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ボスニア旅行記おすすめ記事一覧~私の旅で最も心に残った国!【僧侶上田隆弘の世界一周記】

目次

私の旅で最も心に残った国!僧侶上田隆弘の世界一周記ボスニア編一覧19記事

私がオーストリアの次に向かったのはボスニア・ヘルツェゴビナという国。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・・・

この国に対して、みなさんはどのようなイメージを抱くでしょうか。

第一次世界大戦のきっかけ、サラエボ事件が起こった場所。

1984年の冬季オリンピック。

そして1990年代、ボスニア紛争が起こった場所。

最近ではサッカーのイビチャ・オシム監督やヴァヒド・ハリルホジッチ監督の出身国として話題に上りました。

ですが、この国がどのような国で、どこにある国なのかを知っている人はおそらくかなり少ないのではないかと思います。

かくいう私も、この旅を計画する前まではこの国のことを全くわかっていませんでした。

悲惨な紛争があったことは知っていました。

けれども、そこに目が向いたことはほとんどありませんでした。

旅の計画を立てるにあたってこの国に関心を持ったのも、ボスニア紛争が宗教と民族の争いで、仲良く暮らしていた隣人が急に殺し合うようになったのだと教えられた記憶があったからでした。

なぜ人間はこうも簡単に人を憎むことができるのだろうか。

なぜ仲のよかった隣人を宗教を理由に殺すことが可能だったのか。

宗教は人を残酷な行動に駆り立てるものなのだろうか。

民族の対立は人間に宿命づけられた地獄の入り口なのだろうか。

このような疑問が生まれたからこそ、私はボスニアを訪ねることに決め、それから色々な書籍を読むことになりました。

そして様々な本を読んでいる内に、私はあることに気づかされました。

「ボスニア紛争はそんなに単純なものではない」と。

仲のよかった隣人同士が急に宗教や民族を理由に殺し合ったというのは正確な答えではありません。

そこには知れば知るほど理解不能な複雑性という深みが待ち構えていました。

民族や宗教のみがこの紛争の理由ではない。

あまりにも複雑に絡み合った歴史や文化、経済、民族、宗教、大国同士の思惑。

この紛争の背景を知ろうと思うと信じられないほどの登場人物や事情が現れてきます。

そう、これはイスラエルのことを学んだ時にも起こった現象です。

あまりに複雑すぎる背景・・・

ある出来事の背景は簡単には知りえない。

そしてまさしくそのような悲惨な出来事が私が生まれた1990年からものの数年も経っていない時代に起こってしまった。

私が何も知らずに平和に生きてきた世界で、戦後最悪の紛争と虐殺が起こっていた。

それも、21世紀を迎えようとしていたヨーロッパで。

改めて考えてみるとそれは私にとってはとても衝撃的なことでもあったのでした。

だからこそ私はボスニアに対して強い思い入れを持つことになったのです。

ボスニア編では紛争を経験したガイドのミルザさんとともに紛争の歴史を学んでいきます。

当時の様子を知るミルザさんの言葉はあまりに衝撃でした。

そして私はサラエボ滞在中、強盗に遭うことになります。

この出来事が私のその後の旅に大きな影響を与え、ボスニアで学んだことがいよいよ自分の中に刻まれることになりました。

平和は当たり前ではない。突然暴力に襲われることはありえるのだということを心の底から実感したのでありました。

ボスニアは私の旅の中で最も心に残った国です。

海外旅行先としてはマイナーでなかなか知名度も少ない国ではありますが、だからこそぜひ読んで頂きたい記事となっています。

前置きが長くなってしまいましたが、早速記事を紹介していきましょう。

ウィーンからサラエボへ~ぼくがボスニアを選んだ理由 ボスニア編①

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ウィーンからサラエボへ~ぼくがボスニアを選んだ理由 ボスニア編① 2019年4月26日。私はウィーンからボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに向かいました。 旅の計画を立てるにあたってこの国に関心を持ったのも、ボスニア紛争が宗教と民族の争いで、仲良く暮らしていた隣人が急に殺し合うようになったのだと教えられた記憶があったからでした。 なぜ人間はこうも簡単に人を憎むことができるのだろうか。 なぜ仲のよかった隣人を宗教を理由に殺すことが可能だったのか。 宗教は人を残酷な行動に駆り立てるものなのだろうか。 民族の対立は人間に宿命づけられた地獄の入り口なのだろうか。 このような疑問が生まれたからこそ、私はボスニアを訪ねることに決めたのでした。

