(10)サン・カリストのカタコンベを訪ねて~カタコンベの歴史と死と祈りの街としてのローマを考える
【ローマ旅行記】(10)サン・カリストのカタコンベを訪ねて~カタコンベの歴史と死と祈りの街としてのローマを考える
キリスト教の街ローマを考える上でやはり「墓」という存在は大きな意味を持つ。
サン・ピエトロ大聖堂もそもそもの始まりは聖ペテロの墓だ。
ローマという街は墓を中心として発展を続けてきた歴史がある。今回の記事ではそんな「墓の都市」ローマについて考えていきたい。
墓の都市ローマ
グレゴロヴィウスは『教皇たちの墓』という本の中で、そんなローマでの研究をこんなふうに書いている。「世界のどの都市にもましてローマでは、研究は死の足跡にわれわれをみちびく。そして地上のいかなる地も、幾世紀にもわたる廃墟の下に、歴史の復讐の女神、ネメシスが美しくも悲しく横たわる、この永遠のローマほど、人の心をメランコリーでうちひしぐところはない」。つまり、ローマは死の思い出に満ち満ちている、というわけである。
またシェリーも、ローマを「天国であり墓場、都市であり荒野」とうたった。実際、ローマは墓の都市だといっていいだろう。そしてキリスト教も「死の宗教」であり、「死への勝利の宗教」である。聖堂の床にはめ込まれた墓を踏まずに、あるいは祭壇の下に着飾って安置されている聖人の骸骨や、殉教者の死のさまを執ように描いた絵画を見ることなく、ローマを歩き、ローマを見学することはできない。歴史とは死者の記録である以上、それはいたし方ないことかもしれないが、ローマほど死が生活や街に雑然と同居する都市はあるまい。人類学者は死は現代のタブーだという。そうした意味ではローマ、とりわけローマの聖堂はわれわれに対する挑戦という一面をもっているといえるかもしれない。
吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P147-148
※一部改行した
「ローマは死の思い出に満ち満ちている」
「実際、ローマは墓の都市だといっていいだろう。そしてキリスト教も「死の宗教」であり、「死への勝利の宗教」である。」
ローマと言えば美の殿堂や古代ローマの浪漫に目が行きがちではあるが、たしかにこう言われてみればまさにその通りなのである。ローマという街はいわば墓と死の街でもあったのだ。
ローマにおける墓の歴史
さて、ギボンとグレゴロヴィウスをとらえたキリスト教ローマの誕生というドラマにも、墓が登場する。いうまでもない。それはカタコンべだ。帝国最盛期から帝国滅亡後にかけて造られた、このキリスト教徒の地下墓地は、キリスト教ローマ誕生のドラマの、いわば序曲だといえるだろう。
しかし、それを見る前に、当時のローマ人の墓、つまり異教徒の墓を見ておく方がよいと思う。それには、アッピア街道のサン・セバスティアーノ門の手前にある、スキピオ家の墓とポンポニウス・ヒュラスの墓を見学するとよい。このうち私が特におもしろいと思うのは、スキピオ家の墓のそばに発見された古代の共同墓地、コルンバリウム(コロンバーリオ)だ。その名のとおり、四方の壁にハト小屋のように、半円形の壁龕がずらりとうがたれ、壁龕にはそれぞれ骨壷が二つずつはめ込まれている。古代風墓のアパートといった趣だ。このコルンバリウムは、個人が一族のために、あるいは分譲して利益を得るために、もしくは互助会が会員のために造った共同墓地で、ローマとカンパーニャ地方にのみ発見される墓地の形式だという。なお、古代ローマでは火葬も土葬も合法であったが、共和政時代からは、このコルンバリウムのような火葬が一般的となった。これに対して、火葬にせず石棺を用いる埋葬法が流行するのは、二世紀以降だという。
