⑴親鸞の誕生とその出自~藤原氏傍流の日野家に生まれた聖人と当時の貴族事情について

『親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』⑴親鸞の誕生とその出自~藤原氏傍流の日野家に生まれた聖人と当時の貴族事情について
親鸞聖人(以下敬称略)は1173年に中下級貴族の日野有範の長男として誕生しました。
日野家は摂関家たる藤原氏の傍流の一族であります。その本拠地は現在の京都市南部にあり、彼らの菩提寺たる法界寺は国宝に指定されるほど由緒あるお寺で、親鸞(幼名松若丸)もこの付近で誕生したとされています。

とはいえ、ここは平安京から離れたさびれた田舎でもありました。『方丈記』で有名な鴨長明が隠遁生活をしていたのもこの付近です。
つまり、日野家は平安京の政治の第一線に関わる有力貴族というわけではありませんでした。さらに言えば、親鸞の父たる日野有範はほとんど出世の見込みがないという苦しい家庭事情だったのです。
実はこの時代、貴族の数も増えに増え、重要な役職はすでに藤原摂関家の嫡流や皇族の血を引く公家源氏の一族などで定員オーバーという状況でした。そこに傍流たる日野家の割って入る余地はありません。
いきなりそう言われてもピンと来ないと思いますが、次のような状況を考えてみましょう。
朝廷の官僚システムが出来上がってくる時代が700年代の奈良時代と言われています。有名な大宝律令も701年の成立です。仮にですがこの時に最高クラスのポストが10、次点のポストが20あったとします。
この頃にトップのポストに付いていたのはもちろん藤原氏です。その中でも中臣鎌足の直系の子孫である藤原不比等こそ藤原摂関家へと繋がる最重要人物でありました。
そしてさらにこの不比等には4人の優れた息子たちがいました。この4人も自ずと最有力のポストを占めることになります。
となるとすでに最高クラスのポストが5埋まるわけです。
ただ、この時代はまだそれで済みます。
しかしこの4人の息子たちがそれぞれ5人ずつ息子たちを設けたらどうでしょう。
超名門の藤原不比等の血を継ぐ人間が一つの代で一気に20人になってしまいます。
そしてその子たちがさらに5人産んだら?
ここから先はもう指数関数的に藤原氏が増えていくことになります。そうなるとすでにあったポストでは全く足りません。となるとポストを占めるのは嫡流のみで、その他はどんどん没落していくということになっていきます。
これが破滅的な状況にまで陥っていたのが親鸞が生まれた時代だったのです。もちろん、上の話はわかりやすいようにした「仮の話」ですので、不比等と息子たちが同時に最高ポスト5つを独占したわけではありません。しかし、時間が経つにつれ貴族の数がどんどん増えて収集がつかなくなるという原理は伝わったのではないでしょうか。
しかもこの没落のスピードがとてつもなく早いため、それぞれが自身の家を守るため死に物狂いでありました。これは傍流だけに限らず、たとえ嫡流に生まれたとしても長男、次男、三男、四男で誰が家督を継ぐかで熾烈な争いが繰り広げられることになりました。あの藤原道長も三男でありましたので本来家督を継げる存在ではなく、たまたま長男と次男が病気で早世したからこそ藤原氏のトップになれたという裏話もあります。
つまり、傍流たる日野家にはそもそも出世のチャンスなど存在しないというのが実際のところでした。
しかもです。親鸞の祖父に当たる日野経尹が朝廷で何か失態をしでかしたとのことで、その息子たる親鸞の父日野有範は気の毒なことにさらに不遇の身となったというのです。

祖父の経尹が具体的に何をしでかしたかは記録に残っていませんが、「放埓の人」であったのは確かなようです。
というわけで日野有範には将来がありません。そんな弱小貴族が最後に取る手段は一つしかありません。つまり、出家です。
有範は世俗の世界を捨て出家し、そして彼の息子たち全員も出家し寺に入ることとなりました。そうです。こうして親鸞は出家することとなったのでした。
親鸞における伝承では世を儚んでの出家というように言われることもありますが、こうしたやむを得ない状況で出家することは当時としてはよくあることだったのです。貴族として立ち行かなくなった人間がもうひとつの生き場を求めて出家する・・・。それが当時の仏教界でもあったのです。
こう言ってしまうと、「なんだ、仏門に入ったのは仕方なかったからだったのか」と思われるかもしれませんが、たしかに最初の動機としてはそうだったとしても、仏道修行はそんなに甘いものではありません。世俗での繁栄を捨てて仏門に入ることで見えてくるものもあります。厳しい修行を経て世の平穏を祈ったり、僧侶としての仕事をすることで人の役に立つこともできます。ある意味、仏教界は社会のセーフティーネットとしても機能していたのです。
もしこのセーフティーネットがなかったら・・・。
言い換えると、貴族として没落し生活できなくなった先に何があるのか、もしこのまま最悪な状況まで没落してしまったらどうなるのかということです。
・・・野垂れ死か、あるいは強盗、盗賊となって生きていくしかありません。
「何をそんな極端な」と思われるかもしれませんが、これは史実として実際にありふれたことだったのです。当時、平安京付近の山には多数の群盗がいて、夜な夜な京に現れては強盗を行っていたのです。彼らは馬や弓を扱い、その機動力を武器に暴れまわっていました。馬に乗れて弓を扱えるというと私たちは武士をイメージしてしまいますが、当時の貴族もこうした武装が求められていたのです。貴族というとなよなよしていて蹴鞠や和歌に明け暮れるというイメージがあるかもしれませんが、こうした群盗には貴族崩れの人間が多数混じっていたのです。
当時の貴族は決してなよなよしていた人間ではありません。貴族自身が馬に乗り弓を扱える武人でもあり、さらにいつでも動員できる配下を持っていました。
こうした貴族達が没落を生き抜くために破れかぶれで一斉に武装蜂起したらどうなることでしょう。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら戦うことを選んでもおかしくありません。
ですが、そこに仏教界というセーフティネットがあることで多くの貴族はそこに第二の生き場を見出したのです。
貴族の大量出家が始まるのは平安中期からです。まさにこうした貴族事情と仏教界が連動したということになります。貴族が仏教界に多数入ることで堕落が進んだとかつては批判されていましたが、現在の歴史学ではそう単純に片づけられないことが明らかにされています。ここではこれ以上はお話しできませんが、親鸞の出自と出家についての大筋を今回の記事ではお話しさせて頂きました。
親鸞の出家時のエピソードについては後ほど改めてお話ししますが、次の記事ではそんな親鸞の優秀すぎる叔父たちについてご紹介していきます。
親鸞が後に大成することができたのもこの優秀すぎる叔父たちの存在があったからこそです。
出自では全く将来の見込みがなかった親鸞ですが、自らの知恵才覚で人生を切り開いたこの叔父たちの後押しにより大いなる仏教人生がスタートしていったのでありました。
続く
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