僧侶が問うコロナ禍の日本~死と病が異常事態になった世界で
※この記事は2020年10月27日に書かれたものです。
僧侶が問うコロナ禍の日本―伊藤計劃『ハーモニー』はコロナ禍を予測していたのかーいのちがあまりに高価になりすぎた時代にどう生きる?
日々の生活の中で、ふとかつて読んだ本の内容が頭をよぎった経験があったりはしないでしょうか。
ヨーロッパではコロナが再び猛威を振るい始めたというニュースが流れ、日本もこれから冬に向かってどうなるかわからない。そんな暗い空気を感じます。
コロナはそこまでの脅威ではない。このままでは経済が破綻する。そうすればもっと多くの人が苦しむことになる。
こうした意見がある一方で、もしまたコロナがひどくなったらどうするのかという空気が強いのが現状なように感じます。
ただ、確かなことはコロナによって死ぬことよりも、コロナにかかることによって周りから攻撃されることを恐れる世の中になっているということではないでしょうか。
コロナの重症化率や致死率は一体どれほどのものなのか。そして重症化、あるいは亡くなった人はどのような人なのか、そうした情報は見過ごされ、実際に重症化し亡くなった人がいるという事実だけが独り歩きし、恐怖に煽られているように思えます。
このことについてはすでに多くの人が指摘していることですので私が新しくとやかく言うつもりもございません。
ですが、私はこうした世の中を眺めていた時、ふと伊藤計劃氏の『ハーモニー』という小説が頭の中に浮かんできたのです。
伊藤計劃さんは私の大好きな作家さんです。
本の内容に入る前に伊藤計劃さんのプロフィールを紹介します。
1974年10月生まれ。武蔵野美術大学卒。2007年『虐殺器官』で作家デビュー。同書は「べストSF2007」「ゼロ年代SFべスト」第1位に輝いた。2008年、人気ゲームのノべライズ『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』に続き、オリジナル長篇第2作となる本書を刊行。第30回日本SF大賞のほか、「べストSF2009」第1位、第40回星雲賞日本長編部門を受賞。2009年3月没。享年34。2011年、本書英訳版でフィリップ・K・ディック賞特別賞を受賞した。
早川書房 伊藤計劃『ハーモニー』より
このプロフィールを見て驚かれた方もおられるかもしれません。
伊藤計劃さんは34歳という若さで亡くなってしまったのです。
伊藤計劃さんはがんの闘病をしながらデビュー作の『虐殺器官』を書き上げ、このハーモニーも末期がんに近い状況で書き上げたものだったのです。伊藤計劃さんがプロの作家として活躍できたのはわずか2年ほどだったのです。
闘病生活を送りながらこれほどの作品を書き上げたというのは驚愕以外の何物でもありません。自分の体が若くして病気に侵され、死が目前にある。そうした伊藤計劃さんの実体験と切り離すことができない作品がこの『ハーモニー』なのです。
いのちとは何か。病とは、死とは。
それを伊藤計劃さんはこの作品で突き詰めていきます。
伊藤計劃さん自身の境遇を思うとこの作品の持つ重みがさらに感じられます。
では、本題に入っていきましょう。
この小説のあらすじは以下の通りです。
「21世紀後半、〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する”ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択したーそれから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見るー『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。」
早川書房 伊藤計劃『ハーモニー』より
この作品では〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人間のいのちがあまりに高価になりすぎた時代を描いています。
〈大災禍〉ではあまりに人が死にすぎました。
そのため、数少ない生きている人間は貴重な資源となったのです。
