ダンテ『神曲 天国篇』あらすじと感想~「天国・浄土の生活はつまらない」問題について考えてみた
ダンテ『神曲 天国篇』あらすじと感想~「天国・浄土の生活はつまらない」問題について考えてみた
今回ご紹介するのは14世紀初頭にダンテ・アリギエーリによって書かれた『神曲 天国篇』です。私が読んだのは2009年に河出書房新社より発行された平川祐弘訳の『神曲 天国篇』です。
早速この本について見ていきましょう。
三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはベアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。
Amazon商品紹介ページより
『神曲 天国篇』は前回の記事で紹介した『神曲 煉獄篇』の続きになります。
著者であり主人公のダンテは『地獄篇』で案内人ウェルギリウスと共に地獄を巡り、そこから『煉獄篇』で煉獄という場所を巡ることになりました。そして今回紹介する『天国篇』ではいよいよダンテは天国へ向かいます。
天国は私たちの生きる現世とは違い、いとやんごとなき光の世界でもあります。そして高貴な方々や天使たちがそこにおられます。そして彼らは群をなしダンテの前に現れることになります。
無数の天使や天国の住人がこうして列をなし神への讃嘆を唱えているのがこの天国になります。
天国の住人たちは大いなる天で神を称えて生活していたのでありました。ダンテもこの作品の中でその圧倒的な光景にただただ感嘆するのみでした。
・・・ですが、この作品を読んでいる私たち読者はどうでしょうか。
正直申しまして、私はこの天国篇が読みにくいことこの上なかったのです。
このように言ってしまっては西洋文学最大の古典に対して非常に失礼になってしまうのですが、『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』と先へ進む度に面白さが減じていくように感じてしまいました。一番最初の『地獄篇』が最も面白く、ダンテの筆も生き生きとしているように感じてしまうのです。
天国の住人たちはただひたすら集団で神を讃美し続けます。その描写がかなりワンパターンになってしまうのも大きな要因でしょうし、やはり天国というのは煩悩を具えた私たちにはなかなか理解することが難しく、憧れることすら困難だということがあるのかもしれません。
私が『天国篇』を初めて読んだのは大学三年生の頃、つまり10年以上前のことになります。その時一番感じたのは「なんか、天国はそんなに楽しそうじゃないな・・・」という、何とも身も蓋もない思いだったのを今でも覚えています。
とてつもなく罰当たりな考えを持ってしまった私ですが、実はこれと同じことを感じていた人がやはり世の中にはいたようです。松田隆美著『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』ではこのことについて次のように語られています。
「つまらない」天国
天国の喜びが身体的欲求とは無縁で、光や宝石の輝きによって象徴的にしか表現できないものであれば、世俗文学においては、こうした天国の情景がつまらないものとして揶揄されることも理解できる。前述のコカーニュの国では、今や第三圏に上げられた地上楽園の魅力の乏しさが次のようにあげつらわれている。
楽園は光り輝き愉快かもしれないが、
コカーニュのほうがもっと美しい。
楽園には野と花と緑の小枝以外には何があるというのか?
大いなる喜びや楽しみがあったとしても、
食物は果物しかない。
館もあずまやも長椅子もない。
渇きを癒すには水しかない。
人だって、エリヤとエノクの
2人しかいなくて、もう誰も住まない場所を、
哀れっぽく歩いているのだ。また、一二九〇年頃にフランス語で記された宮廷風騎士物語へのパロディ、『オーカッサンとニコレット』では、騎士のオーカッサンが天国に送られる者たちの退屈さを嘆いている。
天国でわたしに何をしろと申すのか。これほどに愛う思うている恋人ニコレットが一緒でなければ、天国には行きとうもない。天国にはこれから申すような人間どもしか行かないのだ。
そこに行く奴原はあの老いぼれの坊主どもに、老いぼれのびっこひき、腕のない不具者、この連中ときたら日がな一日、夜は夜通し祭室や古い地下祭室に踞っている輩だ。それに例のごとく擦り切れた外套や古いぼろをまとい、靴も股引もはかず裸同然、飢えと渇き、寒さと貧窮のために死にそうになっている連中さ。こんな手合が天国に行くのだ。そんな奴らに用はない。
わたしが行きたいのは地獄さ。地獄には美男の僧侶に騎馬試合や大合戦に討ち死した美丈夫の騎士、勇敢な郎党どもに高貴な者が行くのだ。そんな連中とこそ一緒になりたいものだ。おまけに夫のほかに二人、三人と情人を持つほどに典雅美麗なる婦人たちも行きまするぞ。金や銀、玉虫色や銀鼠色のりすの毛皮、竪琴弾きに旅芸人、はては浮世の王様方も行きまする。わが愛しのニコレットさえ一緒なら、わたしが行きたいと思う所もそこなのだ。
キリスト教の天国は物質的な豊饒と現世的快楽の延長線上には存在しない。しかし、喜びをそのようにしか認識しない俗世の主人公にとって天国は魅力に乏しく、そしてそうした人間たちの世界を描く世俗の物語文学にとって天国は対象外なのである。
ぷねうま舎、松田隆美『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』P195-197
※一部改行しました
そしてもう一カ所、こちらは天国ではなくその直前の地上の楽園について書かれた場所なのですがこちらも非常に重要な指摘がなされているので引用します。
楽園では生きるために食物自体を必要としないと考えるならば、豊饒を享受する意味もない。現世での欠乏の代償として与えられるのは飽満ではなく、むしろ必要自体からの解放であり、死後世界探訪譚では、煉獄で償罪を完遂した結果として迎え入れられる地上楽園はそうした場所として描かれる。(中略)
