(1)スペイン異端審問はなぜ始まったのか~多宗教の共存の実態とその終焉について
多宗教の共存とその終焉ースペインにおける異端審問の広がり『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配』を読む⑴
今回から「『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配』を読む」と題しまして、スペインにおける恐怖政治、「異端審問」はどのようなものだったかを学んでいきたいと思います。
私がこの本を読もうと思ったのはソ連、特にスターリンの粛清の歴史を学んだのがきっかけでした。
スターリン時代はちょっとでもスターリン体制から逸脱したり、その疑いありとされただけで問答無用で逮捕され、拷問の末自白を強要されます。実際に有罪か無罪かは関係ありません。
こういったソ連の歴史を読んでいると、私は思わずかつての中世異端審問を連想してしまいました。
異端審問も拷問の末自白を強要され、何の罪もない人が大量に殺害、追放された歴史があります。
そしてこの異端審問というものはドストエフスキーにもつながってきます。
ドストエフスキーと異端審問といえば、まさしく『カラマーゾフの兄弟』の最大の見どころ「大審問官の章」の重大な舞台設定です。
というわけで、ソ連、異端審問、ドストエフスキーの3つが一本の線でつながりました。
この本はとても興味深く、勉強になる一冊ですのでじっくりと読んでいきたいと思います。
では早速始めていきましょう。
多宗教が共存していたスペインと異端審問の導入
この本ではまず1484年、スペイン東部にあるテルエルという町における異端審問について語っていきます。
ある日この町に異端審問制度が導入されることになるも、人々はそれを歓迎しませんでした。
町当局は異端審問を拒んだのである。反抗したのは、町の自治を守るためだけではない。新たな異端審問が異質な者への迫害を意図している以上、導入されれば今のテルエルを形作っている繊細な文化的枠組を破壊してしまうと察知したからだろう。
当時テルエルの住民は、多様な人々で構成されていた。最も多かったのはキリスト教徒だが、それ以外に、キリスト教に改宗したユダヤ人の子孫「コンべルソ」(異端審問の長い歴史の中で、改宗ユダヤ人の子孫を指すのに使われた言葉は何種類もある。本書は混乱を避けるため「コンべルソ」で統一した。なお、この言葉はおおむね一五世紀のスぺインでのみ用いられたもので、ポルトガルでは「新キリスト教徒(クリスタン・ノヴォ)」が使われていた。それでも「コンべルソ」を採用したのは、スぺインでは「新キリスト教徒」がユダヤ系だけでなくイスラム教からの改宗者の子孫も含む用語だったためである)の大きなコミュニティーがあった。
ユダヤ教徒の間に、自発的な改宗であれ強制改宗であれ、たびたび実施されていた。こうした改宗者の子供や孫は、ほとんどが熱心なキリスト教徒だったが、その一方で先祖代々受け継がれてきたユダヤ民族の文化的習慣も、いくつか捨てずに守っていた。
またコンべルソのほかに、一五世紀初頭に聖ビセンテ・フェレールの説教を聞いて、ユダヤ教徒とともにキリスト教へ改宗した旧イスラム教徒も大勢住んでいた。イスラム教からの改宗者は「モリスコ」と呼ばれ、すでにモーロ人〔八世紀に北アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム教徒。ムーア人ともいう〕風の服装をやめていたし、アラビア語も話していなかった。つまり社会に完全に溶け込んでいたのである。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P39-40
※一部改行しました
異端審問が導入された当初、町の人々がそれを拒んだというのは驚きでした。人々は国から送られてきた役人、つまり異端審問官が町の文化や社会を壊してしまうことを察知していたのです。
上の引用にありますように、「コンベルソ」という改宗キリスト教徒と「モリスコ」という改宗イスラム教徒がこの街に居て、彼らはキリスト教徒とともに生活し、互いに様々な文化が入り混じった社会を形成していました。
これがこれから見ていくスペイン異端審問における重要な背景です。共存しながら生活していた人々が恐怖や憎しみ、嫉妬、相互不信によって引き裂かれていく過程がこの本では語られていきます。
では、実際に異端審問がどのようなものであったかを見ていく前に、スペインにおける共存の歴史をもう少し見ていきましょう。
異文化共存の伝統
カトリック両王治世下のスぺインは、ヨーロッパで独特な存在だった。ユダヤ人は、キリストの誕生以前からこの地に来ていたし、七一一年のモーロ人侵入以降は北アフリカから大勢のイスラム教徒が移り住んでいた。
キリスト教勢力はレコンキスタ〔イベリア半島からイスラム勢力を駆逐するためキリスト教勢力が進めた再征服活動。「国土回復運動」とも〕を進め、一三世紀半ばには決定的な勝利を次々と収めていたが(フェルナンド三世の下、カスティーリャ軍は一二三六年コルドバ、一二四一年ムルシア、一二四六年ハエン、一二四八年セビーリャの各都市を征服した)、その後もスぺインには多文化が共存し続けたため、ヨーロッパというよりはイスラム社会に雰囲気が似ていた。