そんなあまりに高価な人間を守るため世界は過保護すぎるほどに彼らを保護し養育します。そんな彼らにはもはや病気も存在せず、けがをすることすら叶わないほど高度なセーフティーネットが張られることになったのです。
しかし、あらすじにもあるようにそれは見せかけの優しさや倫理の横溢でした。
「いのちは大切です。あなたはかけがえのない存在です。」
この理念を否定できる人はなかなかいないのではないでしょうか。
しかし、だからこそこの言葉は危険でもあるのです。
私は今まさに日本で起こっていることがこの『ハーモニー』に重なるように思えてしまうのです。
「いのちは大切です」
私はそれを決して否定するつもりはありません。
しかし、本来人はいつ死ぬかや病にかかるかなどわからないものだったのではないかということを思うのです。
私は浄土真宗の僧侶です。真宗寺院の多くでは『白骨の御文(おふみ)』というものをお葬儀の時などに拝読します。
この御文には、
「この世ははかない。この世は人の命などいつ尽きるかわからぬ諸行無常の世界だ。朝に元気な姿でいようと夕べには白骨となっているかもわからぬ。だからこそ今を大切に生きよ」
というメッセージが書かれています。
仏教ではもともと「あなたはいつ死ぬかわからぬ身だ。だからこそ今を生きよ」という教えを説きます。
いつ病に伏せるか、いつ不慮の事故や不幸にあうかもわからない。だからこそ今ある命を大切にし、前を向いて歩めという教えだったのです。
ですがそれがいつしか「いのちは大切です」という言葉だけが独り歩きし、病や死が尋常ならざることとして、ありえないこととして受け止められるようになってしまいました。
本来ならば僧侶こそが「人は死ぬ。病にかかる。それでも生きよ」と前向きな言葉を伝えるべきなのではなかったのでしょうか。
ですが、世の中の圧力にどうしても身が縮んでしまう・・・それも痛いほどわかります・・・実際、私もここまで声には出せませんでした。
「人は死ぬ。病にかかる。それでも生きよ」
こう言うとたくさんの反論があるかもしれません。
「もしあなたの身内が亡くなったらどう思うのだ!?他人事だからそんなことを言えるのだ!」
「もしコロナで人がたくさん亡くなったらどうする!?責任は取れるのか?」
「いのちを軽視するなんて人として最低だ」
「病気で苦しんでいる人にそんなことお前は言えるのか?」
きっとそれこそ無数の意見があるかもしれません。
ですが改めて言わせて下さい。私はいのちを軽んじてこう言っているのではないのです。
「人は死ぬ。病にもかかる。現実を見よ。恐怖に惑わされるな。正しくありのままを見よ」
これが仏教の根本理念の一つです。
「いのちは大切ですよ」と微笑みながら囁くだけが仏教ではありません。
お釈迦様は「あなたは死ぬ。病にも苦しむ。世の中には苦しみが満ちている。しかしそれを超えて歩め」と仰られました。
お釈迦様は優しさの中にも厳しさがあるのです。
コロナという病はたしかにある。それは事実です。しかしそれに対して私たちができることは、よく言われることではありますが「正しく恐れること」だと思います。
専門家でもない私が何を言っても仕方がありませんが、何が正しくて何が悪いかをデータなどの事実に基づいて冷静に判断しなければなりません。
今、悪者探しが非常に目立つような気がします。誰かを諸悪の根源にするかのような情報が流され、私達の不安や憎悪を煽る流れが出てきているように思います。ですが情報に流され、ヒステリックに反応し他者を攻撃しても何も状況は変わらないのです。いや、むしろますます世の中は「いのちを大切にしすぎるがゆえに」生きにくい場所になっていくことでしょう。
私はそのことを心から憂えているのです。これからの日本が崩壊していくのを黙って見ているわけにはいきません。このままでは私たち同士の信頼関係も失われていってしまうことでしょう。
そんな世界に私はなってほしくない。互いに相手を悪者だと決めつけ、疑心暗鬼で監視し合うような世界になどなってほしくない。
私はそう思うのです。
今本当に見るべきことは何か。問題の本質はどこなのか。私たちは目先の不安や憎悪に流されることなく、冷静にこの事態を見ていかなければなりません。