2019年4月26日。

私はウィーンからボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに向かう飛行機に乗っていました。

サラエボに近づくにつれ、濃い緑色でびっしりと覆われた山岳地帯が広がってきます。

ボスニアは国土のほとんどが山や森林地帯に覆われています。

そしてその山々の合間にぽつんと小さな集落が現れ、そこからまた山々が続いていきます。

サラエボの街も山で四方を囲まれています。

それは飛行機から見えた景色からもはっきりと見て取ることができました。

いよいよサラエボの旅が始まります。

ウィーンからサラエボへ~ぼくがボスニアを選んだ理由 ボスニア編①

ボスニアの首都サラエボに到着~ボスニアはどんな国? ボスニア編②

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ボスニアの首都サラエボに到着~ボスニアはどんな国? ボスニア編② 2019年4月26日。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの空港に着陸。 サラエボは街の周囲を山で囲まれた街。 街からすぐそこに豊かな自然があります。 ですが同時にこの地形こそサラエボの人々を苦しめることとなってしまったのでありました この記事ではボスニア紛争についてこれからお話ししていく前に、ボスニア・ヘルツェゴビナという国のあらましについてお話ししていきます。

4月26日。

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの空港に着陸。

空港からは車で旧市街にある宿まで移動。

ヨーロッパともアジアともどこか違う雰囲気の街並み。

少し寂れた様子を見せる街の姿は先の紛争の爪痕が尾を引いているからなのでしょうか。

この記事ではボスニア・ヘルツェゴビナがどんな国かをちょっとした街歩きと絡めながらお話ししていきます。

ボスニアの首都サラエボに到着~ボスニアはどんな国? ボスニア編②

サラエボの奇蹟―命をつないだトンネル!ボスニア紛争とトンネル博物館 ボスニア編③

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2019年4月27日。

この日から本格的にボスニアの観光が始まります。

今回ボスニア滞在のサポートをお願いしたのがBEMI TOURさんという現地ツアー会社。

ボスニアは他の国に比べると日本国内で事前に得られる情報が圧倒的に少ないです。

さらに治安の不安もありました。

そして何より、私は紛争のことを現地の方から直接お話を聞いてみたかった。

ただ紛争の跡地を見て回るだけでは決してわからないことを、私は知りたかったのです。

そこで何が起こり、極限の状況下で現地の人は一体何を感じていたのだろうか。

そのことを知るためにはやはりただ現地に赴くだけでは不十分で、現地の方のお話を聞くことがどうしても必要だったのです。

左が松井さん、右がミルザさん

お二人はご夫婦でツアー会社を運営されていて、今回のぼくの旅には現地ガイドとしてミルザさん、通訳として松井さんが同行して下さりました。

この記事ではボスニア紛争で大きな役割を果たしたトンネル博物館を紹介しています。

また、ボスニア紛争で有名となったスナイパー通りもこの記事では紹介しています。

サラエボの初日から紛争の現実に私は衝撃を受けるのでありました・・・

サラエボの奇蹟―命をつないだトンネル!ボスニア紛争とトンネル博物館 ボスニア編③

平和の象徴が紛争犠牲者の墓地に…ヴレロボスネ自然公園とオリンピック競技場の墓地 ボスニア編④

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サラエボオリンピック競技場の墓地とヴレロボスネ自然公園と~平和の象徴が紛争犠牲者の墓地に… ボスニ... 1984年の冬季オリンピックの会場がまさしくここサラエボ。 平和の祭典オリンピックが行われてから10年と経たない内に、この地は紛争へと突入していくことになってしまったのでした。 紛争中、サラエボ市内では多くの犠牲者を出すことになりました。そのためもともとあった墓地区画に遺体を埋葬しきれなくなるという事態に。 そこで急遽オリンピック競技場のサブグラウンドを墓地として利用することになったのでした。 平和の祭典の会場がそのまま紛争の犠牲者となった人たちのお墓となっている。こんな皮肉があっていいものなのだろうか。 私はなんともいたたまれない気持ちで目の前のお墓を呆然と見続けたのでした。