地上楽園は光と色に満ちている。硫黄の火が弱々しく反射する「可視の闇」によって特徴づけられる煉獄とは対照的に、地上楽園になると視野が開け、人間の視界がとどく限り美しい野が広がり、純粋な明るさのもとで、さまざまな美しい色が「調和のとれた多様性」によって風景を作り上げている。
澄んだ空は常に明るく輝き、夜が訪れることはない。そこには互いに祝福しあう大勢の男女がいて、神を称える聖人たちの歌声に満ち溢れている。暑さも寒さも感じることなく、すべてが平和で穏やかな憩いの場である。
地上楽園の悦びは身体的必要の満足とは無縁なもので、それは味覚や触覚ではなく、五感のなかでも上位に位置する嗅覚、視覚、聴覚を満たすものとして展開される。そこでは、人間を現世につなぎ止めている肉体的な欲求から解き放たれた、言い換えれば環境を意識する必要自体が生じない、理想的な自然状態が存在している。
ぷねうま舎、松田隆美『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』P175-177
※一部改行しました
「現世での欠乏の代償として与えられるのは飽満ではなく、むしろ必要自体からの解放」であるというのはとてつもなく重要な指摘です。
これはどういうことかといいますと、次のようになります。
私たちが求める喜びや楽しみというのはそのほとんどが肉体の欲求から来ています。食欲だったり、快適な生活だったり、あるいは性的な欲求だったりと様々なものがあるでしょう。
これらの喜びや楽しみを得られることを私たちは求めてしまいます。その喜びの反映が理想郷として描かれます。
ですがキリスト教の天国や地上の楽園はそうした喜びが満たされる場ではないのです。
上の解説でも示されたように、そもそも肉体的な欲望が消え去ってしまうのです。つまり、そもそも欲望を感じない状態になるのでこれまで求めていた喜びとか楽しみにも全く興味関心を失ってしまうのです。
だからこそひとつ目の引用に出てきた中世の騎士は「そんな天国などごめんだ!」と悪態をつくのです。天国に行ってしまったら愛する人への肉体的恋情も無くなってしまいますし、戦いを通じての肉体的興奮もありません。そもそもそうしたものへの興味関心も全く失われた境地になるのです。
う~む、これは難しいですよね。
天国というのは欲望が充足される場所ではないのです。
私たちは天国や極楽浄土というと、「あ~極楽極楽」というようなものすごく快適で何もかも満たされたような場所や、これまでの苦労に見合ったご褒美をたんまり味わわせてくれるような場所を想像してしまいます。
ですがそうではないのです。「私たちが今欲しいと思うものをそもそも欲しいとすら思わなくなる境地」になるのが天国やお浄土なのです。
これはなかなか行きたいとは思えないですよね。
実はこうした「天国に行きたくない」問題は浄土真宗の開祖親鸞聖人の言葉を記した書物として知られる『歎異抄』にも出てくる問題でもあるのです。
『歎異抄』の中で弟子が「私はお浄土に行きたいという気持ちになれないのです」と親鸞聖人に相談したところ、「私も同じだ」と答える有名なやりとりがあります。
この「天国やお浄土に行きたくない」問題は非常に大きな問題であり、同時に宗教とは何かを問う上でも非常に興味深い問題であります。
死んだ先に全ての欲望を満たしてくれる場所に行くことを願うのが宗教なのか。
それともすべての欲望から解放された境地になることを願うのか。
こうしたこととも繋がってきます。
仏教で語られるお浄土については浄土真宗では『阿弥陀経』というお経に詳しく説かれます。その描写はまさに今回お話ししてきたこととも繋がっていますし、さらに言えばダンテの『神曲』自体が源信の『往生要集』とまさしく重なってきます。
平安末期に活躍した天台宗の僧侶源信は『往生要集』という作品を書き上げました。
『往生要集』は985年に完成し、日本仏教にとてつもない影響を与えた書物です。きっと皆さんも日本史の授業で一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
この本ではまず地獄の様子が克明に描かれ、その後で極楽浄土の様子や、書名にありますように「浄土へ往生するための要」が書かれていきます。
つまり恐ろしい地獄へと堕ちることなく極楽浄土へ至る道筋をこの本で述べていくことになります。
ただ、源信としては極楽浄土にいくための正しい生活や修行法を広めたかったのでしょうが、前半の地獄の描写があまりに恐ろしかったので読んだ者はこの強烈なインパクトに恐れおののき、地獄にだけは堕ちたくないという風潮が一気に広がっていったそうです。地獄を導入部として書いたはいいもののそっちの印象が強すぎてそこばかりがクローズアップされるという現象が起こってしまったのです。
しかしこうしたことがきっかけとなり日本の浄土教は一気に広がっていったのでした。何がきっかけでどうなるかはわかりません。源信和尚もきっと驚いたことでしょう。(もしかしたら計算済みだったかもしれませんが)
さて、源信の『往生要集』の方まで話は流れていきましたがダンテの『神曲』は中世の人々の死生観を考える上でものすごく興味深い作品でありました。
『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』と続けて読んできましたが日本の地獄と浄土と比べながら読むのもとても刺激的なものになると思います。ぜひ仏教とセットで読んで頂けましたら幸いでございます。
以上、「ダンテ『神曲 天国篇』あらすじと感想~「天国・浄土の生活はつまらない問題」について考えてみた」でした。
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