(28)親鸞、新天地の関東へ!新たな拠点「稲田の草庵」に移り住む親鸞一家

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(28)親鸞、新天地の関東へ!新たな拠点「稲田の草庵」に移り住む親鸞一家
これまでお話ししてきましたように、親鸞は1211年11月17日に朝廷から正式に罪を赦され、晴れて自由の身になりました。
しかし親鸞はその後もしばらく越後に留まったままでした。
これにはおそらく恵信尼との結婚生活も影響していたと思われます。親鸞夫妻にはすでに2人の子が生まれていましたし、越後に所領のあった恵信尼がいる以上、生活基盤もここにあります。
また、親鸞は赦免後も公式の僧籍を回復しませんでしたので、公的な僧侶としての資格もありません。つまり、京都に帰っても仕事がありません。それに、「非僧非俗」の生き方を選んだ親鸞に京都での僧侶生活はそもそもありえなかったことでしょう。
いずれにせよ、親鸞は赦免後もしばらくは越後で生活していたのでありました。
そんな親鸞に動きがあったのが1214年のことです。
ここで親鸞一家は越後での生活を捨て、関東へと旅立ったのでした。
ちなみにですがこの1214年(建保元年)の年号はあの宗業叔父さんが作成した年号になります。親鸞が比叡山を下りた建仁元年も宗業の発案でしたし、今回の関東への出発も不思議なことに重なっています。親鸞は再び叔父の偉業に背中を押されて新生活へと踏み出したのでありました。


こちらが親鸞が拠点とした稲田の草庵跡に立つ西念寺というお寺です。現茨城県笠間市にあるこの地を拠点に親鸞はその後20年近く関東での布教生活に邁進することになります。

この関東滞在の折に弟子が増え、初期真宗教団とも言える道場(お寺の原型)が関東各地にできていきました。越後で沈黙していた親鸞でしたがここ関東では積極的な布教が顕著です。また、有名な山伏弁円との対決もここ稲田の草庵近くで起こりますし、この関東滞在中に書き上げられたのが主著の『教行信証』になります。まさにこの関東滞在は親鸞の核となる業績が目白押しとなる時期でもあります。
ただ、親鸞の関東滞在は実のところ、これまであまりフォーカスされてこなかった歴史があります。
と言いますのも、親鸞の伝記(伝承)として最も知られているのが本願寺の『御伝鈔』なのでありますが、この書では関東の地域事情や親鸞の足跡がそこまで詳しくは語られないのです。その理由は諸説ありますが、ともかく関東における親鸞については『御伝鈔』で語られる次のようなイメージが強力に根付くようになりました、
それが「人も少ない田舎である稲田郷でひっそりと暮らしていた親鸞であったが、貴賤を問わず多くの人がわざわざ親鸞を訪ねに来て大いに賑わった」というものです。
これが浄土真宗、特に本願寺系の伝承として伝えられてきたため、親鸞の関東滞在というとものすごい田舎でぽつんと暮らしていたというイメージで語られるようになったのです。そしてそんな田舎で文字もわからぬ人々と共に生き、布教生活を行っていたとされてきました。
しかし、近年の研究ではそうした関東像が根底から覆されてきています。その中心となったのが東国研究で著名な歴史学者今井雅晴氏による説です。
次の記事からはその今井氏の説を参考に親鸞の関東滞在の知られざる実態をご紹介していきます。
「そもそも親鸞はなぜ越後から関東へ移ったのか、なぜ稲田の草庵に住んだのか」
「関東は本当に田舎だったのか」
「親鸞を慕った人々は本当は誰だったのか」
次の記事もぜひお楽しみに。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
主要参考文献一覧はこちら

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