トンネル博物館の見学を終えた私達が次に向かうのはヴレロボスネ自然公園。

サラエボの街を囲む山の麓にある自然公園で、きれいな湧水で有名。

天気のよい日にはボスニア人もよく訪れる憩いの場なのだそうです。

そしてヴレロボスネ自然公園の次に向かったのはオリンピック競技場近くにある墓地。

1984年の冬季オリンピックの会場がまさしくここサラエボ。

平和の祭典オリンピックが行われてから10年と経たない内に、この地は紛争へと突入していくことになってしまったのでした。

紛争中、サラエボ市内では多くの犠牲者を出すことになりました。

それでもともとあった墓地区画に遺体を埋葬しきれなくなるという事態に。

そこで急遽オリンピック競技場のサブグラウンドを墓地として利用することになったのです。

この記事ではそんなヴレロボスネの美しい景観と、オリンピック競技場の墓地について紹介していきます。

平和の象徴が紛争犠牲者の墓地に…ヴレロボスネ自然公園とオリンピック競技場の墓地 ボスニア編④

サラエボウォーキングツアー~ヨーロッパのエルサレムを散策 ボスニア編⑤

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サラエボ旧市街散策~多民族が共存したヨーロッパのエルサレムの由来とは ボスニア編⑤ 2019年4月28日。 この日もBEMI TOURのミルザさん、松井さんと共にサラエボを散策。 この日はサラエボウォーキングツアーということで、サラエボの文化と歴史、そして紛争当時のことを学ぶ半日のスケジュール。 この記事ではサラエボの文化と歴史に焦点を当てて述べていきます。 サラエボ事件で有名なラテン橋や、日本ではなかなか見ない飲み方のボスニアコーヒーもご紹介します。

2019年4月28日。

この日もBEMI TOURのミルザさん、松井さんと共にサラエボを散策。

この日はサラエボウォーキングツアーということで、サラエボの文化と歴史、そして紛争当時のことを学ぶ半日のスケジュール。

この記事ではサラエボの文化と歴史に焦点を当てて述べていきます。

第一次世界大戦のきっかけとなった有名なラテン橋や異国情緒あふれる旧市街の街並みを紹介していきます。

サラエボはヨーロッパのエルサレムと呼ばれるほど様々な民族や宗教が入り混じった街でした。この記事ではその独特な文化の成り立ちについてもお話ししています。

また、この記事ではボスニアコーヒーについても紹介しています。

ボスニアコーヒー

ボスニアコーヒーの飲み方は一風変わっていて、非常に面白い体験でした。

サラエボウォーキングツアー~ヨーロッパのエルサレムを散策 ボスニア編⑤

たった1本の路地を渡ることすら命がけ!サラエボ市街地にてボスニア紛争を学ぶ ボスニア編⑥

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サラエボ市街地にてボスニア紛争を学ぶ~たった1本の路地を渡ることすら命がけだった日々 ボスニア編⑥ サラエボは1992年4月から1995年10月まで約3年半の間、セルビア人勢力に包囲され、攻撃を受け続けました。その間の犠牲者はおよそ12000人。 1990年生まれの私は当時2歳。その頃の記憶は当然ありません。ですが、平和に暮らしていた私の幼少期に、遠く離れたボスニアでは悲惨な紛争が続いていました。それも多様な民族や宗教が共存していたその国で。 文化の多様性がその国の持つ良さであったはずなのに、それが瞬く間に崩壊してしまった。 一体、ここで何が起こってしまったのでしょうか。

サラエボは1992年4月から1995年10月まで約3年半の間、セルビア人勢力に包囲され、攻撃を受け続けました。

その間の犠牲者はおよそ12000人。

1990年生まれの私は当時2歳。

その頃の記憶は当然ありません。

ですが、平和に暮らしていた私の幼少期に、遠く離れたボスニアでは悲惨な紛争が続いていました。

それも、多様な民族や宗教が共存していたその国で。

文化の多様性がその国の持つ良さであったはずなのに、それが瞬く間に崩壊してしまった。

一体、ここで何が起こったのでしょうか。

この記事ではサラエボの街を歩きながら、ボスニア紛争について学んでいきます。

その中でも特に私が印象に残ったのがこの記事のタイトルになっている小さな路地。紛争経験者のミルザさんが連れて来てくれた場所でした。

そしてそこでたった一本の路地を渡るだけで命がけだったという極限の状況を知ることになったのです。

本やテレビではなかなか見ることのない、紛争経験者の生の体験をこの記事では紹介しています。

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ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(前編)ボスニア編⑦

