ニーチェは読む人によって姿を変える?ニーチェとはどんな存在なのか

ニーチェとドストエフスキー

ニーチェは読む人によって姿を変える?ニーチェとはどんな存在なのか

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)wikipediaより

ニーチェに関してはそれこそ無数の見解があることでしょう。それほど難解で多面的な顔を持つ存在です。

ニーチェと言えば難解過ぎてなかなか触れる機会もない存在だと思います。ですがそれにも関わらず様々な場所で顔を出してくる存在です。「なんかよくわからないがとにかくすごい人」というのが世の大体のイメージなのではないでしょうか。私もその一人でした。正直、ニーチェがいかなる存在かよくわからないのです。

今回の記事ではこれまで紹介してきた参考書の中から「ニーチェとは何なのか」ということについて書かれた4つの箇所を見ていきたいと思います。

では早速始めていきましょう。

①ベン・マッキンタイア―『エリーザベト・ニーチェ ニーチェをナチに売り渡した女』より

ニーチェのような著作家は、ドイツ語の著作家にしろ他の言語のそれにしろ、ほかには皆無である。粗野で暴力的で、反逆者であり偶像破壊者だ。

彼の著作を読むということは、すべての道徳があやふやなものとなった世界に足を踏み入れることだ。ニーチェは読者に、危険な生き方をすること、自分が人間の問題における原動力と見なす闘争を受け入れることを強要する。

人間性は力への意志によって動機を与えられている、と彼は言う。どんなものであれ、増強された力はよいものだとされる。奴隷の道徳もこの意志の一つの形態だ。ほんとうの世界、このたった一つの世界を引き継ぐのは、勇敢な人、強い人、冷静な人だ。意気地なしや信心深い者、それに類する人間はなにも受け継がず、受け継ぐ資格もない。

ニーチェは、凡人と大衆、そして支持者の数だけで道徳の地位を得た信仰を、軽蔑しかつ恐れていた。ニーチェの哲学は、《自分にとっての真実はだれにとっても真実だ》と思っている空論家や独断論者、それにキリスト教徒や政治家、あらゆる類の説教家や人民主義者に鉄槌を振りおろす。

彼はなによりも個人に信頼をおいていた。それも、道徳や《個人の内にある群れの本能》は有無をいわせず乗り越え、強くて断固としており、独立心をもった自由な精神の人間、自分自身のルサンチマンを克服することができたときに超人(スーパーマン、もっと正確にいえばオーヴァーマン)の状態に到達できる人間である。

斬新だが危険な才能である。彼の描くイメージはしばしば暴力的で、文体は最悪の神話形成の方向に傾きがちである。この方向の頂点をなすのがナチであり、ルサンチマンのなかにその根本原理がある。しかし、うわべだけの言葉や偽善はニーチェの不倶戴天の敵だった。(中略)

信念を成文化して体系とすることにあれほど反対したにもかかわらず、実際には、ニーチェの名前は、知的な運動もそうでない運動も含めて、今世紀のあらゆる(運動)と結びつけられてきた。フェミニズムと構造主義、マルクス主義とアナーキズム、行動主義、そしてもちろんファシズム。

自分はニーチェ主義者だと考えている人間を片っ端から一つの部屋に押し込めば、きっと大殺戮が繰りひろげられることだろう。ニーチェはそれを見越していた。彼は『この人を見よ』に書いている。「私を多少なりとも理解したと考える人はみんな、自分の姿に合わせて私を作り上げたのだ。私自身を正反対なものとして想定していることも稀ではない、たとえば私を理想主義者だと言うのだ。また、私をまったく理解できなかったと言う人間は、私がそもそも考察に値するということすら否定したのだ。」ニーチェはまた、「そこここで謎をそのままにしておこうとする」が、それは哲学者としての自分の本性の一部である、と認めている。
※一部改行しました

白水社、ベン・マッキンタイア―著、藤川芳郎訳『エリーザベト・ニーチェ ニーチェをナチに売り渡した女』P34-35

さらに著者は続けます。

ニーチェは同時代人、つまり当時のヨーロッパ人を、信仰心によって骨抜きにされた人間だと見なしていた。「矮小化したほとんど滑稽な種族、畜獣の群れ、善意にみち、病的で凡庸なもの……。」彼は何よりも自由を、そして自己実現を強調した。

また、「小商人やキリスト教徒、雌牛、女、イギリス人やその他の民主主義者が夢見る軽蔑すべき類の安寧」を拒絶した。ニーチェの著作には、激しい非難や言葉の極端な暴力性がいたるところに見られるが、それが読者の眉をひそめさせ、怒らせた―しかし、それこそまさしく彼の目指したことだった。なぜなら、そうすることによって、読者を冬眠状態から揺さぶり起こし、一人一人を個人として、彼が可能だと考える高みにまで登らせようとしたのだから。

乱暴な言葉づかいにもかかわらず、彼は人間性を愛しており、「血を流しながら書く」ことによって、無感動な人間の「隠れた心の病いを取り出して明らかにすることによって、大いなる奉仕をする」ことができると信じていたのだ。

彼の思想は個人のための苦悩の叫びなのだ。ニーチェはこう告げている。「打ち勝つのだ、汝らより高き者たちよ、ちっぽけな美徳やつまらぬ分別、砂を噛むような思慮分別、蟻の群れのような愚かしさ、惨めな安寧、《大多数の人間の幸福》に!」彼は矛盾したことや正反対のことも言い、ときには何を言っているのかわからないこともある。彼は自分がダイナマイトであることを知っていた、間違った手に渡れば危険な爆弾である。しかし、独断論者ではなかった。