そうした墓は、市内に造ることはかたく禁じられていたので、すべて城壁の外にあった(今述べたスキピオ家の墓なども共和政時代には城壁の外にあった)。古代ローマは無数の墓地に取り囲まれた都市でもあったのである。彼らはそうした墓地を、ギリシアの伝統にしたがって、ネクロポリス、つまり死者の都市と呼んだ。これに対して、キリスト教徒たちは彼らの墓地を呼ぶのにキュミテリウム、つまりドミトリーという言葉を用いた。彼らにとって、墓は復活の日まで眠るところに過ぎなかったからだ。
吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P148-149
僧侶である私にとって、墓や埋葬の歴史というのは実に興味深い。かつてローマでも火葬が行われていたとは私も驚きだった。
そしてこうした文化的背景の中からキリスト教のカタコンベが生まれてくる。
カタコンベの始まり
さて、初めのうちは特別な墓地をもたなかったキリスト教徒が、カタコンべという自分たちだけの地下墓地を造るようになったのは、二世紀の初めころからだといわれる。その発端となったのは、富裕な信者が貧しい仲間を一族の墓に埋葬してやったことであった。ドミティッラやプリシッラのように、多くのカタコンべが今日も最初の墓の所有者や土地の寄進者の名で呼ばれているのは、そのためである。
キリスト教徒がカタコンべという地下墓地の形式を選んだのは、彼らの埋葬法が土葬だったからであった。つまり、土葬にする場合、地上では広い土地が必要だが、地下なら必要なだけ掘り下げればいい、そうすれば都市に近いところに安価に墓が造れる、というわけである。それに、生前の仲間と死後もともに集まり、静かに復活の日を待つには、地下の方がふさわしいと考えられたのであろう。また、カタコンべには多くの殉教者も葬られたから、信者たちはそのそばに墓を造って、わが身の救済をより確実なものにしたいと願ったせいもある。そんなわけで、この地下墓地は大いに発達した。三、四世紀になると、カタコンべは教会の所有ないしは管理下に置かれるようになり、組織的に造られていったのである。
吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P149-150
カタコンベが造られ始めたのは2世紀に入ってから。
都市の近くに安く墓を造るという実用的な面から始まったのがきっかけだった。
アッピア街道のサン・カリストのカタコンベ
今日ローマの周辺には六〇ほどのカタコンべが発見されている。そのうち一般に公開されているのは一割ほどだが、中でもアッピア街道とアルデアティーナ街道沿いにあって、特に大規模で重要なサン・カリスト、サン・セバスティアーノ、サンタ・ドミティッラの三つのカタコンべは、巡礼地として、また旅行者の見学場所として、多くの人びとが訪れる。このほかサン・ロレンツォ聖堂やサン・タニェーゼ聖堂にもあまり大きくはないが、当初の素朴な姿を伝えるカタコンべがある。また、サラーリア街道に沿ったプリシッラのカタコンべは、壁画のすばらしさの点でも、そして観光化されていない独特の雰囲気の点でも、特筆すべきカタコンベといえよう。これらのカタコンべは、いろいろな意味で、いずれも見学する価値がある。少なくとも、半日をさいて、アッピア街道のすがすがしい雰囲気を楽しみ、街道沿いのカタコンベの一つか二つを訪れるのは、ローマ見学者の「マスト(必須)」といえよう。
これらのカタコンべは、いずれもガイドの案内によって見学するようになっている。カタコンべは真の暗黒の世界であり、まさに地下の迷宮である。サンタ・ドミティッラやサン・カリストのように三〇〇年にもわたって掘りつづけられたカタコンべでは、ギャラリー(地下道)はのべ二〇キロ以上にものぼり、三層にも四層にも掘り下げられている。だから、一六世紀末に三〇ものカタコンべを発見して、「ローマの地下のコロンブス」といわれるアントーニオ・ボジオでさえ、サンタ・ドミティッラのカタコンべで道に迷い、出口を求めて暗黒の中をさまよったくらいだ。ガイドなしで見学することが不可能なのはいうまでもない。