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ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(前編)~紛争の始まりと従軍経験 ボスニア編⑦ わかりやすい構図で語られる、紛争という巨大な出来事。 ですが、事実は単にそれだけでは済まされません。民族や宗教だけが紛争の引き金ではありません。あまりに複雑な事情がこの紛争には存在します。 わかりやすい大きな枠組みで全てを理解しようとすると、何かそこで大切なものが抜け落ちてしまうのではないだろうか。なぜ紛争が起こり、そこで一体何が起こっていたのか。それを知るためには実際にそれを体験した一人一人の声を聞くことも大切なのではないでしょうか。 顔が見える個人の物語を通して、紛争というものが一体どのようなものであるのか、それを少しでも伝えることができたなら幸いです。

これまで紹介してきたトンネルツアーやサラエボウォーキングツアーでは紛争経験者のミルザさんと共に紛争の傷跡を巡ってきました。

紛争時サラエボにいたミルザさんから聞くお話は、本を読んで得ていたものよりもはるかに胸に響くものでありました。

遠いボスニアの地で起こった紛争。そしてサラエボだけでおよそ12000人が犠牲になり、国中が荒廃した悲惨な紛争。

私たちはそれを「異なる宗教や民族同士で殺し合う紛争が起こった」という大きな枠組みの中で捉えてしまいがちです。

わかりやすい構図で語られる、紛争という巨大な出来事。

ですが、事実は単にそれだけでは済まされません。

「民族や宗教だけが紛争の引き金ではない。あまりに複雑な事情がこの紛争には存在する。

わかりやすい大きな枠組みで全てを理解しようとすると、何かそこで大切なものが抜け落ちてしまうのではないだろうか。

なぜ紛争が起こり、そこで一体何が起こっていたのか。

それを知るためには実際にそれを体験した一人一人の声を聞くことも大切なのではないだろうか。」

私はそう感じたのです。

顔が見える個人の物語を通して、紛争というものが一体どのようなものであるのか、それを少しでも伝えることができるなら私にとって何よりのことです。

ミルザさんも「サラエボ市民の数だけ紛争体験のストーリーがありますが、私の体験が平和への気づきへと繋がり、平和な未来のためになるならいくらでも協力します」と快くインタビューを引き受けて下さりました。

この記事ではそんなミルザさんの紛争の物語をご紹介しています。

平和な暮らしが突如奪われたボスニア紛争。

そして波乱万丈な日々を送ったミルザさんの生き様は私達に強烈なインパクトを与えることでしょう。

ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(前編)ボスニア編⑦

ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(後編)ボスニア編⑧

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ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(後編)~サラエボ包囲からの脱出とその後の日々 ボスニア編⑧ ミルザさんとはサラエボに滞在していた5日間、たくさんお話しさせて頂いた。 ここで語ることができたのはそのほんの一部に過ぎません。 ですが、それでもできるだけその時の雰囲気を伝えられるよう書いてみたつもりです。 ミルザさんの体験が少しでも皆さんに伝わることができたならこんなに嬉しいことはありません。 私自身も紛争や戦争について本当に考えさせられました。いや、日本に帰ってきた今も考え続けています。 誰かの体験を直接聞くということがどれほど貴重な体験であるかということを心の底から感じたサラエボでの日々でした。

前篇の記事ではミルザさんがサラエボ包囲に巻き込まれる直前までをお話ししました。

今回の後編の記事ではミルザさんがサラエボ包囲から脱出し、国外へと向かって行った緊迫のシーンをお話ししていきます。

たったひとつの判断ミスが死を招く。

そんな極限状況の中ミルザさんはサラエボから脱出します。

ミルザさんはこの物語を語った後、こう話して下さりました。

「これが私の見てきたボスニア紛争です。紛争で私の生活は一変することになりました。

私達は突然平和な生活を失い、暴力に見舞われたのです。

生きていれば、信じられないこともたしかに起こるのです。」

「1995年の紛争終結後、兄がローマに逃げてきました。

兄はそれからしばらく私と暮らしました。

しかし、私の家に来てから3か月ほどは精神的に非常に不安定な状況にありました。

兄にとってサラエボでの極限の生活から日常に戻るのはとても困難なものでした。

それほど、あの紛争は私達の心に深い傷跡を残しました。

ボスニアには今でもその傷から立ち直れず、精神的に苦しんでいる人がたくさんいます。

紛争時の話は今でも皆したがりません。

それほど悲惨な記憶だったのです。

ですが、私の紛争体験が平和のためになるなら、喜んで協力したいと思います。

紛争の体験を日本の皆さんにも伝えて頂けたら嬉しいです。」

私がボスニアのことを忘れられないのも、ミルザさんと出会えたからこそです。

少しでも多くの人にこの物語が広がってくれることを願っています。

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上田隆弘、サラエボで強盗に遭う。「まさか自分が」ということは起こりうる。突然の暴力の恐怖を知った... 当時のことを思い出すと、恥ずかしながら心にほんの少しの緩みがあったことを私は認めなければなりません。 ここまで無事にやって来れたという自信が、知らないうちに「自分は大丈夫だ」という過信に変わってしまっていたのでした。 そんな私が災難に遭うのは必然のことだったのかもしれません。 幸い無事に逃げることができましたが、私にとって非常に恐ろしい出来事になりました。

