ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される―お釈迦様のことばに聴く
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」―『真理のことば』より
一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。―影がそのからだから離れないように。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P10
いよいよこれから『真理のことば』を読んで参ります。
上に紹介したことばはまさしくこのお経のトップバッターです。このことばからお経が始まっていきます。
皆さんもこのことばを読んで感じられたことと思いますが、非常にシンプルでわかりやすいですよね。
ことばの最後に「車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」という風にたとえ話があるのもありがたいです。これがあることでより話がイメージしやすくなりますよね。お釈迦様はたとえ話の達人でこの後もこうしたたとえ話がたくさん出てきます。
『真理のことば』は読みやすく、誰でも簡単に親しめることから世界中で愛読されているお経です。こうした簡潔でわかりやすいことばが最後まで続いていくのがこのお経の特徴です。
さて、今回紹介したことばは仏教の基本的なものの見方を表したものになります。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」
私たちは私たちの外に実際に世界があると考えてしまいますが、お釈迦様はその見方に少しだけ注釈をつけるのです。
「たしかに私たちの外にものはあるかもしれませんが、それを実際に見て感じているのはあなたの心です。もしあなたの心がなければそれを見て感じることもできないのです。」とお釈迦様は述べるのです。
これは一見当たり前のようですが、よくよく考えてみるとたしかにこれは難しい問題です。
たとえばリンゴが目の前にあったとします。
私たちはそれを見て、「ここにリンゴがある」とわかるわけです。
ですがもし私が目が見えなかったり、このリンゴにまったく気づかなかったとしたらこのリンゴは私の知っている世界には存在していないのと一緒になってしまうのです。
私が今見て感じている世界は、私が知っている世界でしかない。もし私がそのリンゴに気付かなければ、たとえリンゴがそこにあったとしても、私の世界にはそのリンゴは存在しないということになるのです。
言い換えれば、私の知っている世界は私自身しか知らない世界なのです。世界中の人が私と同じ世界を見ているわけではないということなのです。
さらに言えば仮に同じリンゴを見ても、実は人それぞれリンゴの見え方が違います。目の見え方によってリンゴの細かい形や色はひとそれぞれ違って見えます。リンゴは赤くて丸いと言っても、厳密に言えばその赤みや丸みは人によって違って見えているのです。今はリンゴを例として挙げましたがこれは世界のあらゆるものに当てはまります。
こういうことから自分たちの外にある世界というのは絶対的なものではなく、世界は私たちの心が作り出したものだという考え方が生まれてきたのです。
そしてお釈迦様が仰るように「もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う」ということにもなり、「もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。」というその人の心の在り方によって人生が苦悩に満ちるか幸福になるかが決まっていくということになるのです。
以前紹介したショーペンハウアーが『人間の幸福は「外部のもの」ではなく「自身のあり方」にある』と述べていたのもここに根があるのです。
私達の外にある地位や富、名誉、パートナーが幸せをもたらすのではない。幸せを感じるかどうかは自分の心のありようにかかっている。いくら地位や富、名誉があっても心は満たされることはない。だからそこに幸せはないのだと彼は述べるのです。
自分の心によって世界が変わる。
これが仏教の基本的なものの見方です。
ではどうやってその心を磨いていくのか、どうすれば苦しみを減らすことができるのか、それをこのお経でこれから説いていくわけです。
『真理のことば』のトップバッターが「心が世界をつくる」というのは非常に意義深いものであるなと私は感じました。
以上、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される―お釈迦様のことばに聴く」でした。
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