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僧侶の私がなぜドストエフスキーを学ぶのか―私とドストエフスキーの出会い⑴
皆さんこんにちは。
前回の記事では私の「宗教とは何か」という問いは「オウムと私は何が違うのか」という葛藤から生まれてきたことをお話ししました。
そして大学時代、私はある決定的な出会いをすることになります。
その頃、私は20歳の冬を迎えていました。
私は「オウムと私は何が違うのか」という葛藤を抱えながらも、やはり普通の大学生でした。他の学生と同じように大学に行き、講義を受け、バイトに行き、遊びにも行きました。
つまり、その年頃並みに楽しみ、失敗してはあれこれ悩み、また何かに夢中になったりして学生生活を送っていたのです。
大都会、東京。
地元函館から出てきた私は案の定都会の洗礼を受けていました。
思い詰めた哲学者のように「生きるべきか死ぬべきか」「善とは何か」「なぜこの世に悪はあるのか」と眉間にしわを寄せ青白く深刻な顔をして悩みに悩んでいたわけではなかったのです。
しかし、そんな東京生活にふわふわ浮かびながらも、今思えば「いつか自分もはっきりさせなきゃいけない時が来る」、そんな思いは変わらず胸の内にあったように思います(恥ずかしながらたまにしかその姿を現しませんでしたが)。
そんな日々を過ごしながら、ある日私は飲食店でのバイトを終えた帰り道、いつものように馴染みのバーに立ち寄りました。(今では信じられませんが当時はよくお酒を飲んでいたのです。)
お店に入ると、その日はカウンターの奥の方に数人の先客がいました。このお店は奥行きのあるカウンターのみのお店で、10人ほどお客さんがいれば満席になるような作りになっています。
私はいつものようにお酒を頂き、マスターと話しながら時間を過ごしていました。
すると、マスターはふと奥の席のお客さんの方を目線で示しながらこんなことを言いました。
「たしかあのお客さん、君の大学の教授さんだったはずだよ。学部は忘れちゃったけど、文系だって言ってたかなあ。君は文学部でしょ?」
-えぇ、そうです。
「だよね。うん。」マスターは今度はしっかりと奥のお客さんの方に体を向けて「彼もあなたの大学の学生さんなんだって。」と私を紹介してくれました。
「ほお、そうなんだ。私は文学部の助教をしているんだ。君は今何年生?」とその方は私に声をかけてくれました。
その方は40歳くらいの落ち着いた雰囲気の、いかにも教授さんという知的な雰囲気の方でした。
二人でお話ししているうちに、私の実家がお寺でありいずれお寺を継ぐこと、そして3年生からは宗教学のゼミに入ろうとしていることをお話ししました。
「なるほどねえ。君はお坊さんになるんだ。なのに仏教学じゃなくて宗教学なんだね。仏教学にもいい先生たくさんいるよ?何か理由でもあるの?宗教学を選んだのは」
私はかくかくしかじかと、これまでこのブログでお話ししてきたように「宗教とは何か」に興味があるということを先生に話してみました。そして「仏教学はゼミに入らずとも授業で受けられますし、大学院でもみっちりすることになるので今はこの大学でしかできないことをやりたいと思っています」と伝えました。
「そうかー。うん。そういうことなら面白いかもね。違う視点から仏教を考えていく時にそれはきっといつか役に立つよ。頑張りなさい。」
ありがたい励ましの言葉を頂きすっかり元気になった私に、先生はさらにこう言いました。
「それと・・・君は『カラマーゾフの兄弟』を読んだことはあるかい?」
―『カラマーゾフの兄弟』ですか?ドストエフスキーでしたっけ?いえ、読んだことはないです。
「うん、なら絶対に読んだ方がいいよ。君みたいに宗教を学ぶのならなおさらね。特に「大審問官の章」は大事だよ。お坊さんになるのならぜひここをしっかり読んでほしいな。」
先生はこうおっしゃられた後、間もなく一緒に来ていた方達に声を掛けられ、一緒に会計を済ませ、お別れすることになりました。
一人お店に残った私はしばらくぼんやりとこのやりとりを思い返していました。
「ドストエフスキーかぁ・・・なんだか重そうだなぁ・・・」
そして早く読んでみたいという期待とその内容に対する恐れが混じり合ったような複雑な気持ちでこの日は引き上げたのでした。
さて、先生の助言を頂いた私は早速『カラマーゾフの兄弟』を手に入れました。
ドストエフスキーといえばロシアのとにかく難しい文豪というイメージでした。予備知識も何もないまま読み始めましたが、やはり難しい。いや、難しいというか、何だこれは・・・?という感想でした。
前半は先生の言うような宗教的に重要なシーンというのは感じられず、強烈な個性を持つ登場人物達がヒステリックに騒ぎ立てているという印象でした。読み進めるのも苦しい展開です。
『カラマーゾフの兄弟』は文庫で上中下の3巻構成です。
読みにくかった前半を越え、上巻の終盤になるとついにあの「大審問官の章」が現れました。
この章に近づくにつれ、小説の雰囲気が何か変わるように感じられました。もちろんドストエフスキーの筆の魔力によるものでしょうが、これはきっと私自身も小説に入り込み始めているからだったのでしょう。
そしてこの「大審問官の章」が先生のおっしゃられたように、私にとてつもない衝撃を与えることになったのです。
続く
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