この記事では私が遭遇したまさかの事件についてお話ししていきます。

私はサラエボの旧市街をぶらぶら散歩した後、川沿いにある宿に向かって歩いていました。

そしてその途中、橋があったのでそこから川でも眺めようかと立ち寄ったのが私の運の尽きでした。

私はそこで2人組の強盗に襲われることになったのです。

ついさっきまでミルザさんに「突然暴力に巻き込まれることはありえることなのです」と教えてもらったばかりにも関わらず、私は自分が暴力に巻き込まれることなど、まったく想像もしていませんでした。

何とも情けない話ですが、幸運なことに無事に逃げ切ることができたので被害はありませんでした。

しかしこの事件のショックは後々まで引きずることになったのです・・・

上田隆弘、サラエボで強盗に遭う ボスニア編⑨

欧州で起きたジェノサイド、スレブレニツァの虐殺の地へ⑴ ボスニア編⑩

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ボスニア紛争で起きた惨劇、スレブレニツァの虐殺の地を訪ねて ボスニア編⑩ 2019年4月29日、私は現地ガイドのミルザさんと二人でスレブレニツァという町へと向かいました。 そこは欧州で戦後最悪のジェノサイドが起こった地として知られています。 現在、そこには広大な墓地が作られ、メモリアルセンターが立っています。 そう。そこには突然の暴力で命を失った人たちが埋葬されているのです。 私が強盗という不慮の暴力に遭った翌日にこの場所へ行くことになったのは不思議な巡り合わせとしか思えません。 私は重い気持ちのまま、スレブレニツァへの道を進み続けました。

4月29日、私はミルザさんと二人でスレブレニツァという町へと向かいました。

そこは戦後最悪のジェノサイドが起こった地として知られています。

現在、そこには広大な墓地が作られ、メモリアルセンターが立っています。

そう。そこには突然の暴力で命を失った人たちが埋葬されているのです。

私が強盗という不慮の暴力に遭った翌日にこの場所へ行くことになったのは不思議な巡り合わせとしか思えません。

前日に起こった事件の恐怖を引きずったまま今日ここで虐殺の現場を目の当たりにしたこの体験は、私にとって生涯忘れることのない出来事となりました。

ここで感じた重くのしかかってくるような空気の感覚。

そして、微かな風の音しかしない静かな墓地。

どんよりとした空の色、木々の緑、そして墓石の白い色・・・

ここで感じたひとつひとつのものを私は心に刻み付けたのでありました。

戦後最悪のジェノサイド、スレブレニツァの虐殺の地へ⑴ ボスニア編⑩

欧州で起きたジェノサイド、スレブレニツァの虐殺の地へ⑵ ボスニア編⑪

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スレブレニツァのお墓をお参りした後、私たちが向かったのはスレブレニツァメモリアルホール。

メモリアルホールといっても、外観は古びた工場といった趣。

ですが、古びた工場というのもあながち間違いではありません。

実はここはかつて実際に工場として使われていた建物で、紛争中この工場をセルビア軍は強制収容所として転用していたのです。

そして現在は資料館としてその役割を果たしています。

入り口からして重たい空気が漂います。

今にも雨が降り出しそうな暗い灰色の空模様と相まって、より恐ろしい雰囲気を醸し出しています。

恐る恐る中へ入っていくと、打ちっぱなしのコンクリートで作られた空間が広がっていました。

シーンと静まり返り、一定の間隔で落ちてくる雨垂れの音だけがこの空間に響きます。

ここに入った瞬間、全身に冷たい何かがまとわりつき、押しつぶされるような圧迫感を感じました。

ここで展示されていた資料も胸が締め付けられるような痛ましいものばかりでした・・・

この記事ではその一部を紹介しています。

スレブレニツァでの体験は絶対に忘れることのできないものとなりました。

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恐怖や孤独に打ち勝つ心の強さとは―紛争経験者ミルザさんとの対話 ボスニア編⑫

