⑺僧兵とはそもそも何者なのだろうか~中世寺院の仕組みについて

【入門 現地写真で見る親鸞聖人の生涯】⑺ 僧兵とはそもそも何者なのだろうか~中世寺院の仕組みについて
前回の記事で若き親鸞聖人(以下敬称略)の比叡山修行時代についてお話ししました。

ただ、そこでお話ししましたように親鸞が何を思い、どのような修行をしていたのかは実はほとんどわかっていません。
そこで親鸞が1201年に比叡山を下りたという事実に着目し、この当時の比叡山がどのような状況だったかを知ることで下山の理由が少しでも見えてこないだろうかというのが本記事の主題となります。
さて、前回の記事の最後にお話ししましたように従来の日本史や真宗史学では当時の比叡山は僧兵が跋扈し、貴族の子弟が権力闘争に明け暮れ堕落していたと説明されてきましたが、きっと皆さんもそのようなイメージがあるのではないかと思います。
特に大河ドラマや様々な歴史ドラマなどでも僧兵の姿はやはり強烈な印象を残しているのではないでしょうか。


一般的に僧兵というと、その名の通り武装した僧侶というイメージを持ってしまうかもしれませんが、実はそもそもこのイメージからして誤解を生んでいます。僧兵は僧侶が兵士になったわけではありません。元々は寺に住み着いた浮浪民が寺男として様々な雑務をするようになり、その彼らが武装した結果生まれたのが僧兵なのです。つまり、正確には僧侶ではないのです。
いきなりこの説明を聞いても「?」だと思います。
ですのでこの僧兵が生まれてきた背景をもう少し遡って考えてみたいと思います。
まず、奈良時代初期、日本は律令制の国家を目指し、次々と法律を制定していきました。土地の所有に関する制度はその中でも特に重要なものでした。皆さんも「公地公民制」「班田収授法」などの日本史単語を聞いたことがあるのではないでしょうか。まさにそれです。
しかし朝廷の思惑ははずれ、人々は自分の田畑を捨てて逃亡する人が続出。それもそうですよね。せっかく苦労して田畑を耕してもすぐに国にその土地を返さなくてはならないのですから。
こういうわけで放棄される田畑が激増した結果、税収も激減。これは困ったということで朝廷も妥協案を提出します。それが743年の「墾田永年私財法」です。これはその名の通り、開墾した土地を自分の財とすることができるという法になります。
これにより人々は自分の土地を得ることができました。
・・・が、事実上この法律の誕生によって、持てる者がもっと持ち、持たざる者がもっと持てなくなるという状況が出現します。なぜそうなってしまったのか。まず、農民一人一人が開墾できる田畑などたかが知れています。そしてそれに対し有力な貴族や地方豪族は労働力を大規模動員することが可能です。つまり開墾力にそもそも圧倒的な差があるのです。そして重要なのは、これまではどれだけ開墾しても結局朝廷に取られてしまったので開墾する利益も小さかったのですが、これからは開墾すればするほど利益が増大していくというわけです。
しかも土地が公的財産ではなく私有財産になったことで、容易に買収が可能になります。さらに言えば、貧しい農民は借金を返せなくなるとその担保として有力者に土地を渡すしかなくなります。こうして持てる者がどんどん土地を集約するようになったのです。こうして生まれたのが荘園になります。
そしてこの荘園を経営し、いかに利益を出していくかが荘園領主の腕の見せ所となっていきます。結局、この法によって農民たちは自分たちの土地を持つのではなく、その荘園領主の下で農作業をしていくという形になっていきました。荘園の成り立ちは諸説あり、詳しく見ていくとかなり複雑なのですが、大まかな流れはこのようなものになります。
さて、お待たせしました。ようやくここで僧兵と繋がる事態が発生してきます。先ほども申しましたように、墾田永年私財法により土地が国家のものから私有財産へと切り替わりました。こうなったことで誰かから土地を奪うハードルが一気に下がったのです。「え!?」と思うかもしれませんが、まさにその通りなのです。ここから先、より強い者が荘園の利益を得るために土地を奪い合う事態が頻発するのです。
