもしれません。
親鸞は弟子への手紙に次のような言葉を書き記しています。
私は、今は、すっかり歳を取ってしまいましたので、きっと、先だって往生することになるでしょうから、浄土でかならず、かならず、お待ち申し上げます。あなかしこ。あなかしこ。
筑摩書房、阿満利麿『親鸞からの手紙』P188
親鸞は、残された弟子達に対し、「私は先にお浄土に行き、必ずそこで待っています」と伝えています。つまり「お浄土でまた会いましょう」と親鸞は述べるのです。
「この世では世話になったね。いろんなことがあったね。本当にありがとう。至らない私ではあったがあなたと会えて本当によかった。またお浄土で会おう。私は先に行くよ。そして必ずあなたを待っているからね。」
私には親鸞の死生観がこの「お浄土でまた会いましょう」という思いに尽くされているのではないかと思えてなりません。
親鸞は主著『教行信証』の最後の最後にも次のような言葉を記しています。
「前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪ねよ。そして願わくはそれが連続して途切れることなく、長きにわたって続かんことを。」
東本願寺出版部、『真宗聖典』P401の該当箇所を筆者意訳
この言葉は中国僧道綽の『安楽集』から引用されたものなのですが、親鸞が『教行信証』の最後の最後にこれを置いた意味はとてつもなく大きなものがあると思います。つまり、親鸞は人生の意味をここに見出したのではないかと思うのです。
人間とはこの念仏の教えを後世に伝えるべく存在していたのだと。前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪ねよ。こうして私も後に生まれた者から先に生まれた者へとなっていく。私の人生は決して無駄ではないのだ。この世界の大きな流れの一つとしてこの命を生き切るのだと。
現代は科学全盛の時代でそう簡単に来世や過去世のことを信じられない時代かもしれません。そして唯物論的な考えから、「死んだら【もの】になって終わり。だから生きている内が全て。死んだら無なのだ」と考えてしまいがちです。しかし人間の命とは本当にそういうものなのでしょうか。私はこうした親鸞の生き様から単に唯物論では割り切れない人生の大きな意義を考えざるをえないのです。
また、親鸞は最晩年が近づくにつれ「義なきを義とす」という言葉を語るようになります。つまり、「私たち小さな人間の思いやはからいを捨て、阿弥陀仏にお委ねしよう」ということです。皆さんも「他力本願」という言葉を聞いたことがあると思いますが、この言葉は元々、親鸞の他力本願思想から来ています。私たちのはからい(自力)を捨て、阿弥陀仏の本願(他力)に人生をお委ねしようというのがその本義です。
現代では他力本願といえば「他人任せ」という意味合いで使われていますが、その元々の意味はこうした阿弥陀仏にお委ねしようという所から来ています。つまり、親鸞は人生すべてを仏様に委ねる自然法爾という境地に最晩年に至ったと言えることでしょう。私の人生は仏様のお授けによるものだったのだと。そして私たちはそうした人生を最後まで生ききるのだと。これまであった全てのことを受け入れ命を生き切っていく境地、これが親鸞の穏やかながら勇敢な境地であったのではないかと私は思うのです。
こうして親鸞は最期の時を迎えていきます。
1262年11月下旬、親鸞は病気になり寝込むようにようになりました。
そして同月28日、ついに息を引き取ります。享年90歳でした。
遺体は京都東山の鳥辺野の南辺りにあった円仁寺で火葬され、その後大谷の地に埋葬されました。

『御伝鈔』によればこの10年後の1272年、親鸞の墓を大谷の北の地に改め、そこに廟堂が建てられることになりました。これが今も続く本願寺のはじまりになります。本願寺はこの廟堂が発展したものになります。

親鸞の死は呆気ないほど静かに訪れました。
しかし英雄の死とはそういうものです。ジャン・ヴァルジャンもドン・キホーテもその最期は驚くほど呆気ないものでした。
彼らは皆、静かにこの世から退場していくのです。まるでやるべきことは全てやった、すべてのエネルギーをそこに費やしてきたと言わんばかりに静かに、力衰え命を終えていくのです。そこに劇的なフィナーレなど必要ありません。彼らの生き様そのものがあれほど偉大なものだったのですから・・・。
親鸞はこうして90年の生涯を終えました。
長きにわたって追い続けてきた私たちの旅路もこれで終わりを迎えます。次の記事で「あとがき」として私の思う所を述べてこの連載記事を終えたいと思います。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
主要参考文献一覧はこちら

前の記事はこちら

関連記事