伊藤計劃氏の『ハーモニー』はそんな今の日本に警鐘を鳴らしてくれている作品だと私は思います。こういう時代だからこそ文学の力、言葉の力は私達に大きなものの見方を与えてくれるのではないかと私は信じています。
2020年10月27日 真宗木辺派錦識寺 上田隆弘
「人々の不安や怒り、恐怖を煽り誘導することの怖さ」について ※2021年7月15日追記
「人々の不安や怒りを煽り誘導することの怖さ」について、私は以前ソ連の歴史を参考に以下の記事を書きました。
現代日本がそのままかつてのソ連と同じだと言うつもりはありません。しかし、歴史を学ぶことでこれから先の未来を少しでも良い方向に変えられるかもしれません。歴史から学ばなければ同じ悲劇の繰り返しです。今こそ歴史を学び私たち自身が世界について考えていかなければならないのではないでしょうか。
せっかくですのでこの記事の一部を引用します。上の記事ではより詳細にわたって説かれていますのでぜひご覧になって頂ければ嬉しく思います。
スターリンの政治的手腕のひとつとして挙げられるのがこの「敵を生み出す能力」だと著者は語ります。この能力があれば自らの失策の責任を負うこともなく、スケープゴートにすべてをなすりつけることができます。そうすることで自らの権力基盤に傷がつかないようにしていたのでした。
これはスターリンに限らず、あらゆる時代、あらゆる場所で行われうることです。
わかりやすい悪者を作り出し、そこに国民の憎悪や不安、恐怖を向けさせる。そうして問題の本質から目を反らさせようとするのです。
何か世の中で問題が起こった時に、「これは〇〇が~~する(あるいはしない)からこうなったのだ。」、「国民のほとんどはちゃんとしてるが一部の〇〇な人たちが守らないのでうまくいかない」と大々的に宣伝されている時は要注意です。悪者探しが大手を振っている時はそこに何かしらの意図があります。国民の怒りをそこに向けさせ、問題の本質を見せないようにしているのです。
特に「国民のほとんどはちゃんとしているが一部の〇〇な人たちが守らないのでうまくいかない」という言い方は特に危険です。これの何が怖いかというと、これを聞いた人は自分が善人であり、正義であり、正しい人間であるかのような印象を受けてしまいます。そのため「一部の〇〇な人」は悪人であり罰を受けるのは当たり前で攻撃しても構わないという空気が生まれます。「自分は正しい。自分こそ正義だ」と思い込んだ時に人間の攻撃性は高まります。
まして権力者のお墨付きがある時はなおさらそれは強まります。「あの人がそう言ってたし、私はそうしろと言われただけです」と責任回避ができるからです。
こうして人々の不満や憎悪、恐怖の矛先が「作り上げられた悪人たち」へと向かって行きます。悪人たちのせいでこんなひどいことになったという空気が完全に出来上がってしまうのです。
ですが本当に彼らのせいで問題が起こったのでしょうか?本当はもっと問うべき問題があったのではないでしょうか。世の中のシステムやそもそもの前提がおかしかったということはありえないのでしょうか。また、単に悪者探しで終わらせるのではなく、真に改善すべきは何なのかという議論はできないのでしょうか。
スターリンやナチス時代の教訓を忘れてはならないと私は思います。かつて世界はこうして架空の悪人や敵を生み出し、権力者に都合のいい世界を作り上げたのです。
もう一度繰り返します。「悪者探し」には気を付けましょう。誰かの言葉に流され感情的に誰かを攻撃しても世の中は変わりません。むしろ悪化していくことになるでしょう。
悪者探しの危険性ースケープゴートを利用し人々の不満を反らすスターリン『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』を読む⑷より
コロナの本当の恐ろしさはどこにある? ※2022年3月14日追記
2021年8月に以下の記事で紹介した内容をここに追記します。まだまだ終息の見えないコロナ禍において、少しずつコロナに対する世の中の見方が変わり始めている気もします。以下は吉田謙一著『法医学者の使命「人の死を生かす」ために』を読んでの私の所感です。
私は僧侶です。ですので月に何度もご遺体と対面することになります。そして様々な形で命を終えられた方をお見送りすることになります。