「そんなことをしたら捕まって罰せられるのでは?」と皆さんは思うかもしれません。しかし、当時の日本社会ではまだ警察組織も裁判系統も十分に機能していません。もちろん、ある程度の治安維持はされていたでしょうが、揉め事は基本的には自分たちで解決せねばなりません。国が自分たちを無条件に守ってくれるわけではないのです。
そもそも、私たち現代日本人はなぜ人から土地や物を取ろうとしないのでしょうか。
「悪いことはしてはいけないから」「捕まるから」など、様々なことを思うかもしれませんが、やはり一番大きな理由は捕まるからでしょう。もし犯罪を犯しても全く取り締まられないならば、力に任せて何でも奪おうとする人が出てきてもおかしくありません。
「いやいや、人としてそんなことをしたら良心が痛むし、そういうことはしないだろう」と思うかもしれませんが、中世はそもそも「自力救済社会」と呼ばれるほどアナーキーでハードボイルドな時代です。私たちの倫理観とは全く異なる原理で人々は生きています。自分で何とかしないと生きていけない世界なのです。
そういう時代の中で人々は自分の土地をどう守ろうとしたのか。それが「この土地に手を出したらうちの親分が黙ってないぞ」という威嚇です。つまり、自分よりももっと強い人に土地を寄進し、代わりに守ってもらうというシステムです。
先程私は有力者が大量動員で大規模開墾したり、土地を買うことでより土地を増やしたと言いましたが、これに加えてさらにこうした庇護システムによりさらに土地を増やすことになったのです。
そうです、皆さんもお気づきになられたでしょう。こうした庇護システムが作動するには「現実的な力」が必要です。それが武力なわけです。土地を守るには武力が必要なのです。強盗、盗賊も多発した時代です。これらを撃退せねばならない現実的な脅威があったのです。これが中世の現実です。
自分で何とかしなければ土地が強奪されてしまいます。さすがに農民自体が武装することは叶いませんから、土地の有力者に土地と引き換えに保護を頼むわけです。そしてその土地の有力者も敵と対抗するためにもっと強い存在の庇護下に入ろうとします。こうしてピラミッド状に親分子分関係が構築されていったのです。そしてその頂点が藤原摂関家や天皇家出身の貴族であったり、比叡山や興福寺などの大寺院だったのです。
僧兵はこうした時代背景の下生まれてきました。僧侶が堕落して武装したというのは正確ではありません。むしろ、武装しなければ土地も寺院の宝物も全て奪われてしまいかねない状況だったのです。
事実、奈良時代から平安時代にかけておびただしい数のお寺が廃寺となっています。これはこうした時代変化に対応できなかった寺の末路です。言い方を変えれば、僧兵を持たなかった寺は軒並み収益基盤を奪われ存続が不可能になったということです。それほど厳しい時代だったのです。
仏法を守るためには武装もやむなし。そこで寺に住み着いていた寺男達が武装したり、元々腕っぷしの強い人間達が寺に入ってくることになったのです。これが僧兵の起源です。
ただ、残念ながらこれらの僧兵たちが武力を背景に暴走し、寺の実権を逆に僧侶から奪い取ってしまうということも多々起きてしまいました。それは比叡山も例外ではありません。荘園経営の莫大な経済利益と武力を背景に、もはや僧兵はコントロール不能な存在となっていくのです。
その問題が国家的なレベルにまで拡大したのが強訴という実力行使になります。
次の記事ではそんな強訴と比叡山の政治事情についてお話ししていきます。
続く
この記事で特に参考にした本はこちらです
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
村山修一『比叡山史 闘いと祈りの聖域』
主要参考文献一覧はこちら

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