A・スルタノヴァ『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』あらすじと感想~ドストエフスキーも滞在していた地がソ連の核実験場になっていた・・・
A・スルタノヴァ『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』概要と感想~ドストエフスキーも滞在していた地がソ連の核実験場になっていた・・・
今回ご紹介するのは2018年に花伝社より発行されたアケルケ・スルタノヴァ著『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』です。
早速この本について見ていきましょう。
「わき上がってくるキノコ雲とまぶしい光を見た」冷戦下ソ連で秘密裏に行なわれた456回の核実験。意図的に被ばくさせられた人々の叫び、国をあげた反対運動、現在もおよそ120万人以上が苦しむ健康被害―。セミパラチンスク出身の著者が、閉鎖後の現在も近郊に住民が住む世界唯一の核実験場を見つめたフィールドワーク研究。
出版社からのコメント
「ポリゴン」(核実験場)はカザフ国民の大きな悲劇です。 同じようなことがどこにも繰り返されないことを願っています。
セミパラチンスクが繰り返されないように! チェルノブイリが繰り返されないように! フクシマが繰り返されないように!
(男性、1954年生まれ)現地出身の著者が日本語で綴った一橋大学大学院提出の修士論文の書籍化。
Amazon商品紹介ページより
ソ連による秘密裏の核実験、現在まで続く被ばくの影響、
国をあげて立ちあがったカザフスタンの人々について、
フィールドワークと資料分析の両面から迫る。
前回、前々回の記事でチェルノブイリ原発についてお話ししましたが、今回は原子力に関連してソ連のカザフスタン核実験場について書かれた本をご紹介します。
上の本紹介にありますように、この本はカザフスタン出身の著者アケルケ・スルタノヴァさんによって書かれた作品です。
この本では旧共産圏のカザフスタンの核実験場、セミパラチンスク(現セメイ)で起きた悲劇について語られます。
カザフスタンというと、名前は聞いたことがあってもどこにあってどのような国かと言われるとなかなか難しいですよね。著者はこの国について次のように述べています。
アジアとヨーロッパを合わせた、世界で一番大きなユーラシア大陸。その中心に私の母国、カザフスタンがある。北はロシアと長い国境を接し、南は中央アジア諸国、東は中国に囲まれている。
世界で9番目に広い国土を持ち、北と南、西と東の間には、気候の違いだけでなく、人々の習慣、食文化や考え方、子どもの育ち方などにも微妙な違いが存在する。都市から少し離れて郊外に出ると、どこまでも続く草原が広がる。都市間距離が長いので、車や汽車で移動すれば、春、夏、秋、冬、それぞれの季節に特有の美しさを見ることができる。冬は、北に行けば行くほど雪が多く、寒さが厳しい。一番寒い時期は気温がマイナス40℃を下回る。だが春になると景色が一変する。草原に咲く数え切れない種類の野生の花、長くて厳しい冬に勝ち残ったことを喜ぶような狼、狐、鷲、サイガといった野生動物の様子―すべて自然が生まれ変わったことを感じさせる。(中略)
夏は暑いが、「海から最も離れている水族館」というギネス記録もあるほどの国なので、湿度は低く、30℃を超える暑さでも隠れる影があり、風も吹く。その分、乾燥が強い。国土の44%を砂漠、26%をステップ(草原)14%を半砂漠が占めている。
現在は1800万あまりの人が暮らし、カザフ人がその6割を、ロシア人が2割以上を占めるほか、ウクライナ人、ウズべク人、タタール人、ウイグル人、ドイツ人、朝鮮人などと続く100以上の民族が平和共存する国だ。宗教はイスラム教(70%)とロシア正教(26%)が最も多い。カザフ人、ウズべク人、タタール人などイスラム教を信仰するテュルク系民族の間では、伝統的な民俗信仰の要素も強い。
花伝社、アケルケ・スルタノヴァ『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』P8-9
そしてロシア、ソ連との関わりについては以下のように解説されます。
6世紀から13世紀初頭までのカザフスタンの領土には、西テュルク、テュルギシュ、カルルク、オグズ、カラハニド、キメック、キプチャクという国家が連続的に存在していた。13世紀のモンゴルの進出以来、モンゴル帝国の支配を受けるようになり、モンゴル人を支配者とした自立政権「ジョチ・ウルス」(カザフ語でアルティーン・オルグ)が築かれる。15世紀末にはカザフ・ハン国が形成されるが、18世紀に政治的統一を失い、東部の大ジュズ、中部の中ジュズ、西部の小ジュズという三つの部族連合体に分かれて草原に居住することになった。