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スレブレニツァメモリアルホールの見学を終え、私たちは一路サラエボへの道を引き返していきます。

スレブレニツァからサラエボまでの道のりは片道およそ3時間ほど。

私はその間、ミルザさんと様々な話をしました。

ボスニアの文化のことやミルザさんのイタリア時代のこと、コーヒーのことやサッカーのことなど、ここでは話しきれないほどたくさんのお話をしました。

そしてスレブレニツァでの衝撃的な体験の後に、私の中にどうしてもミルザさんに聞いてみたいことが生まれてきました。

私はこの帰り道、思い切ってそれをミルザさんに打ち明けてみることにしたのです。

「ぼくは昨日強盗に遭いました。(もちろん、ミルザさんはすでに知っています)

本当にショックでした。まさか自分が暴力に遭うとは思っていなかったのです。

そして昨日の夜、ぼくは恐怖と孤独に苦しみました。

自分の心の弱さをつくづく感じました。

ぼくの心は動揺していました。

たったひとつの予期せぬ災難で打ちのめされてしまいました。

何事にも動じない心なんて程遠いものだと痛感しました。自分が情けないです。

ミルザさんは軍にも在籍し、紛争も生き抜きました。

その体験はぼくの想像もつかないほど困難なものだったと思います。

ミルザさんはどうやってその困難を乗り切ったのですか?

何か心の支えになるようなものがあったのでしょうか?」

そんな私の質問に対してミルザさんが口にしたのは意外な答えでした。

この記事ではミルザさんから学んだ人生への向き合い方をお話ししていきます。

ミルザさんの言葉は本当に重かった・・・。こういう方と出会えて本当によかったと心の底から感じました。

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オスマン帝国時代の遺産、ポチテリ~絶壁に立つ天然の要塞 ボスニア編⑬ オスマン帝国統治下に作られた城塞都市ポチテリ。ここは山の上に立つ要塞で、ここからの眺めはボスニアでも随一の美しさです。 ですがガイドのミルザさんの言うように、観光地としての潜在能力はあるけれどもそれを生かし切れていないというのがとても感じられた場所でした。 ですが日本では絶対ありえない状況の建物に入ったり、崖ぎりぎりから絶景を眺めることができたというのはある意味記憶に残る体験でありました。

スレブレニツァを訪ねた2日後の5月1日。

私はいよいよサラエボを去り、次の目的地であるモスタルへと向かいます。

モスタルへは今日もミルザさんと2人で車で向かいます。

と言うのも、BEMI TOURさんではサラエボからモスタルへの日帰りツアーを催行していて、私はそのツアーを利用しモスタル解散にしてもらうことにしていたのでした。

このモスタル日帰りツアーではモスタルの他に近郊のポチテリとブラガイという2つの観光名所を訪ねることになっています。

というわけでこの記事ではポチテリについてお話ししていきます。

ポチテリはオスマン帝国統治下に作られた城塞都市で山に沿って石造りの建物が建てられています。

塔の上からは絶景を楽しむことができますが、なかなかにスリリングな体験もすることになります。

この記事ではそんな、日本では立ち入り禁止になるようなポチテリでの体験をご紹介しています。ちょっとした冒険気分が味わえてとても楽しい思い出になりました。

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ここは本当に行くべき!ブラガイのイスラム修道院と圧倒的な湧水の美しさ ボスニア編⑭

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ブラガイのイスラム修道院と圧倒的な湧水の美しさ ボスニア編⑭ ブラガイは個人的にとても興味のあった場所で、ボスニアに行くならぜひとも訪れてみたいと思っていた地でありました。 ブラガイは美しい湧水と、そこに立つイスラム修道院が有名。 キリスト教の修道院は数多くあれど、イスラム修道院を訪れることはなかなか珍しい体験です。 現地に着くと水量の多さと勢いに圧倒されてしまいました。見上げれば断崖絶壁。ものすごい絶景でした。

ポチテリの次はブラガイにあるイスラム修道院を目指します。

ブラガイは個人的にとても興味のあった場所で、ボスニアに行くならぜひとも訪れてみたいと思っていた地でした。

ブラガイは美しい湧水と、そこに立つイスラム修道院が有名です。

キリスト教の修道院は数多くあれど、イスラム修道院を訪れることはなかなか珍しい体験です。

間近で見る川の流れは思いの他激流で、ものすごい迫力でした。もっとす~っとした穏やかな清流を想像していたのですがここはまるで違いました。

もし落ちてしまったらあっという間にはるか彼方まで流されてしまうことでしょう。

水量の多さと勢いに圧倒されます。そして見上げれば断崖絶壁。ここはものすごい景色でした。

ボスニア屈指の名勝です。ここはぜひとも訪れることをおすすめします。

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モスタルの象徴~ネトレヴァ川に架かる美しきスタリモスト ボスニア編⑮

