伊藤計劃『ハーモニー』あらすじと感想~「命と健康が何より大事」な高度医療社会のディストピア

ディストピア・SF小説から考える現代社会

伊藤計劃『ハーモニー』あらすじと感想~「命と健康が何より大事」な高度医療社会のディストピア

今回ご紹介するのは2008年に早川書房より発行された伊藤計劃著『ハーモニー』です。

伊藤計劃さんは私の大好きな作家さんです。

本の内容に入る前にまずは伊藤計劃さんのプロフィールを紹介します。

1974年10月生まれ。武蔵野美術大学卒。2007年『虐殺器官』で作家デビュー。同書は「べストSF2007」「ゼロ年代SFべスト」第1位に輝いた。2008年、人気ゲームのノべライズ『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』に続き、オリジナル長篇第2作となる本書を刊行。第30回日本SF大賞のほか、「べストSF2009」第1位、第40回星雲賞日本長編部門を受賞。2009年3月没。享年34。2011年、本書英訳版でフィリップ・K・ディック賞特別賞を受賞した。

早川書房 伊藤計劃『ハーモニー』より

このプロフィールを見て驚かれた方もおられるかもしれません。

伊藤計劃さんは34歳という若さで亡くなってしまったのです。

伊藤計劃さんはがんの闘病をしながらデビュー作の『虐殺器官』を書き上げ、この作品も末期がんに近い状況で書き上げたものだったのです。伊藤計劃さんがプロの作家として活躍できたのはわずか2年ほどだったのです。

闘病生活を送りながらこれほどの作品を書き上げたというのは驚愕以外の何物でもありません。自分の体が若くして病気に侵され、死が目前にある。そうした伊藤計劃さんの実体験と切り離すことができない作品がこの『ハーモニー』なのです。

いのちとは何か。病とは、死とは。

それを伊藤計劃さんはこの作品で突き詰めていきます。

伊藤計劃さん自身の境遇を思うとこの作品の持つ重みがさらに感じられます。

では、本題に入っていきましょう。

この小説のあらすじは以下の通りです。

「21世紀後半、〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する”ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択したーそれから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見るー『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。」


早川書房 伊藤計劃『ハーモニー』より

この作品では〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人間のいのちがあまりに高価になりすぎた時代を描いています。

〈大災禍〉ではあまりに人が死にすぎました。

そのため、数少ない生きている人間は貴重な資源となったのです。

そんなあまりに高価な人間を守るため世界は過保護すぎるほどに彼らを保護し養育します。そんな彼らにはもはや病気も存在せず、けがをすることすら叶わないほど高度なセーフティーネットが張られることになったのです。

しかし、あらすじにもあるようにそれは見せかけの優しさや倫理の横溢でした。

「いのちは大切です。あなたはかけがえのない存在です。」

この理念を否定できる人はなかなかいないのではないでしょうか。

しかし、だからこそこの言葉は危険でもあるのです。この言葉を掲げることであらゆることが正当化され、個人の自由はどんどん奪われていくことになるのです。

より詳しい解説を見ていきましょう。

『ハーモニー』の舞台は、一言でいうならば「誰も病気にならない世界」である。ひとびとはある年齢になると自分の体にWatchMeというソフトウェアを入れ、体内の恒常性を常時監視する。WatchMeはメディケア=個人用医療薬精製システムと繋がっており、異常に対して万全の予防を自動的に行なう。誰も病むことのない世界、それはまた争いの(起こら)ない世界でもある。対立や紛争の温床となる国家=ネーション、その個々の「政府」の代わりに、この時代には世界は「生府」によって統治されている。「生府」が唯一最大の是とするのは「生命主義(生命至上主義)」、すなわち社会の成員全員が、自分の/他人の健康を最大限に尊重することである。「生府」はWatchMeとメディケアによって、この地球に一種のユートピアを実現しつつある……。

早川書房、伊藤計劃『ハーモニー〔新版〕』P391

ハーモニーの世界では、ある年齢になるとソフトウェアを埋め込まれ、その機械が身体内部の健康管理を徹底的に行います。

そしてこの解説で重要なのは 『「生府」が唯一最大の是とするのは「生命主義(生命至上主義)」、すなわち社会の成員全員が、自分の/他人の健康を最大限に尊重することである 』と語られている点です。

つまり、機械を埋め込むことで健康管理をするだけではなく、そこに生きる人々が自発的に自分だけでなく他者の健康も管理していこうとするところに恐ろしさがあります。

その恐ろしさ、不気味さを感じられる箇所をここで紹介したいと思います。私はこの箇所がこの作品で最も印象に残っています。文に〈recollection〉〈antipathy〉など不思議な文字が出てきますがこれは本文をそのまま引用したものです。これらの意味は作品中で語られますが、ここでは特に気にしなくても大丈夫です。少し長くなりますがじっくり見ていきましょう。私はこの箇所を読んで吐き気がするくらい不気味な気持ちになりました。これはまさに現代を表しているとしか思えません。