さて、ローマのカタコンべは土地の言葉で「カペラッチ(ぼろぼろの帽子)」と呼ばれる、手でさわるとぼろぼろと崩れるようなトゥーフォ(凝灰岩)をうがって造られている。簡単に掘れ、しかも水はけがいいから、卜ゥーフォはカタコンべには理想的だった。ローマでカタコンべが発達したのは、歴史的、および社会的要因にくわえて、この自然条件が貢献したといえるだろう。
カタコンべは第一層目でも地下三メートルから八メートル、第二層目は一〇から一五メートル、第三層目はニ〇メートルにも達する。また、サン・カリストのカタコンべでは、地下二五メートルにも達するところがあるという。両側にロクルスと呼ばれる墓穴が幾段にもうがたれた、暗黒と静寂の支配するギャラリーを進んでいくと、初期キリスト教徒たちにこのような地下墓地を造らせた情熱は、一体何に由来するのだろうと、今さらながら考えさせられる。カタコンべはキリスト教が公認されて信者が増えるにしたがって、ますます多く造られた。そして、五世紀初めのゴート人の略奪を機に、城壁内の安全な場所に地上の墓地が造られるようになるまで、ニ、三世紀にわたって掘りつづけられたのである。
吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P150-151
「これらのカタコンべは、いろいろな意味で、いずれも見学する価値がある。少なくとも、半日をさいて、アッピア街道のすがすがしい雰囲気を楽しみ、街道沿いのカタコンベの一つか二つを訪れるのは、ローマ見学者の「マスト(必須)」といえよう。」と石鍋真澄が述べていたので私もサン・カリストのカタコンベを訪れてみることにした。
私はアッピア街道、クラウディア水道橋の見学と一緒にこのカタコンベを訪れた。
こちらがサン・カリストのカタコンベの入り口。ここから先の建物から地下に入っていく。カタコンベ内はもちろん撮影禁止だ。
私もガイドの後ろをついてこのカタコンベ内を歩いていく。上の解説にあったように、いくら土が柔らかくて掘りやすいといっても、これほど深くまで掘り進めるその熱意にはたしかに驚く。今はこうして通路にはライトが設置されているが当時はまさに真っ暗だったはず。火を使った明かりといっても限度がある。そんな中こんなに奥深く迷路のようなカタコンベを作っていったということに呆然としてしまう。
もしこんなところに明かりもなく一人取り残されてしまったら恐怖でどうにかなってしまいそうだ。
このカタコンベの見学では想像していたよりも地下深くまで降りることはなかった。ただ、所々通路の向こう側の暗闇を見ることがあってその先の深淵を想像することになった。このカタコンベ内の迷宮ぶりはアンデルセンの『即興詩人』でもその暗黒の恐怖が非常にリアルに描写されていて面白い。ぜひ『即興詩人』もローマに来られる際はおすすめしたい作品だ。
そしてこのカタコンベの途中で、ある有名なお墓を見ることになった。
こちらは聖セシリアの墓。聖セシリア(サンタ・チェチリア)は二世紀頃のローマ帝国の殉教者で、音楽家と盲人の守護聖人として有名。そのお墓がまさにこのサン・カリストのカタコンベにあったのである。ちなみにこの写真の彫刻は1600年にステファノ・マデルノによって製作されたもののレプリカ。オリジナルはローマのサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会に納められている。
そしてこの聖セシリアはラファエロの絵画でも有名だ。ボローニャ絵画館に所蔵されているこちらの『サンタ・チェチリア』はロシアの文豪ドストエフスキーも好んでいたことで知られている(詳しくは「(23)色彩豊かな芸術の都ヴェネツィアを訪ねて~美しき水の都にドストエフスキーは何を思ったのだろうか」の記事参照)。
音楽の守護聖人ということでこの絵には楽器が描かれている。だが、音楽の守護聖人なのに壊れた楽器が無造作に置かれているという何とも不思議な構図である。一人一人の顔やポーズ、服の描写はやはりラファエロらしさがある。無類のラファエロ好きのドストエフスキーにはやはりどんぴしゃな作品だったのだろう。