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ブラガイの観光を終え、これから向かうのが本日の最終目的地、モスタルです。

モスタルも山の近くにある街で、オスマントルコ時代の名残で、石造りの建物が目立ちます。

日中は観光客でいっぱいです。

メインの通りは通るのも大変なくらい混雑します。

ここモスタルはクロアチアからの日帰り観光スポットとしても有名で、ドブロブニクやコトル、スプリットなどのアドリア海沿岸のリゾートからやって来る人も多いです。

そしてこちらがスタリモスト。モスタルと言えばこの風景が有名。

ボスニアを代表する景観です。

もともとは16世紀のオスマントルコ時代に作られたものでしたがボスニア紛争でこの橋は破壊されてしまいました。

現在かかっているのは紛争後再建されたもの。

再建された翌年の2005年、ボスニア初となる世界遺産に登録されました。

この記事ではこのスタリモストとモスタルの街をご紹介していきます。

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サラエボで強盗に遭ってから私は一度も一人で外出をしていませんでした。

外に出る時は必ずミルザさんと一緒。

ツアー以外の時間はずっと部屋に引きこもっていました。

そしてモスタルでのツアーを終え、いよいよミルザさんともお別れ。

ここから先は一人で過ごしていかなければなりません。ミルザさんに頼ることはもうできないのです。

ミルザさんと別れて部屋で一人きりになると、私はそれまでの緊張の糸が切れたのか、泣き崩れてしまいました。自分でも訳が分からないほど涙が出て来て止まりませんでした。

モスタルには5日間滞在しましたが、飲食物の補給以外は恐くてほとんど外出もできない有り様になってしまいました。

しかし、ゆっくりとではありますが少しずつ心のリハビリも進み、改めて旅を始めようという気持ちを回復していったのでありました。

この記事ではそんな私の旅の転換期となったモスタルでの日々をお話ししています。

強盗に遭ったショックは思いの他ひどかった…モスタルでの日々と旅の転換点 ボスニア編⑯

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5月4日夕方。

私はモスタルの街を歩くことにしました。

夕方になると日帰りツアーの観光客も帰りはじめ、モスタルの街は一気に人が減り始めます。

街歩きをしていて、私は虐殺博物館なる建物を見つけました。

外から覗いてみると、かなり本格的な博物館であることがわかりました。

せっかくここで見つけたことだし、私は中へ入ってみることにしたのです。

中は紛争当時のものや資料が展示されていました。

この博物館はかなり衝撃的でした。ブログでは紹介できないような写真が数多く展示されていて思わず目を反らしてしまいました。

あまりにショッキングな写真。

虐殺の悲惨さ、残酷さをストレートに伝えてくる写真でした。

そしてこの博物館でもうひとつ印象的だったのが上の写真にあるジオラマです。

これは強制収容所の様子をジオラマ化したもの。

これがまた想像力を刺激されて異様な生々しさと恐怖心を私に与えてきました。

サラエボでの強盗事件から立ち直りつつあった私が改めて暴力について考えさせられた体験でした。

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18本の記事にわたって書き続けてきたボスニア編もいよいよ最終盤。