私たち僧侶は多くの方より死と向き合うことが多い仕事です。これは医療関係者、警察・消防関係者、葬儀関係者の方もそうだと思います。ですが日本のほとんどの方にとってご遺体と相対することはめったにないのではないでしょうか。もしかするともう何年もそういう場面がないという方も多いかもしれません。
そして最近、コロナ禍によって自宅での急死のニュースが広がった影響で、突然死のリスクが急に目に見えるようになってきました。
しかし、私の実感ではコロナ禍の前からずっと、人は突然亡くなることがあり、予想もしていなかったお別れということが多々あったのです。
ですが、現代は死が日常から遠ざけられている時代です。しかも最近は葬儀も縮小化し、他者の死と関わる機会すらなくなってきています。それに、そもそもかつてより勤め先との関係も希薄化し、さらには高齢化も進み社会の様子はまったく変わってきています。
そうした中でメディアでコロナによる突然死が取り上げられるようになりました。普段「死」というものをまったく遠いものだと感じていた方にとってはそれはショックも大きいと思います。
ですが、突然亡くなったり、若くして亡くなってしまう方はこれまでもたくさんいたのです。その方達のことを全く考慮せず、今突然そうした死が増えているという報道の仕方には私は疑問を持ってしまいます。私たちはかつても今も、死と身近に生きていたはずなのです。
私がこの本を見て惹き付けられたのは、そんな私の思いがあったからこそなのだと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、この本の中身を見ていきましょう。
正直、私はこの本のはじまりから衝撃を受けてしまいました。きっと皆さんも驚くと思います。
二〇二〇年六月、米国で白人警察官が、一人の黒人男性を拘束するため、頸部を一〇分近く踏みつけている動画が世界に配信され、世界的な人権擁護運動と警察批判に火をつけた。死因は、誰もが頸部圧迫による窒息死と思ったであろうが、注意を要する。米国の警察官は、ネックホールドという柔道の締め技のような逮捕術をよく使う。V字型の腕で、気管を圧迫せずに、左右頚動脈を圧迫することで、脳血流を一時的に遮断し、失神する(落ちる)と圧迫を緩め、窒息を避けるので安全と考えられている。しかし、薬物等の影響下、興奮し暴れている人に使うと急死する事例が少なくなく、身体拘束による突然死(拘束関連突然死)として知られている。したがって、頸を絞めている時に急死したからといって死因は窒息死とは限らない。また、身体拘束と同様、暴行、事故、過労、医療等の〝行為〟が〝心理ストレス〟を生じ、これが急性心筋梗塞等による突然死の〝誘因〟となることがある。
しかし、頸部圧迫による窒息死の死体所見は、急死全般の死体所見と、専門家でも区別できないことがあるため、法医鑑定や刑事裁判において、しばしば、窒息死と突然死が混同されている。このように、科学的根拠から正しい法的判断を導くためには、様々な疾患や病態が、どのようなストレスにより、どのように突然死を惹起(ひき起こす)するか、どのような法的問題を生じるか、について理解する必要がある。その理解を助けるのが、本書の第一の趣旨である。
岩波書店、吉田謙一『法医学者の使命 「人の命を生かす」ために』 Pⅰ-ⅱ
昨年のあのニュースは多くの方の目に焼き付いていると思います。私もあの事件がまさしく窒息による死であると思っていました。
しかし実際には本当に窒息死であるかは厳密な検死が必要であり、パッと見てわかるようなものではないというのです。
これには驚きでした。心理ストレスによって突然死が誘発されるというのには度肝を抜かれたと言ってもいいです。
この本では実際の事例をもとに法医学者の吉田氏がこうした突然死と死因の問題をわかりやすく解説してくれます。読めばきっと驚くと思います。私たちの「常識」が覆されるかもしれません。
この本には皆さんに紹介したい箇所がそれこそ山ほどあるのですが、この記事ではその中の一つを紹介したいと思います。これはコロナという未曽有の国難に苦しむ私たちにとって非常に重要なお話だと思います。少し長くなりますがじっくり見ていきましょう。
ストレスで人は死ぬか?