カタコンベから地上に戻ってきた。この野原の下がカタコンベなのだ。何も知らずにここを眺めたら何の変哲もない草地だ。だが歴史を知ってしまったらそうはいかない。このカタコンベだけでなく、ローマという街そのものが死と密接につながった都市なのだ。そしてキリスト教は「死と復活」を説いてきた。ローマやバチカンがなぜこれほどまでに人々を引き付けるのかという鍵はここにあるのかもしれない。
現代はたしかに死をタブー視し遠ざけようとする。死の場面が私たちの日常から切り離されている。しかしはたしてそれで本当にいいのだろうか。死があるから私たちの生もあるのである。死と生は一体だ。死を遠ざけることは私達の生すら遠ざけることになる。
私達は必ず死ぬ存在として生きている。そして無数の死を見送って最後は自分も見送られる生を生きている。死と共に生きるというあり方は人間の叡智ではないだろうか。死と身近にあるからこそ人はより深く生きて来られたのではないか。もちろん悲しみはある。苦悩もある。だがそれでも死を遠ざける世界に私は危惧の念を覚えずにはいられない。まさに現代人は死生観を失ってしまったのではないか。自らの個としての「生と死」しかない。死んだら終わり。無。後は野となれ山となれ。こうした考えを否定するつもりはない。しかしこうした考えの人しかいない世界になったらどうなるか、私は恐ろしくてたまらない。
「世の中の安定のために死生観を持てと?」
そういう批判もあるかもしれない。
だが私はそうした社会面だけでなく、個人の生においても死生観は重要なものだと思っている。「死んだら無だ」と思う人はそうした生を生きているのである。「どうせ死んだら無なんだし」という生き方をしているのである。それはものすごく「死」に影響を受けているとも言えまいか。
それに死んだら無だとしたら、そもそも私たちは何のために生きるのか。
実は私はこの旅の途中、猛烈な死の恐怖を感じた。特に危険な目に遭ったわけでもなんでもない。列車の中で見た広告ポスターを見た瞬間、それは起こってしまったのだ。
私は人形やぬいぐるみに弱い。異様に弱い。そのポスターは30くらいになろうかという男が部屋の中で人間大のくまのぬいぐるみを抱えてひとり座っている写真だった。私はそれを見てなぜか猛烈な恐怖を感じてしまったのである。
虚無。もし自分が死んでしまったら何が残るのか。今やっていることもこれからやろうとしていることも結局全て無に帰すのだろうか。だとしたら今の私に何の意味があるのだろうか・・・
全てが無に帰す。全てが無意味。死ねば虚無が待っている・・・その恐ろしさを急に感じてしまったのである。
私は電車の中で凍り付いてしまった。これだけ準備して苦労してやって来たヨーロッパ。自分の集大成としてここにやって来たはずだった。覚悟を持ってやって来たはずだった。しかしそれが全くの無意味だとしたら。行き着く先が結局虚無であるなら・・・その恐怖に襲われてしまったのである。死ぬことそのものよりも虚無への恐れだった。
「死んだら無」ということはあまりに恐ろしいではないか?どうして世の人はそれに耐えていけるのか?死が目の前に迫ってもそれを言えるのだろうか?
私はそんなことを思ってしまったのである。
私はなぜ生きて、死なねばならないのか。「死んだら無」で片づけられるだろうか。残念ながら私にはできない。
究極的には人生に意味などないかもしれない。ただ生きてただ死ぬだけだ。
だが、それでもなお追い求め、それに救われて力強く最後まで生き切るということもあるのではないか。
私はそう思う。いや、そう思いたい。
話は大きくなってしまったがローマが美の殿堂だけではなく、「墓の街」「死と祈りのローマ」であるということに思いを馳せたカタコンベ見学であった。
続く
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