地理的には、イべリア半島はピレネー山脈を挟んでヨーロッパの国々と陸続きになっていたが、当時は地理的な空間概念はあまり重視されず、スぺインがイスラム風の国と思われていた事実のほうがはるかに重要だった。つまり、ピレネー以北から来た旅行者の目には、キリスト教徒とユダヤ教徒イスラム教徒が共存した「コンビベンシア」時代を経たスぺインは、人間集団を分類する境界が曖昧になっているように映ったのである。(中略)
だからヨーロッパ諸国の人々には、スぺイン人はたとえキリスト教徒であってもエキゾチックに見えた。一五世紀半ばにブルゴスを訪れたボヘミア〔現チェコ西部〕貴族ロスミタル男爵の書記は、あるキリスト教徒の貴族の館について、女性はみな「モーロ人風の豪華な衣装を身にまとい、服装も食べ物も飲み物もモーロ人の習慣に従い、(中略)モーロ人流に実に華麗に踊り、全員が浅黒い肌と黒い目をしていた」と記している。
モーロ人は七〇〇年以上にわたってイべリア半島で生活し、しかもその時期の大半を支配者層として過ごしてきたため、彼らの残した影響は一四九二年のグラナダ征服ぐらいでは消し去ることはできなかった。現在誰もが知っているスぺイン語に「オーレ!」というかけ声があるが、その語源は「神にかけて」を意味するアラビア語「ワッラー」である。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P45-47
※一部改行しました
今となってはスペインとはヨーロッパでありキリスト教の国というイメージがありますが、スペインは実は割と最近までイスラム教文化が繫栄していた地域でもあったのです。
「オーレ!」の掛け声の語源がアラビア語というのも驚きですよね。
スペインにおける異文化交流の例
異文化交流の例はまだたくさんある。カスティーリャでは、ユダヤ教徒がキリスト教徒の洗礼式で名付け親を務めることがたびたびあったし、逆にキリスト教徒がユダヤ教の割礼式で名付け親になることも多かった。
イスラム教徒の大道芸人を雇い、深夜の礼拝中に教会で音楽を奏でさせることさえあった。さらに一五世紀までは、キリスト教徒とユダヤ教徒は子供を互いに年季奉公に出し、宗教の違う人々の間で数年生活させていたし、ユダヤ教からイスラム教への改宗や、イスラム教からユダヤ教への改宗も見られた。
信仰の異なる者どうしが性的関係を結ぶことも、表向きタブーだったが、実際には非常に多かったらしい。たとえば一三五六年、アラゴン国王は各地の修道院に、管轄区域内でキリスト教徒と性的関係を持って逮捕された女性イスラム教徒を裁く権限を認めたが、翌年にはこれを一部変更し、修道士自身と性的関係を持った女性は除くとせざるを得なかったほどだ。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P47
※一部改行しました
かつてのスペインはイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していた社会でした。宗教の違いがあろうと政治上の大きな対立がなければ共存は可能であることがこの時代では示されていました。もちろん、制度上の優遇措置や様々な特権、身分の違いなど、不和の原因となるものは存在したでしょうが、まったく共存不可という状況ではなかったということが上の引用からもうかがうことができます。
多宗教の共存は2019年に私が訪れたボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにも当てはまります。
内戦でその関係性はずたずたになってしまいましたが、なぜサラエボでも共存が可能だったのかということをこの記事では紹介しています。
15世紀末、そんな共存にも影が・・・
このように共存していた一方、三つの信仰を隔てる溝も確かに存在しており、いつ強硬な保守派にそれを誇張されてもおかしくない状態にあった。たとえば、イスラム教徒とキリスト教徒では公衆浴場を使う日が分けられていたし、ユダヤ教徒もイスラム教徒もキリスト教徒を改宗させることは禁じられていた。一五世紀後半には、各都市でユダヤ教徒とイスラム教徒をキリスト教徒から分離せよとの圧力が大きくなった。障壁は着実に高くなっていたのである。
このため、異端審問をめぐってアラゴンで騒動が起きた一五世紀末には、三者はスぺイン社会の中でまったく異なる機能を担うようになっていた。キリスト教徒は貴族か聖職者か軍人で、ユダヤ教徒は職人か金融業者か知識人、イスラム教徒は大半が農民か職人だった。つまり、この社会では職業が次第に信仰で決まるようになっていたのであり、もし三つの信仰のうち二つの信者を追放すれば、スぺイン社会が大打撃を受けるのは確実だった。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P47-48