震災やテロ事件の後、ストレスが原因とみられる心筋梗塞を含む虚血性心疾患等による心臓突然死や心イべントが増加するということが繰り返し報告されてきた。心イべントとは、心疾患によって患者が倒れるが、自然に、あるいは、治療により回復することを指す。例えば、東日本大震災後四週間の急性心筋梗塞リスクは、前年同時期の約二倍であり、心イべントは震災後最初の一週間に増加のピークがあり、その後、平常に戻った(図)。
二〇〇一年九月一一日の世界貿易センタービルのテロ事件後の三〇日間において、ニューヨークから遠いフロリダにおいて、埋め込み式除細動器が作動した心室細動・頻脈の発生頻度は、事件前の三〇日間の発生頻度三・八%のニ・八倍((一一%)にまで増加した。これらニつの研究は、震災及び、テロによる心理ストレスが、心筋梗塞や致死性不整脈による心臓突然死を増加させること、そして、東日本大震災直後、〝震災関連死〟がなぜ増加したかを示している。
一般に、心臓突然死の誘因となる心理ストレスは、肉親の死亡、夫婦間のトラブル、介護ストレス、ハラスメント、そして、労働に関連する不満(努力・報酬の解離等)等の慢性ストレスである。いっぽう、法医解剖の対象事例では、暴行、事故、医療行為、異常な出来事等による急性の心理ストレスが虚血性心疾患等、心血管系疾患による突然死を誘発したと判断される事例が多い。ストレスが突然死を誘発するメカニズムを理解することが、そのようなケースで死因を決定し、法的判断を行う上で鍵を握る。このような知識は、法医、法律家、警察官の実務に活かせるばかりでなく、一般の人が、身の回りの人に突然死が起きたときの理解、納得にも役立つと考えられる。
岩波書店、吉田謙一『法医学者の使命 「人の命を生かす」ために』 P 31-33
そして著者はこの後、実際にストレスで人は死ぬのかという事例を紹介します。これも見ていきましょう。
心理ストレスで突然死が起こる
警察は、明らかに犯罪と関係ない死体の解剖は、あまり行わない。一九九五年、中年の兄弟が続けて亡くなった事例の司法解剖を依頼された。「心理ストレスでヒトが突然死するのだろうか?」という疑問に答えてくれるこの事例に出合えたのは、検視官の突然死研究者である私に対する気遣いの賜物かもしれない。
ケース9・10(兄弟連続突然死) 酷寒の夜、土木作業から帰り、炬燵で休んでいた中年男性(弟)が卒倒した。近くに住む兄(船員)が駆けつけ、馬乗りになって胸骨圧迫(心マッサージ)や人工呼吸をしていたところ、約一五分後に弟の上に覆い被さるように倒れた。解剖の結果、弟には、冠動脈狭窄部を閉塞する血栓、心筋に凝固壊死(写真左)・白血球浸潤(いずれも、急性心筋梗塞の所見)、肺には、急性心不全を示す鬱血水腫を認めたので、急性心筋梗塞による急性心不全と診断した。兄には、冠動脈の硬化や血栓はなく、心筋収縮帯(写真右)・波状走行を認めたが、心肥大あるいは冠動脈硬化・血栓は認めなかった。心筋収縮帯は、交感神経系刺激による心筋過収縮を反映し、波状走行は、過収縮の周辺における心筋の過伸展(伸び過ぎ)を示す。心筋収縮帯と波状走行は心臓突然死の一つの根拠と考えられていた(後述)。ニつのケースは外因死の可能性が除外された内因性の急死であり、ケース9(兄)は、典型的な、心理ストレスによる心臓突然死、ケース10(弟)は急性心筋梗塞と診断し、循環器に関する英文雑誌に症例報告として掲載された。現在なら、兄は、不整脈疾患の可能性について遺伝子診断をしなければ、論文採用されないだろう。
肉親が死亡することは、心理ストレスの中でも最強のストレスといわれる。兄は、弟を死の淵から救おうとして、最強の心理ストレスを伴う強い身体的ストレスにも暴露された。私は、高齢の夫が首を吊っている真下で倒れていた妻の解剖を行ったところ、冠動脈硬化、心筋線維化を認め、外因死の可能性を否定でき、虚血性心疾患と診断した経験もある。
岩波書店、吉田謙一『法医学者の使命 「人の命を生かす」ために』 P 34-35
私はこの箇所を読んでハッとしました。
