チェーホフ『谷間』あらすじと感想~チェーホフの人間愛が感じられる名作
チェーホフ『谷間』あらすじ解説―チェーホフの人間愛が感じられる名作
チェーホフ(1860-1904)Wikipediaより
『谷間』は1900年にチェーホフによって発表された作品です。
私が読んだのは中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』所収の『谷間』です。
早速あらすじを見ていきます。今回も佐藤清郎氏『チェーホフ芸術の世界』を参考にしていきます。
さて、『谷間』のストーリーについて触れておこう。ここに、きわめて簡にして要をえたゴーリキーの言葉がある。彼はその優れた『谷間』論のなかで、この作品の内容を手短かにこうまとめている。
「チェーホフの新しい短篇の登場人物は―村の店屋の主、強奪者、べテン師でもある男、その男の息子で刑事巡査、もう一人の息子でつんぼの愚か者、店屋の女房で人のいい女、息子たちの嫁たち―一人は器量良しで、もう一人は不器量な女、それに老大工の松葉杖―賢くて小さな、小供のように愛すべき男である」
筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P278ー279
チェーホフ作品あるあるなのですが、わかりやすい波乱万丈なストーリー展開ではないため短くあらすじをまとめるのが非常に難しいです。上のゴーリキーによるあらすじも、わかるようでイマイチわからないというのが正直なところです。
とはいえ主な登場人物が上の人たちで、彼らをメインにした家庭劇というのがこの物語の主なるストーリーです。
全集のあとがきではこの作品について次のように述べられていました。
『谷間』は、発表当初から高い評価を得た。ゴルブノーフ=ポサードフは、「あなたへの深い愛の気持を抱きながらあなたの『谷間』を読んだ。はじめてわたしは、あなたの才能ばかりかあなたの心を、あなたの心のなかの人間への愛を、あらゆる苦しむ者への優しい深い愛を、身近に、強く、ひしひしと感じた」と書き、とりわけ第八節、赤児に死なれたリーパが、夜なかに、野原で老農夫に出会って慰められるくだりを「巨匠の筆」と絶賛した。
またこの作については、ゴーリキイの長文の書評が出た。彼は同様に第八節の力と美しさを強調し、チェーホフの作中人物が「善人も悪人も、現実に生きているそのままの姿で」生きていることや、作者が一作ごとに「人生への勇気と愛の調子を強めて行く」ことをたたえた。ゴーリキイの報じるところによれば、レフ・トルストイも『谷間』に感激したという(一九〇〇年二月、チェーホフあての手紙)。
中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』P475
この作品ではチェーホフの虐げられた人、弱き者への優しさや人間愛が描かれています。
この作品についてチェーホフ研究者の佐藤氏の言葉を聞いていきます。
「谷間」という作品の世界は、暗く悲しい。だがすばらしいものだ。暗いと言っても、『六号室』の暗さとは違う。『六号室』のころのチェーホフは、まだ盛りの、「血気」が暗さの底を力強く支えていた。諷刺という形の「抗議」の激しさが秘められていた。
旅の記録『サハリン島』の随所に聞える「公正」を求める激しい叫びが、『六号室』にはそのまま反映していた。「公正」希求が『六号室』のライトモチーフである。『谷間』の底にも公正を求める声は響いている。ロシヤ社会を何とかしなければならないという知識人としての自責は、依然としてつづいている。
しかし、どことなく道程の遠さに疲れた思いがただよっている。日暮れて道遠しという思いが感じられる。変革まで、なお、あまりに遠い。漸進の望みはあるのか。遅々とて社会改善は進まない。ときに心が暗くなる。チェーホフは拠りどころをまさぐる。
そして、普通の人間の心の中に残る純粋な部分にそれを求める。踏まれても突き飛ばされても、けなげに夜明けを待つ人々の心に。時間の流れが、いつか夜明けをもたらすことを信じてやまない不屈な心に。(中略)
「お前の悲しみなんぞたいしたものじゃない。人の一生は長いんだ。これからだって、いいこともあれば、悪いこともあるさ。どんなことだってあるよ。母なるロシヤはでっかいんだ!」
これも、『谷間』のなかで最も高い調べを持つ言葉だ。旅の老人のこの言葉は、作中のリーパ母娘にのみ語られたものではない。そのころの不条理な生活のなかであえいでいた多くの人たちへの、作者のせめてもの慰めの言葉なのだ。
筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P277-278
※適宜改行しました
身内の理不尽な暴力によって赤子を亡くしてしまったリーパ。死んだ子を抱えてとぼとぼ歩いていた時に「松葉杖」というあだ名の老人が彼女を上のように慰めます。この老人の語る「母なるロシアはでっかいんだ」という言葉は読んでいて圧倒されるようでした。
全体を通してこの物語はたしかに暗いです。農村に生きる人々の姿をリアルに描こうとしている点で、このブログでもご紹介したフランス人作家のエミール・ゾラの『大地』という作品と少し近いものを感じます。