ボスニア編では紛争をメインのテーマにして綴ってきたのでかなり重い記事になってしまいました。

読んで下さったみなさんにも辛い思いをさせてしまったかもしれません。

ですが、ボスニアはそれだけではありません。

ボスニアは観光するにもとても魅力的な国です。

私はたまたま民族紛争と宗教というテーマで訪れたからこそ、これまでの記事で述べてきたようなことを体験したまでのこと。

ボスニアはヨーロッパにありながら、ヨーロッパとは異なる異国情緒を感じることができる国です。

まだまだ日本人にとっては馴染みのない国かもしれませんが、現在新たな人気観光地としてヨーロッパでは特に注目を浴びている国なのです。

というわけで、ボスニア編の最後にこの国の魅力と次の記事ではそれに合わせてサラエボの治安情報を掲載していきたいと思います。

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いよいよボスニア編最後の記事。

この記事では気になるボスニアの治安状況についてお話ししていきます。

ボスニアは1992年から95年にかけて紛争があった国。

その紛争は国土を荒廃させ、経済も悪化し、人々の生活もずたずたにされてしまいました。

そうなってしまえば当然治安も悪化し、観光旅行どころではありません。

そのためボスニアは観光先として選ばれない日々が続いていました。

ですが、5年ほど前から状況は急激に変わり始めます。

復興が進み、インフラ設備や観光施設が充実し始め、観光客の受け入れが可能な状態になり始めました。

そしてスマホの普及で情報が拡散しやすくなり、ボスニアが観光地として魅力的であることが世界中に広まり始めます。

こうして現在、まだまだ十分な状況とは言えませんがボスニアは観光国としての地位を築き始めているのです。

実は私が世界一周のルートを決めた時、周りの人から1番心配されたのがボスニアでした。

やはり紛争があった土地ということで危険なイメージがかなり根強い。

私自身もボスニアは不安を感じてはいました。

そして実際に私は、上田隆弘、サラエボで強盗に遭う ボスニア編⑨の記事で述べたように、強盗に遭うことになってしまいました。

では、実際に現在のボスニアはどのような状況にあるのでしょうか。

私はボスニア編の記事を書いていく中で、記事の編集のためBEMI TOURの松井さんと何度も連絡を取り合っていたのですが、その中で松井さんから注意喚起をしてほしいという連絡を受けました。

この記事ではニュース記事と絡めてボスニアの治安情報と安全対策についてお話ししていきます。

ボスニア、サラエボの治安情報 ボスニア編⑲

まとめ

ボスニアは私にとって最も心に残った国です。

紛争経験者のミルザさんから学んだことは一生忘れることができません。

BEMI TOURのミルザさん、松井さんと出会えたことは本当にありがたいことでした。お二人に出会えたからこそこんなにも濃い体験をすることができました。

心から感謝しています。

また、サラエボでは強盗に遭うことになりました。

ですが幸いなことに無事に逃げ切れ、物も盗られなければ怪我をすることもありませんでした。

「いつ何が起こるかわからない。平和は当たり前じゃない。突然暴力に襲われることがありうる。」

それを身をもって知りました。

強盗に遭った直後は何でこんな目に遭わなければならないのだと、恐怖と孤独で怯え続けていました。

ですが、旅の途中でも感じましたが、今となっては彼ら2人に感謝すらしています。

たしかに彼らは強盗未遂をしました。

ですが私は結果的には無傷です。何の被害もありません。

彼らは私に大事なことを気づかせてくれたのです。彼らがいたからこそ私はスレブレニツァで強烈な体験をし、ミルザさんからも大切なお話を聞くことができたのです。

そして何より、私自身の中で旅に対する気持ちが決定的に変化したのです。

そう考えると強盗をした彼らに今では感謝したい気持ちです。

もちろん、暴力行為を擁護しているわけではありません。ですが、彼らにもお金を求める様々な事情があるのでしょう。

ボスニア、サラエボの治安情報 ボスニア編⑲でもお話ししましたが、やはり大きく見れば経済格差や移民問題、国際情勢などが、小さく見れば国内問題や家族の問題など犯罪に走る傾向が高くなる社会事情というものがあります。

もし彼らが武器を所持して金品を奪う本格的な犯罪者だった場合、私は下手したら命を落としていたかもしれません。

ですが、そうではなかった。

だとしたらそれもめぐり合わせです。感謝するしかありません。

何はともあれ、ボスニアは私に強烈な印象を残した国でした。

最後にもう一言。ボスニアの魅力とおすすめポイントをご紹介 ボスニア編⑱でもお話ししましたが、この国は観光地としても非常に魅力的です。

私はボスニア紛争についてしっかりと学びたいという目的でここを訪れたため、これまで述べてきたような記事が中心となりました。

ですが異国情緒あふれる街並みをじっくり楽しんだり、ボスニアグルメを堪能したりと観光地らしい楽しみ方ももちろんできます。いや、ほとんどの外国人旅行者はそうしたボスニアの魅力を楽しみにこの国にやって来ています。

それに、強盗にあったとはいえ、気を付けてさえいればそこまで危険というわけでもありません。

ボスニアは魅力たっぷりな国です。どうかあまり恐れずにこの国のことを知って頂きたいです。

以上、「ボスニア旅行記おすすめ記事一覧~私の旅で最も心に残った国!【僧侶上田隆弘の世界一周記】」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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