私はこれまで、古典の悲劇や物語を読んでいて、どうしても不思議に思っていたことがありました。
それは登場人物が怒り、あるいは悲しみのあまりすぐに死んでしまうというシーンが多々あるという点でした。いわゆる憤死とか悲嘆死とでも言えるものでしょうか。
「いやいや、そんなに簡単に人は死なないでしょ。そんな怒ったり悲しんだりですぐに死んでしまったらそれこそ大変だ」と思っていたのですが、実際に人は心理的ストレスで急速に死にうるということが明らかになったのでした。
なるほど、古典の世界で起きていたあの感情的な死は本当にありうるのだなと仰天してしまいました。
さて、文学の話に逸れてしまいましたが、ここで語られることはコロナ禍において非常に重要な示唆を与えてくれると思います。
今、「コロナによる死」と言われているものも、本当にコロナで亡くなったかどうかは検死して入念に調べないと本来はわからないものです。もちろん死の前、あるいは死後にPCR検査で陽性だったからこそ「コロナ死」とされるのですが、厳密に言えば死の原因というのは極めて複雑でわかりにくいものなはずです。それを世界的に「PCRで陽性=コロナ死」でくくり死者数を積み上げていくのは、死の本質を見失うことになるのではないかと私は思ってしまいました。
また、人はストレスで体調が悪化し、死に直結するという事実。
人間の体調、生死においてストレスの影響を過小評価している世の風潮も気になります。
コロナにかかると、それこそ罪人であるかのように自分を責めてしまう。これは特に匿名性の少ない地方では顕著なものがありました。もし外出した先でコロナにでも罹ったらそれこそ罪人扱いされてもおかしくありません。(そして実際に罪人扱いされています)
もしコロナにかかったら生活が崩壊してしまう・・・そんな恐怖が常にあります。
コロナによる死よりも社会的な死を恐れてしまう。周りに迷惑をかけてしまうことへの恐怖。
こうしたストレスは計り知れないと思います。
しかも病院やホテル、自宅などで待機するにも、行動制限がかかり一歩たりとも出られない。何もすることがない。食事も満足に取れない。そんな中で時間があればどんどん考え込み、塞ぎ込んでしまうのは当然です。運動不足にもなりますから身体的にも負荷がかかることになります。身体が調子悪くなればメンタルもさらに落ち込んでいきます。そしてどんどん鬱的に落ち込み、自分がまるで罪人であるかのように考えてしまったり、今後の生活に絶望してしまうかもしれない。さらに言えば、いつ急激に悪化するかもしれないという死の恐怖を味わうことになります。こうなった場合の心理的ストレスはいかほどのものでしょうか。
仮に死に至るほどではなくとも、うつのような症状になってもおかしくありません。うつの身体的な辛さはすさまじいものです。コロナの後遺症としてリストアップされるもののほとんどに当てはまるのではないでしょうか。
もちろん、私はコロナの後遺症を軽んじているわけではありません。しかし、正しく恐れる必要はあると思います。
私はコロナにかかることが罪であるかのような社会風潮の中で隔離される心理的負担は計り知れないものがあると考えるのです。そしてそうした風潮を作っているのは私たち自身だということです。皆さんはどう感じますか?
私たちにとって死の恐怖は根源的なものです。
しかし、だからといって誰かに言われたことを鵜呑みにし、恐怖を煽られ冷静さを失ってしまったらそれこそ危険です。そして誰かを責め、感情的になり、本当に考えなければならないことを見逃してしまう。さらにはそうしたことを議論する場さえ失われてしまう。
今の日本はまさしくそうした状況なのではないかと私は感じています。
この本では直接コロナについての言及はほとんどありませんのでこのことに関してはあくまで私の感想です。ですが、私はコロナについて連想し、そのように思ってしまったのでした。
皆さんはどう感じますか?
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