MENU

⒀四聖諦~仏教の教えの根本たる四つの真理とは。苦しみを滅し救いへと至る道を説くブッダ

目次

【現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】⒀
 「四聖諦」~仏教の教えの根本たる四つの真理とは。苦しみを滅し救いへと至る道を説くブッダ

前回の記事「⑿サールナート(鹿野園)での初転法輪~ブッダ最初の説法!仏教教団はここから始まった!」では、ついにブッダが説法を開始し、5人の修行仲間がブッダに帰依したところまでお話ししました。この初転法輪によって仏教教団が始まったとされています。

そして今回の記事ではその初転法輪でブッダは何を説いたのかということを極簡潔にお話ししていきます。

では早速始めていきましょう。

ブッダの説く四つの真理

ブッダが初転法輪で何を説いたのか。

実はこれはなかなか厄介な問題で、ブッダが本当に何を語ったのかというのは正確にはわかっていません。数々の経典にブッダが何を説いたかが書かれてはいるのですが、それぞれ異なったことが記されているため、これといった唯一無二の定説というものが存在しないのです。ここが正統と異端を厳密に分けて『新約聖書』を編纂したキリスト教との大きな違いです。もちろん、イエス・キリストの誕生はブッダ誕生の500年近く後ですので時代状況も大きく異なります。さらに、聖書の編纂はそこからさらに後の話です。ただ、仏教が唯一無二の聖典を生み出さず、様々な経典を作り続けてきたというのは重要なポイントです。こうした正統と異端が存在しない、いわば「中心なき世界」が仏教の特徴になります。このことについては馬場紀寿著『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』で詳しく解説されていますので興味のある方はぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

さて、「ブッダが初転法輪で何を説いたのか本当のところはわからない」という元も子もないことを言ってしまいましたが、おおよその共通理解というものは存在しています。それがこの記事のタイトルでも述べた「四聖諦ししょうたい」になります。

四聖諦は4つの聖なる真理という意味です。そしてその4つの真理とは「じゅうめつどう」の4つの言葉で表されます。では、これからそのひとつひとつの真理を見ていくことにしましょう。

苦諦(くたい)~一切皆苦。この世は苦しみの世界である

一つ目の真理、「苦諦」。

これは文字通り、この世は全て苦しみの世界であるという真理です。何とも身も蓋もない真理ですが、仏教ではこの世のあらゆるものが私達の苦しみの源であると考えます。

ブッダはこれを一切皆苦いっさいかいくと表しました。さらに具体的に言うならばこれは「四苦八苦」ということになります。

「四苦八苦」という言葉は私達も日常的に口にする言葉ですよね。私達が何気なく発するこの「四苦八苦」が実はブッダが説いた真理の一つだったのでした。

具体的に見ていきましょう。

まず四苦八苦の前半、4つの苦しみは「生・老・病・死」であるとブッダは説きます。

生きることそのものは苦しみであり、老いも苦しく、病も苦しく、そして死も避けがたい苦しみだとブッダは言います。「生」を「生きること」ではなく、「生まれること」と解釈することもありますがここではまず「生きること」という理解で受け取っていきましょう。

そしてこの4つの苦しみに「愛別離苦あいべつりく怨憎会苦おんぞうえく求不得苦ぐふとっく五蘊盛苦ごうんじょうく」の4つを足して四苦八苦ということになります。

「愛別離苦」は文字通り、愛する人と別れる苦しみを指し、「怨憎会苦」は嫌いな人と会わなければならない苦しみです。「求不得苦」は求めても得られない苦しみ、そして「五蘊盛苦」は人間の肉体と心が思うままにならない苦しみを指します。

こう言われてみると四苦八苦はどれも私たちにも頷けるものがありますよね。このようにブッダはこの世のあらゆるものは苦しみであると結論付けます。

ですが、私達からすると「ちょっと待って!生きていれば楽しいこともあるではないですか!それにこの世が苦しみしかないなんてあまりに悲観的すぎます!それでは生きる意味なんてないと言っているようなものではありませんか!」と思ってしまいます。たしかにこれは至極真っ当な疑問で、19世紀中頃に欧米人がインドの仏教を知り始めた頃にも、まさしく仏教がニヒリズム的な悲観主義、虚無主義であると捉える流れもありました。その流れの中にはあのドイツの哲学者ショーペンハウアーもいました。(※橋本智津子著『ニヒリズムと無ーショーペンハウアー/ニーチェとインド思想の間文化的解明』やF・C・アーモンド著『英国の仏教発見』参照)