しかし時代を経るごとにその溝は大きくなっていきます。共存はできても、いつその微妙なバランスが崩れるかわからない。そんな状況にスペインはなっていくのでした。
スペインキリスト教社会の尚武的な性格とレコンキスタ
スぺインでは、レコンキスタ以後も続いたキリスト教徒社会の尚武的な性格が、非常に短気な国民性を形作った。あるイタリア人旅行家は、次のように書いている。「彼らは誇りが高く、どの民族も自分たちには及ばないと考えている。(中略)外国人を好まず、たいへん無愛想に接する。すぐに武器を振るいたがり、その傾向は他のどのキリスト教国よりも強い。武器の扱いにもきわめて長けていて、軽々と巧みに操るし、腕の動きもたいへん素早い。名誉を非常に重んじ、名誉を汚すくらいなら死をも厭わない」。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P48
レコンキスタ(国土回復運動)とは、711年に北アフリカから侵入したイスラム教徒に奪われた土地を取り返す戦いのことを指します。もちろん、キリスト教側からすれば自分達の土地を奪い返す戦いですが、数百年単位という長きにわたってそこに住み着いていたイスラム教徒からすれば侵略戦争以外の何物でもありません。レコンキスタについては以前世界一周記の記事の中でお話ししましたので興味のある方は以下をご覧ください。
戦争を生業とし、そこで武勲を挙げることこそ名誉とする荒々しい男たちが大量に生まれてきます。こうした攻撃的な男たちの暴力をいかに制御するか、それが為政者たちの悩みの種になってきます。
こうした状況は中世のスペインだけではなくヨーロッパ全体で抱えていた問題でした。
実は騎士道といわれるものが生まれてくるのもそうした背景によるものが大きいと言われています。
武人階級が多くなりすぎ、彼らの攻撃性、粗暴さが目立つようになってきた時に、彼らの道徳観、倫理観を適切なものにしなければならないという問題があったのです。
そこでキリスト教的倫理と武人のあり方を融合させ、騎士道というひとつの倫理体系、理想の武人像を作り上げ、武人の攻撃性を制御しようとしたのです。
その「騎士道もの」の代表作といえばやはりセルバンテスの『ドン・キホーテ』です。
とはいえ『ドン・キホーテ』はこの騎士道を散々にパロディ化することを目的とした小説なので純粋な「騎士道もの」とは言えませんがこの作品を読めばその雰囲気を知ることができます。以前当ブログでもあらすじを紹介しましたのでぜひこちらもご覧ください。
攻撃性が戦いを求め、スペインは内乱状態へ
こうした国民性は、何かと問題を招きやすい。しかもスぺインでは、レコンキスタで軍人階級が勝利を収めたことで、攻撃的傾向がいっそう強まっていた。そのため、グラナダを除く国土すべてがキリスト教徒の勢力圏に入った後、一五世紀には次々と内乱が起きた。
セビーリャは、対立していたメディナ・シドニア公爵とカディス侯爵の両陣営によって一四七一年に略奪されたし、アンダルシアでは派閥争いが過熱して四年に及ぶ内乱に発展していた。
状況は深刻で、年代記作者ぺルナルデスが「エンリケ〔四世〕王の当時のご苦労については書くことができない」と記すほどだった。町は次々に破壊され、王室の財産は盗まれ、王の地代収入はかつてないほど落ち込んだ。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P48
※一部改行しました
レコンキスタ時代はイスラム教徒という敵がいて、彼らにその攻撃性を向ければよかったわけです。
しかしその戦いが終結し、敵がいなくなってしまった彼らはその攻撃性を持て余し出すようになります。
外敵がいなくなればその攻撃性はどこに向かうのか。
それは国の内部でした。
危険な攻撃性をどこに向けるか。スケープゴートが生まれる背景
スぺインを存続させるためには、この攻撃性を外なる敵に向ける以外になかった。破滅的なエネルギーを使い尽くすための標的が必要だったのだ。一般に人間社会では、両属的な集団は危険視されることが多く、緊張の高まっている時代には暴力のはけ口になりやすい。コンべルソは、まさにこうした集団だった。今でこそキリスト教徒という分類に属しているが、少し前まではユダヤ教徒という分類に属していたからだ。そして彼らは、いともたやすく中傷の対象となり、やがては抹殺されるのである。
中央公論新社、トビー・グリーン、小林朋則訳『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』P49
このままではスペインは内戦で滅びてしまう。
彼らの攻撃性を何とかしなければ国は危険な状態になる。
そこで為政者は考えます。
「敵がいないなら、敵を作ってしまえばいい」
そうして生み出されたのが「異端者」という存在でした。
そしてその対象として選ばれたのがコンベルソ(改宗ユダヤ教徒)やモリスコ(改宗イスラム教徒)の人々だったのです。
彼らは武人たちの攻撃性の餌食になるスケープゴートとして利用されることになってしまったのです。
続く
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