18世紀初頭から、モンゴル系の遊牧民ジュンガルの襲撃がより頻繁になり、不安定な政治経済的状況の中で、1730年代から1740年代にかけて、中ジュズと小ジュズが服属を表明し、ロシア帝国の傘下に入る。1820年代ごろ、大ジュズもロシアの直接統治を受け入れた。カザフの三つのジュズと外交関係を結び、弱体化に乗じて統治に踏み切ったロシア帝国は、カザフ草原を、アクモリンスク州、セミパラチンスク州、セミレチエ州、ウラリスク州、トルガイ州、シルダリア州の6つの州に区分した。
ロシア帝国を倒した1917年のロシア革命後、カザフスタンもソビエト連邦構成共和国の一つとなった。シルダリア州、アクモリンスク州、そしてロシア帝国の主導によりウラル川とヴォルガ川の間に創設されたブケイ・オルダでは、ソビエト政権の確立が平和的に行われたが、セミパラチンスク州、ウラルスク州、トルガイ州では反抗が大きく、強制的に武力が使用された。前述の通りソ連下に入ると、1949年以降、セミパラチンスク核実験場では456回もの核実験が秘密裏に行なわれた。
ソビエト連邦崩壊により、1991年にカザフスタンは独立共和国となった。首都は、1997年に南部のアルマティ(旧称アルマ・アタ)から北部のアクモラに遷都され、翌年にカザフ語で首都を意味するアスタナに改名された。アスタナは、独立直後の困難を乗り越え、現在中央アジアでは最も市場経済化が進み、新たなカザフスタンを象徴する近現代的都市となっている。その都市計画のマスタープランは、日本の建築家故黒川紀章氏によって作られたものだ。
現在、カザフスタンの主な産業は、石油、ウラン、石炭、鉄鉱石、金、銅及び非鉄金属の採掘などである。また、カスピ海周辺の石油、天然ガスをはじめとする、レアアース、レアメタルなどの豊富な地下資源に恵まれている。
花伝社、アケルケ・スルタノヴァ『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』P11-12
かつては旧共産圏ではあったものの、資源が豊富で経済成長著しい国というのがカザフスタンの現在なようです。
この本では他にもわかりやすくカザフスタンについて語られています。
ではこれよりこの本の核心であります、セミパラチンスク核実験場について見ていきましょう。
核実験場の建設のためにセミパラチンスク地域が選ばれた理由として、ソ連の中で最も人口が少なく、近隣に鉄道などの交通手段が整っていたことが推測されている。いったい政府のこのような計画のために、犠牲になっても構わない命の数はどのくらいだったのだろうか。たった一人の人間の命でも、新しい鉄道を作るための費用より安く評価されることはあるだろうか。ソ連の中で誰も生活していなかった不毛地帯が多くあったにもかかわらず、数十万人の住民が住むセミパラチンスク市からわずか150キロメートル離れたカザフの草原がソ連の核実験場として選ばれた。この広大な草原には約711の村落があった。
1947年、セミパラチンスク州の広い草原である「サリ・アルカ」(Capы Apka =黄金の草原)において、住民にとって謎の施設の建設が始まった。これは太古から人々に健康と喜びを与えてきたカザフの草原の運命の急転回を意味した。何世紀にもわたり、この草原の広大な空間にカザフ人は住んでいた。夏は放牧に出かけ、冬になると戻ってくる。大昔から牧畜が彼らに衣食を与えてきた。ここにソ連下でコルホーズ(集団農場)がつくられ始めてからは、草原は別の様相をもった。新しい村、道路が現れ、また送電線や通信線、その他の現代の利器が現れた。そしてある日突然、謎の施設の建設が集中的に始まったのだ。
1949年8月29日の午前7時に22キロトンのプルトニウム爆弾を使用したソ連初の核実験が地上30メートルの高さで行なわれ、夏の日の安逸からステップを目覚めさせた。巨大な雷光が空を貫き、濃密な雲も、地上で燃えた第二の太陽を隠すことはできなかった。巨大な埃とガスの「キノコの雲」が形成され、高さ7キロメートル以上に及んだ。核実験は成功した。アメリカとソ連の核競争が始まったこの日は、カザフスタンの住民にとって冷戦の中の被ばくの日々の始まりであった。(中略)
核実験は豊かな自然の恵みを受けて暮らしていた住民の穏やかな日々を突然奪ったのであった。8月は収穫と干草準備の季節であり、住民の多くは外で被ばくした上に、核実験場周辺の全地域が放射性降下物によって汚染された。
目撃した反応は様々だったが、皆がこれまで見たことのない現象を目撃し、大草原に極度の不安を与える恐ろしい存在が活動しはじめたのを五感で感じ取った。彼らはこの謎の施設を「ポリゴン」(演習場)と呼ぶようになった。