ショーペンハウアー(1788-1860)Wikipediaより

彼の『幸福について』という論集では驚くほど仏教の影響が見て取れます。

あわせて読みたい
ショーペンハウアー『幸福について』あらすじと感想~仏教に強い影響を受けたショーペンハウアー流人生論 「幸福は蜃気楼である。迷妄である」 『幸福について』というタイトルから「人生を幸福なものにするための方法」を教えてもらえるのかと思いきや、いきなり幸福など幻に過ぎぬとばっさり切ってしまうあたりショーペンハウアーらしさ全開です。 この本ではショーペンハウアーが「人々の信じる幸福の幻影」を木っ端みじんにし、どう生きればよいのか、真の幸福とは何かを語っていきます。

こういうわけで、仏教が「この世は全て苦しみにすぎない」という悲観主義、虚無主義に受け取られてしまいがちなのは事実なのですが、実際にはそうではありません。

この世が「私たちの願望に基づいた世界ではない」と私達が気づくために、まずはこの世が苦しみに満ちていることを自覚する。そしてその上で私達に何ができるかを考え、実践していく。こうしたステップを踏んでいくためには「一切皆苦」の認識が不可欠なのです。自分の煩悩に基づいた世界観を一度打ち壊し、そこから新たな世界認識の下、人生を切り開く。ある意味、悲観的どころか実に積極的な人生観が仏教にはあります。これ以上詳しくはここではお話しできませんが、興味のある方はぜひ佐々木閑先生による仏教入門書『仏教の誕生』を手に取って頂ければと思います。

集諦(じったい)~苦しみの原因は煩悩にあると知るべし

「この世の全ては苦しみである」という真理「苦諦」を受けて、次の真理は「集諦じったい」というものになります。

集諦は「苦しみの原因は私達の煩悩にある」という真理です。

この世の全ては苦しみである。そしてその原因は我々自身の煩悩にある。

こうしてブッダは人間世界の道理を明らかにしたのでありました。

滅諦(めったい)~煩悩を断ずることで苦しみの世界を離れた悟りに至る

苦諦、集諦と見てきたことで、この世は苦しみの世界であり、その原因は私達の煩悩にあると明かされました。

そしていよいよ「煩悩を断ずれば救いを得る」という滅諦という真理が語られます。

ただ、煩悩を断ずるといっても何をもって煩悩を断じたと言えるのか、そしてそもそも煩悩とは何ぞやという話が出てきます。私達の日常生活でも煩悩という言葉はよく出てきますが、もし人間の欲全てが煩悩だと言われてしまったら私たちはどうすればよいのでしょうか。食欲、睡眠欲は人間にとって欠かせぬものです。それを全て断じるとしたら生命活動の放棄を意味することでしょう。

厳密に考えていくとこれまた厄介な問題がどんどん出てくるのですが、ここではまずブッダの人生をざっくり把むという目的がありますので、ここでも思想の細かいところまでは立ち入りません。まずはこの四聖諦において、この世は全て苦しみであり、その原因は私達の煩悩にあり、その煩悩を滅することで救いを得られるとブッダが説いたことをぜひ頭に入れて頂ければと思います。

道諦(どうたい)~煩悩を滅するための8つの正しい修行法

さあ、ここまでの3つの真理によってブッダの基本的な世界観が見えてきました。

この世は苦しみの世界であり、煩悩を滅することでこの苦しみの世界から救われることができる。

では、そのために何をすればよいのかというのが最後の真理「道諦」になります。

「道諦」はその言葉が表すように私達が進むべき道を示しています。

その基本的な姿勢としてまず「中道ちゅうどう」が挙げられます。

「⑹苦行を捨てついに悟るブッダ。マーラ(悪魔)との対決やスジャータのミルク粥の逸話も」の記事でもお話ししましたように、ブッダは厳しい苦行も、安楽に満ちた生活もどちらも悟りには適さないと結論付けます。両極端を離れた中道こそ悟りに至る道であることをブッダは発見しました。

そしてそこから悟りに至るまでの明確な修行法として「八正道はっしょうどう」を説きます。

「八正道」とは文字通り、8つの正しい道(行い)という意味です。

その8つの道は以下の通りです。

正見 (正しいものの見方)
正思惟(正しいものの考え方)
正語 (正しい言葉遣い)
正業 (正しい行為)
正命 (正しい生活)
正精進(正しい努力)
正念 (正しい集中力)
正定 (正しい瞑想)

具体的にこれらがどのようなものかについて見ていくとまた大変になってしまいますのでとりあえずはこういう8つの修行法があるんだということを知って頂ければまずは十分だと思います。何度も言いますが、もっと詳しく知りたい方はぜひ様々な参考書を読んで頂ければと思います。

何はともあれ、ブッダは初転法輪でこの「四聖諦」を説きました。

この世は苦しみの世界で(苦)、その原因は我々の煩悩にあり(集)、煩悩を滅すれば救われ(滅)、その道筋こそ八正道の正しい修行である(道)。

言葉にすれば信じられない程シンプルな教えですが、この教えを聞いた5人の修行仲間は直ちに悟りを開いたとされています。現代を生きる私達がこれらの教えを聞いても瞬時に悟れはしませんが、ブッダから直接教えを学んだ修行者たる彼らにとってはブッダの教えはまさに驚天動地のものだったようです。