ただ、ゾラが描いた『大地』はあまりに救いがない悲惨な物語でした。よくぞそこまでと思うくらいひどい人達の物語です。
チェーホフの『谷間』もたしかにひどい人達が出てきます。先程のリーパもそんな人たちにひどい目に遭わせられます。ですがこの物語全編を通して単なる悲惨さで終わらせない何かがあります。たくましく生きる人々、そして弱いものを優しく見つめるまなざし、それがこの作品では感じられます。
同じく農村を舞台にした小説ですがこうした違いを感じることができて興味深かったです。
最後に松下裕氏の『チェーホフの光と影』という参考書にこの作品とドストエフスキーのつながりについて書かれていましたので少し長くなりますがそちらも紹介していきます。
あのモチューリスキーの大作『評伝ドストエフスキー』を翻訳した松下氏ならではの視点です。
ドストエフスキーは「百姓マレイ」という晩年の文章(『作家の日記』一八七六年)で、子どものころ父の領地ダーロヴォエで出会った百姓のことを回想している。そのとき彼は九つになったばかりで、大好きな森にいた。
「突然、ひっそりとした森のしじまのなかで、たしかに、はっきりと、『狼が来た!」という叫びが聞こえた。
わたしはわれを忘れて金切声をあげ、悲鳴をあげながら草地のほうへ、畑を耕している百姓のほうへと駆けだした。それはうちの百姓のマレイだった。そんな名まえがあるかどうかは知らないが、みんなは彼をマレイと呼んでいた。五十がらみの、がっしりした、かなり背の高い男で、くすんだ亜麻いろの濃い顎ひげにはたくさんの白いものがまじっていた。
わたしは彼を知ってはいたが、それまで一度も口をきいたことがなかった。わたしの悲鳴を聞きつけると、雌馬の歩みをとめた。わたしが駆け寄って、片手で鋤に、片手で彼の袖にすがりついたとき、彼はわたしの驚愕した姿をまじまじと見た。『狼が来た!』とわたしはあえぎあえぎ叫んだ」
―「なにを、まあ、たまげなさって、ほんにまあ!」と彼は頭をふりふり言った。「だいじょうぶ、坊ちゃん。さあ、いい子だでな、ほうれ!」。彼は手をさしのべて、ふいにわたしの頬をなでた。わたしのくちびるの両端がぴくぴくふるえ、それが特別彼をおどろかせたらしい。
彼は黒い爪の、泥でよごれた太い指を静かにのばして、ひきつっているわたしのくちびるにそうっとさわった。そして、「さあ、もうお行き、見ててあげるから。わしが、おめえさまを、狼なんぞにやってなるもんかね!」とあいかわらず母親のようにほほえみかけながらつけ加えた。
「さあ、キリストさまがついてござらっしゃるだ。さあ、お行き……」。そしてわたしに十字を切ると、自分にも十字を切った。
わたしは歩きだして、ほとんど十歩ごとに振りかえり振りかえりした。最後にもう一度マレイを振りかえった。その顔はもうはっきりとは見わけられなかったが、彼はあいかわらずこちらにやさしくほほえみかけながら、こっくりこっくりしているような気がした……・
このことをドストエフスキーは、シべリアの「死の家」で思いだしている。そして彼は、「そのころまだ自分の自由のことなど夢にも思っていなかった、獣のように無知で粗野なロシアの農奴たちが、どんなに深い、文明的な人間らしい感情と、どんなにこまやかな、ほとんど女のようなやさしさにあふれているか」に思いいたって、「髪を剃られ、顔に烙印を押され、公民権を失った百姓、酔っぱらって、しわがれ声でわけのわからぬ歌をわめきたてているこの百姓たちも、ことによったら、あのマレイと同じような人間かも知れない」と思いかえしている。
少年ドストエフスキーが、ほんの短い接触をして、その思い出が長い年月胸にしまいこまれていたこの百姓マレイのおもかげが、苛酷な監獄のなかで彼に人間らしい意識をめざめさせたとすれば、チェーホフの描いた「松葉杖」というあだ名の大工の老人、「母なるロシアはでっけえでなあ」と言った、名も知れぬ馬車引きの老人のエピソードが、読者に忘れられぬ記憶となって、それが人間の尊厳の念を回復させ、人間にたいする信頼の基礎となることはまちがいない。
筑摩書房、松下裕『チェーホフの光と影』P140-142
※一部改行しました
ここで松下氏が言うようにたしかにチェーホフの『谷間』の老人はドストエフスキーの『百姓マレイ』を彷彿とさせるものがあります。農村に生きる素朴な老人。彼らの優しさが人間性への信頼を取り戻させてくれたのです。
この作品はたしかに暗い雰囲気があるものの、救いがあります。チェーホフの人間愛や優しさが感じられる作品です。
ゴーリキーやトルストイなど錚々たる人達にも絶賛された作品です。ページ数も50頁ほどと読みやすい分量になっています。ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
以上、「チェーホフ『谷間』あらすじ解説―チェーホフの人間愛が感じられる名作」でした。
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チェーホフ全集〈11〉小説(1897-1903),戯曲1 (1976年)
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