しかし、当時は厳しい時代であった。20世紀初頭まで人口のほとんどが遊牧生活を行なっていたカザフスタンは、1930年代から強制的・全面的な農業集団化、大量弾圧の恐怖を経験した。ソ連内務人民委員部附属国家政治局はカザフ民族主義者、知識人、集団化政策への反対者、そして共産党政権にとって脅威であると見なされた者を容赦なく処罰した。また、ソ連共産党に計画された1931~1933年の人工的大飢餓により当時の人ロの3分の1(約200万人)が消滅(死亡)したのである。この時に死亡したり国を出ていった人の人数は、当時のカザフ人の48%を占めた。
このようなことから、人々は精神的に強く圧倒され、自由な意思が失われていた。その上、初の核実験が行なわれた1949年は第2次世界大戦が終了してから4年しか経っておらず、経済的にも人材的にも弱っている中で戦後の混乱期が続いていた。そのため、爆発による地震を感じ、第二太陽を目にしても、誰一人もその原因を調べ、抵抗することはできなかったのである。
核実験を行なった関係者たちは、その実験がもたらす悲劇の規模を当時理解していなかったかもしれない。もしくは、彼らにとって周辺住民の運命は無関心なことであったのだろう。その真実は不明である。
しかし、証言によると、周辺の住民はこの日に核実験が行なわれることを知らされておらず、彼らの安全のための対策が全く取られていなかったことが真実である。
花伝社、アケルケ・スルタノヴァ『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』P75-80
ここを読んで驚いたのはカザフスタンでもソ連による飢餓政策が行われていたということでした。
以前紹介した「(3)ウクライナで400万人以上の犠牲者を出したソ連による飢餓政策ホロドモールと隠ぺい工作」の記事でもお話ししましたように、ソ連はかつて意図的に飢餓を引き起こし、想像を絶する数のウクライナ人を餓死させました。
それと同じことがここカザフスタンでも起こっていたとは・・・
しかもその犠牲者の比率が信じられません。カザフ人人口のほぼ半数がこの飢餓政策によって失われることになったのです。
そうした苦しみを経たカザフスタンは、今度は第二次大戦後に核実験場としてソ連に利用されるようになります。突然やってきたソ連軍。そして秘密裏に実験場の建設は進み、実験も近隣住民には何も知らされないまま行われることになりました。
この本では実験開始からソ連の崩壊までこの地域の住民たちがどのような扱いを受けていたかが語られます。読むのが苦しくなるほど悲惨な状況です。核実験によってすべてを失った人々の声を著者はこの本に記しています。
被害者ひとりひとりの声を聴いていくというスタイルは前回の記事「アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り 未来の物語』~原発事故の被害者の声を聴く世界的名著」で紹介したアレクシエービッチとも重なる点があります。被害者ひとりひとりの声が集められたこの作品は非常に貴重なものだと思います。
そしてそもそもの話に遡りますが、私がこの本を手に取った直接のきっかけはチェルノブイリとの関連性からでした。
ですがセミパラチンスクという地名を聞いてもうひとつ私が気になっていたものがありました。それがドストエフスキーとの関係性だったのです。
ドストエフスキーはシベリア流刑時代、オムスク監獄に収監された後、セミパラチンスクで兵役に就いていました。ここには今でもドストエフスキー博物館があり、彼ゆかりの品を見ることができるそうです。以下ドストエフスキー研究者の齋須直人さんに許可を頂きツイートを引用させて頂きました。
カザフスタンのセミパラチンスクという町にあるドストエフスキー博物館です。ドストエフスキーと一緒にいる人はカザフスタンの学者で探検家のチョカン・ヴァリハーノフです。ドストエフスキーの写真はさほど多くはないですが、その中の一つにこのヴァリハーノフと写ってるものがあります。 pic.twitter.com/qccNlBAiqI
— Naohito Saisu (@naohito_saisu) July 17, 2019
私にとってこれまでセミパラチンスクという地名はドストエフスキーを連想させるものでした。ですがその場所がまさかソ連の核実験場として使われ、信じられない数の人々が放射能汚染にさらされていたとは・・・
私はこの本を読んで本当に衝撃を受けました・・・
カザフスタンという国もセミパランチスクという場所も日本人にはあまり馴染みがない存在かもしれません。
ですがこうしたことが起こっていたということを知ることはとても大事なことなのではないかと思います。
私もチェルノブイリ原発を学ぶ過程でこの本を読むことになりましたが、この本と出会えて本当によかったと思います。
ぜひぜひおすすめしたい作品です。
以上、「A・スルタノヴァ『核実験地に住む―カザフスタン・セミパラチンスクの現在』ドストエフスキーも滞在していた地がソ連の核実験場になっていた・・・」でした。
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