次の記事では一旦ブッダの生涯から離れてインドの宗教事情についてお話ししていきます。当時の時代背景がわかればブッダの教えのどこが革新的だったのかがよくわかります。そして時代背景がわかれば5人の修行仲間の驚きの意味もわかってきます。一見シンプルに見えるこの教えのどこが画期的だったのか、これは仏教というものを考える上でも非常に重要なポイントです。ぜひ引き続きお付き合い頂けますと幸いでございます。

次の記事はこちら

あわせて読みたい
⒁仏教が生まれたインドの時代背景~古代インドの宗教バラモン教の歴史と世界観とは。カースト制について... 今回の記事では一旦ブッダの生涯から離れて、インドの時代背景についてお話ししていきたいと思います。時代背景を知ればブッダの教えがいかに独特なものだったかがよくわかります。インドの歴史というスケールの大きなお話になりますが、できるだけ簡潔にお伝えしていきますので肩肘張らずにお付き合い頂ければ幸いでございます。

※この連載で参考にしたのは主に、
中村元『ゴータマ・ブッダ』
梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』
平川彰『ブッダの生涯 『仏所行讃』を読む』
という参考書になります。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

前の記事はこちら

あわせて読みたい
⑿サールナート(鹿野園)での初転法輪~ブッダ最初の説法!仏教教団はここから始まった! 前回の記事では悟り直後のブッダが人々への説法をためらったことをお話ししました。 そんなブッダでありましたがインドの最高神ブラフマン(梵天)の説得により、ついに人々への説法を決意します。 この記事ではそのブッダの初めての説法についてお話ししていきます。仏教教団の歴史が始まったのはまさにこの説法からになります。

【現地写真から見るブッダの生涯】目次ページはこちら

【インド・スリランカ仏跡紀行】の目次・おすすめ記事一覧ページはこちら

関連記事

あわせて読みたい
【現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】⑴ネパール、ルンビニーでの王子様シッダールタの誕生! 今回の記事から全25回の連載を通してゴータマ・ブッダ(お釈迦様)の生涯を現地写真と共にざっくりとお話ししていきます。 私は2024年2月から3月にかけてインドの仏跡を旅してきました。 この連載では現地ならではの体験を織り交ぜながらブッダの生涯を時代背景と共に解説していきます。
あわせて読みたい
⒅ブッダの教えの何が革新的だったのか~当時のインドの宗教事情と照らし合わせてざっくり解説 ブッダはサールナートでの初転法輪で初めてその教えを説きました。そしてその教えを聞いた5人の仲間たちは一瞬で悟りを開くことになります。現代人たる私達からするとここで説かれた「四聖諦」の教えはあまりにシンプルで、これで本当に悟れるのかと疑問に思ってしまうほどですが、彼らにとってはそれは実に驚くべき革新的な教えだったのです。
あわせて読みたい
⑻ブッダの6年間の修行生活~二人の師による瞑想法の伝授と厳しい苦行に勤しむ苦行者ブッダ ブッダは大国マガダ国へやって来ました。 ブッダがここへはるばるやって来たのはここに当時最高峰の瞑想行者がおり、彼らから修行の基本である瞑想法を習うためでした。 今回の記事ではブッダの厳しい苦行生活についてお話ししていきます。 あの有名なガンダーラの断食仏像で表現されたガリガリの姿はまさにこの苦行時代のブッダになります。
あわせて読みたい
⑽マーラ(悪魔)との対決に勝利し悟りに達するブッダ。イエス・キリストとの共通点とは ブッダの6年間の苦行生活は想像を絶するほどのストイックさで行われました。有名なガンダーラの断食仏を見てみると、その壮絶さが伝わってきます。 そんなブッダがスジャータのミルク粥によって体力を回復し、いよいよ悟りへと向かっていきます。今回の記事ではそんなブッダの悟りについて見ていきます。
あわせて読みたい
ショーペンハウアーおすすめ4作品と解説記事一覧~仏教にも影響を受けたドイツの厭世思想の大家 この記事ではショーペンハウアーのおすすめ作品を4本と、番外編ということで解説記事と参考記事を6本紹介していきます。 彼の本を読み、考え、記事にするのはなかなかに厳しい時間でした。普段の数倍疲労感がたまり、気持ちも落ち込みました。 しかしだからこそショーペンハウアーの悲観主義を乗り超えねばならぬとも感じました。ドストエフスキーや、チェーホフ、ゾラはその偉大なる先達なのだと改めて感じたのでありました。あの時代の文豪たちがなぜあそこまで本気で「生きること」について思索し続けていたのかが少しわかったような気がしました。
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次