『作家の日記』あらすじと感想~ドストエフスキーの人となりを知るならこの作品!
ドストエフスキーの人となりを知るならこの作品!『作家の日記』概要とあらすじ
『作家の日記』は1873年、1876~77年、1880~81年にかけて連載された作品です。
私が読んだのは私が読んだのは『ドストエフスキー全集』(新潮社版)第17、18、19巻の川端香男里訳の『作家の日記』です。
ドストエフスキーは1873年、週刊誌『市民』の発行者メシチェールスキイ公爵から、その雑誌の編集長を引き受けてくれないかと頼まれます。
生活が苦しかったのもありますが、この雑誌の編集長となることで「世の中に対する自分の意見を自由に発信する」というドストエフスキー長年の願いが叶えられることから、彼は編集長の任を引き受けます。
そしてこの雑誌のドストエフスキーのコーナーが『作家の日記』という題で始まり、中断を挟みながらもそこから最晩年まで続いていくことになるのです。
ただ、1873年に引き受けた『市民』誌の編集長の仕事は多忙を極め、自身の作品にじっくりと取り組むことができなくなっていきました。
このままでは体も壊し、自分の本来の仕事である小説を書くことができなくなるという危惧から1874年に編集長の仕事を辞します。
そこで一旦『作家の日記』はストップするのですが、1876年に今度は自らが『作家の日記』という雑誌を立ち上げ、一人でその紙面全部を書き上げるというスタイルでカムバックします。
『市民』誌のときは編集長ということで、様々な作家から送られてくる原稿を校正したり、作家たちとのやりとりをしたりと多忙を極めましたが、今度は「誰にも気がねのいらない個人雑誌」として再出発することになります。
紙面はもちろんドストエフスキーがすべて書き下ろし、アンナ夫人が予約者との連絡や雑誌の発送、印刷所や書店との交渉を一手に引き受けました。
この雑誌はいわば家族経営のスタイルで始められました。
1876年には発行部数が4千部、1877年には6千部が発行され、当時としては異例の売れ行きだったと言われています。
そして『カラマーゾフの兄弟』の執筆のため、2度目の中断を挟み、また1880年に再開しています。
『作家の日記』は世の中のあらゆることについてドストエフスキーが思うことを直接読者に届けられるということで、彼は非常にこの作品を重んじていました。亡くなる直前まで『作家の日記』を書き続け、1881年にその記事が掲載されています。これが彼の最後の作品となります。
さて、『作家の日記』には世の中のあらゆることに対するドストエフスキーの率直な見解が述べられていますが、他にも短編小説も掲載されています。
『キリストのもみの木祭りに行った男の子』『百姓マレイ』『百歳の老婆』『やさしい女』『おかしな人間の夢』など、どれも本当に面白い作品です。
また、ドストエフスキーは裁判の公判にも多大な関心を示し、不当に裁かれる弱い立場の人を守ろうとします。
その当時の裁判がいかに偽善的で、詭弁がまかり通っていたかをドストエフスキーは指摘します。
こちらの記事でも少しお話しさせていただきましたが、『作家の日記』は子供たちや女性など、虐げられた人々に対しての優しいまなざしであふれています。
私自身、『作家の日記』を読むことで初めてドストエフスキーの人柄、優しいまなざしを感じたものでした。
ドストエフスキーの人となりを知るには最適の書です。
かなり分量がある作品ですが、ドストエフスキーに興味のある方にはぜひおすすめしたい作品です。
感想
1876年以降の『作家の日記』はドストエフスキーとアンナ夫人との二人三脚での出版でした。
ドストエフスキーは若い頃から世渡り感覚に乏しく、すぐ人に騙され、お金の計算も下手で、何かを経営するような資質は全く持ち合わせておりません。1873年の編集者の職でうまくいかなかったのもその辺の理由も大きかったことでしょう。
ですが1876年以降、アンナ夫人の助けを得てこの個人雑誌『作家の日記』は大成功を収めます。アンナ夫人の実務能力はずば抜けてすばらしく、実務に関する仕事は彼女がテキパキと片付けます。その仕事はもはや素人の域を完全に超えてしまっています。
おかげでドストエフスキーは執筆に専念でき、質の高い文章を掲載し続けることができたのです。
ドストエフスキーは本当に奥様に恵まれました。奥様の存在がなければ『罪と罰』以降の名作は生まれてこなかったかもしれません。それほど奥様の存在は大きなものでした。アンナ夫人の名マネージャーぶりについては以下の記事でお話ししていますのでぜひご参照頂ければと思います。
そして『作家の日記』の成功は単に売り上げだけの問題ではありませんでした。モチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』には次のように述べられています。
ドストエフスキーは『作家の日記』が成功したことを喜んでいる。予約購読者は二千人あったが、それ以外にも小売りで二千部が売り切れている。
作者のもとには実にさまざまな読者からの手紙が寄せられた。「まったく新しいタイブの」二人の医学生も訪ねて来た。この学生たちは「心からの真率、快活なこと」でドストエフスキーを驚かせた。
ある若い女性は、自分は婚約者を愛していないし、もっと勉強したいのだと打ちあけた。別の女性は、愛情の感じられない男と結婚しなければならないかと相談を持ちかけている。また別の女性は、試験に失敗したことを訴えている。
ドストエフスキーはそれらの人びとに助言したり、慰めたりして、つつましい文通者たちの人生に熱心にかかわった。そうして思いもかけぬ発見をしてとまどっている。
ロシアのいたるところに同じ考えをいだいた人びとと友人たちのいるのに気がついたのだ!彼はすべての人びとと個人的なつながりを保ちたい、全一性というかねての夢を実現したいと願った。
モチューリスキー『評伝ドストエフスキー』松下裕・松下恭子訳P592-593
※一部改行しました
『作家の日記』を経て、ドストエフスキーのもとにはたくさんの手紙が届けられることになります。特に若い人たちからの人生相談が多く、ドストエフスキーはいつしか若者たちを導く「人生の教師」として尊敬を集めることになっていくのです。
それはやはり私も『作家の日記』から感じたようなドストエフスキーの優しさや、世の中を見抜く鋭いまなざしに多くの人が感銘を受けたことが大きかったのではないかと私は思います。
そしてドストエフスキーはそのたくさんの手紙に対して丁寧に返事をし、時にはその相談を『作家の日記』の題材として掲載したりしました。
ドストエフスキーは自身を信頼してくれる人たちとのつながりを感じます。
ドストエフスキーは昔から気難しく、多くの人に囲まれてもてはやされるというタイプではありませんでした。しかも長期のヨーロッパ外遊は祖国ロシアを恋しく思わせ、寂しさを感じさせるものだったことでしょう。
そんな辛い時期を経てこうして多くの人たち、特にこれからの時代を担う若者たちから「人生の教師」として慕われることになった。
これは彼にとって身にしみるほど嬉しかったことだったのではないでしょうか。
だからこそ彼は丁寧に返事をしたため、訪れてきた人たちも大切にしたのではないでしょうか。
長年の苦しい日々がやっと報われ出した晩年のドストエフスキーの雰囲気を感じさせるのもこの作品の大きな特徴なのではないかと思います。
『作家の日記』はドストエフスキーの人となりを知る上で最高の作品です。ぜひ読んで頂けたら嬉しく思います。
以上、「『作家の日記』あらすじと感想~ドストエフスキーの人となりを知るならこれ!」でした。
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