白水社、ベン・マッキンタイア―著、藤川芳郎訳『エリーザベト・ニーチェ ニーチェをナチに売り渡した女』P35-36

ニーチェが何を求め、何を成し遂げようとしていたかがわかりやすい文章ではないかと思います。

特に最後のダイナマイトの件はなるほどなと思いました。使いようによっては非常に危険ですが、既存のものを爆破しその奥底に眠る人間性を呼び覚まさんとしていたというのは興味深い表現ですよね。

②リュック・フェリー/アラン・ルノー他著『反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義ではないのか』より

この本は当ブログでは紹介しませんでしたが、その中にニーチェについて端的に書かれていた箇所がありましたのでそれを紹介します。

一方では散文的な神話破壊者の姿をし、他方では地の底から生まれてくる神話を語る予言者のように振る舞う。

あるときは偶像を破壊する自由精神の持ち主、またあるときは宇宙的規模の使命に陶酔する天才。

あるときは諸々の信仰を分析する心理学者、またあるときは測り知れないものへの不可思議な参入を暗示する神秘主義者。

あるときは自己の自律性を獲得しみずからの運命を支配する人間のプロメテウス的調子を帯び、またあるときは世界の中に自我の喪失を刻む支離滅裂で高揚した調子を帯びる。

あるときは唯物論的な「生理学者」、またあるときは表現しえないものを媒介する芸術家。

ニーチェは自分でも気づかないうちにロマン主義的啓蒙主義者なのではないだろうか。
※一部改行しました

法政大学出版局、リュック・フェリー/アラン・ルノー他著『反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義ではないのか』P164-165

ニーチェの多面的な特徴が良く出ている文章で、これを初めて読んだ時は思わず唸ってしまいました。「う~ん、なるほどぉ」としか言いようのない文章です。たしかにニーチェには簡単には理解できない言動が多々あります。それは作品中にも顕著で、とにかくわかりにくく、難しい。こうしたことがニーチェの魅力の一つであることは間違いないのですが、やはり読む者を困惑させるというのは否定できないのではないかと思います。

③渡辺二郎・西尾幹二編『ニーチェ物語 その深淵と多面的世界』より

ニーチェはじつに豊富な世界である。簡単には汲みつくせない底深さをたたえているがゆえに、時代に応じそのつど違った読まれ方をされてきた、いわば多面体、、、である。おそらくこれからも、時代の思潮が変わるにつれ、変わった読まれ方をされつづけるだろう。切り込んでいくべき問題の数だけ、ニーチェが存在する。いったいニーチェは哲学者だろうか?当然そう考えるべきだが、既成の哲学の知識をもってニーチェはどうしても片づかない。それならニーチェは文学者だろうか?これも然り、であって否である。それなら宗教家だろうか?古典学者だろうか?歴史哲学者だろうか?教育者だろうか?言語思想家だろうか?……と問い出せば、ニーチェはその全てであって、そのいずれでもない、と答えるほかないだろう。

有斐閣、渡辺二郎・西尾幹二編『ニーチェ物語 その深淵と多面的世界』Pⅰーⅱ

ニーチェは読む者によってその姿を変える・・・

これもニーチェの大きな特徴と言うことができるのではないでしょうか。

④リュディガー・ザフランスキー、山本尤訳『ニーチェ その思考の伝記』より

当ブログでもご紹介したリュディガー・ザフランスキー『ニーチェ その思考の伝記』のあとがきに当たる部分より引用します。

ニーチェは思想の実験室であった。彼は自分自身を解釈するのを瞬時もやめなかった。彼は解釈生産の発電所であった。彼は考えられうるもの、生きられうるもののドラマを舞台に登らせた。彼はそうすることで人間に可能なものを探った。思索こそを生の問題と思う者は、ニーチェを見限ることはできまい。人の心を引きつけて離さないものは、途方もないもの、世界のこの大きな音楽であるという経験を、そこですることができる。

本書を書くに当たって、筆者はカスパール・ダーフィット・フリードリヒの一枚の絵をたえず思い浮かべていた。「海辺の修道僧」である。空と海の途方もない水平線を前に海辺に誰かがただ一人佇んでいる。この途方もないものは考えることができるだろうか。どのような考えも、この途方もないものを経験すれば、再び解体されるのではなかろうか。ニーチェはこうした海辺に佇む修道僧であった。途方もないものをつねに眺めながら、思考を定めがたいものの中に沈め、それに再び新たな形を与える試みを始めさせる用意をしていた。われわれは理性の確固たる根拠をもつ地盤を離れて、未知なるものの広い大海原に出かけて行かねばならないのかと、かつてカントは問い、ここに留まることを主張した。しかしニーチェは出かけて行ったのであった。

ニーチェの思索でもってはどこにも行き着けない。答えはなく、結果もない。彼のもとにあるのはただ思索の終わることのない冒険への意志だけである。

法政大学出版局、リュディガー・ザフランスキー、山本尤訳『ニーチェ その思考の伝記』P394

この引用の「ニーチェの思索でもってはどこにも行き着けない。」というのは何とも言えないものがありますよね。実際、ニーチェはその思想故に発狂してしまったのですから・・・

ですがニーチェには読む者を惹き付けてやまない魅力があるのもまた事実。

ニーチェに関してはそれこそ無数の見方があります。今回はその中から「これは」と思った4つの文章を紹介させて頂きました。私もニーチェを学んでいる最中です。これからも私の中のニーチェ像は刻々と変わっていくことでしょう。

この記事を通して少しでも皆さんのお役に立てたならば嬉しく思います。

以上、「ニーチェは読む人によって姿を変える?ニーチェとはどんな存在なのか」でした。

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