〈recollection〉
 この世界にはわたしの居場所がない。
 そう思いはじめたのは、たぶん生府の倫理セッションを見学したとき。わたしはまだ中学生で、父と母が参加するそれに付き添った。拡現上で行われるそのセッションでの題材は、広告の品格についてのとんでもなく微妙で定義しがたくどうでもいい討議を前菜にして、どうつながっていたのかいまとなっては思い出せないけれど、カフェインを摂取することの道義的な問題についてという話に移っていった。わたしはお茶はお茶だと思っていた。
 わたしはお茶はお茶だと思っていた。
 紅茶は紅茶でコーヒーはコーヒーだと思ってた。
 しかしそれは酒がすべてアルコールを含んでいるように、今となっては当然のこととしてカフェインを含んでいるのだった。
〈antipathy〉
 いまでも覚えている。声の大きくて、セッションの空気を握っていた女性だった。名前は覚えていない。某婦人はおずおずと控えめに発言を求めた。とはいえ、内容はといえば控えめさからはほど遠い押しつけがましさではあったけれど。
 「あの……カフェインの摂取は道義的に間違ってはいないでしょうか」
 某婦人によれば、カフェインは根本的に、
〈list:item〉
 〈i:覚醒剤であり〉
 〈i:興奮剤であり〉
 〈i:胃を悪くし〉
 〈i:健康に害をなす物質〉
〈/list〉
 だと断言した。
 カフェインは根本的に中毒物質です、と某婦人が言う。
 あくまで控えめに。
 控えめに断言する。
 長期摂取による悪影響には、猥褻ささえ感じませんでしょうか。
〈/antipathy〉
 職務上必要な場合もある、と言ったのは科学者であるわたしの父だった。だから父が某婦人に叩きのめされるところを目の当たりにすることになった。わたしには父が正しくて常識的で穏やかなことを言っているように思えた。
 けれど、セッションでの某婦人の発言は、思いやりを第一義とする生府合意員らしく礼を失しない、とても控えめでいて、どこまでも極端で、それゆえ人が惹きつけられやすく、何より決めつけに満ちあふれていた。
 決めつけに次ぐ決めつけ。
 みんなは、生府のみんなは決めつけてくれる人間が好きなんだよ。何かを決めてくれる、決断してくれる人間のまわりには「空気」が生まれる。科学者はそれが苦手なんだ。だって、正しいことっていうのはいつだって凡庸で、曖昧で、繰り返し検証に耐えうる、つまらないことなんだから。セッションが終わったあと、父はそう言った。
 父はある職務においてはカフェインが必要な場合もある、と言った。そしてカフェインによって軽減されるストレスがあるとも訴えた。
〈antipathy〉
 「霧慧さんがおっしゃっているのは」と某婦人は最後近くにこういったものだ。「タバコやアルコールという悪癖がその末期になっても頑固に擁護されたのと同じ理屈と捉えられかねませんよ」
〈list:item〉
 〈i:某婦人はカフェインがパニック障害を引き起こすことを指摘した〉
 〈i:某婦人はカフェインが睡眠障害を引き起こすことも指摘した〉
 〈i:某婦人はカフェインが痙攣を引き起こすことまでも指摘した〉
 〈i:某婦人はカフェインが頭痛や健忘などの症状のトリガーになると指摘した〉
 〈i:ストレスの問題はセラピストやカウンセラーの問題であるとも指摘した〉
〈/list〉
〈/antipathy〉
 父は「適度に」ということばを最後までロにできずに佇んでいた。総合的には、カフェインは明確に禁止されはしないものの、忌避されるべき猥褻な害毒であるとの空気がセッションを支配した。
〈antipathy〉
 わたしはこのセッションのあいだじゅう、ずっと吐き気に耐えていた。
 具体的な吐き気じゃなくて、精神的な嘔吐感だ。某婦人というひとはどう見ても危ない人にしか思えなかったし、みんなが某婦人のロから吐き出されるいがいがした言葉のひとつひとつにうんうんとうなずくのが不思議でならなかった。
 「あくまで希望ですけれど、いずれ将来的には」と某婦人は締めくくった。「カフェインは廃止されるべきじゃないでしょうか」
〈/antipathy〉
〈regret〉
わたしはセッションを見てみたいと両親に頼んだことを後悔した。
一度、わたしのぜんぜん知らない料理らしきものが延々と映し出されているメディアチャンネルを見かけたことがある。あれは何、と父に訊くと、ああ、あれは二分間憎悪、って言うんだ、と父は答えた。ああいう、脂肪過多、コレステロール過剰、塩分過多―健康に良くない、リソース意識に欠けた食事を摂っていた最後の世代が、ああいう画面を見つめながら、俺はあれを食べてはいけない、あれをロにするのは社会的存在として最低だ、リソース意識の欠如だ、公共的身体の損耗だって自己暗示をかけるんだよ。
 十年ほど昔にはそんな番組がメディアチャンネルにあったのだ。そうした料理二分間憎悪にはじまる、健康を害するすべての食物を憎む極限が、その日催されたカフェインに対する憎悪を皆で共有しようという呼びかけなのだ。
 あれほど誇らしかった父が、WatchMeを生み出し世界を変えたはずの父が、こんなに惨めな姿を晒すところを見たくはなかった。これが生府なら、これが世界なら、これがすべてを覆い尽くしているのなら、こんなところにはいたくないと切実に思った。


早川書房、伊藤計劃『ハーモニー〔新版〕』P206-211

いかがでしょうか。私も主人公と同じようには吐き気しかしない感情に襲われました。ですが、恐ろしいことにこれが小説の世界を超えてあまりにリアルすぎることは、きっと皆さんにも伝わったのではないかと思います。

最後にでてきた「二分間憎悪」はオーウェルの『一九八四年』から来ています。この「二分間憎悪」は私たちにとっては一見荒唐無稽な行動に思えてしまいますが、現実に私たちも似たようなことを日々しています。テレビやネットで流れるニュース。これを一歩引いて見てみると、まさに二分間憎悪に他ならないでしょう。ニュースにはいつも悪者が流れています。「この〇〇が~~をした」と、いかにも憎悪や不安、恐怖を煽る音楽とともに繰り返し放送されます。

〇〇の部分は特定の個人にとどまるものではありません。ある時は国だったり、会社だったり、団体、文化、思想などその時その時のコンテンツは多岐にわたります。

コロナ禍の今、「たくさんの悪者」を私たちは目にしましたよね。最初期に悪者にされたのはパチンコ屋や夜の店でしたよね。さて、今ではどうなっているでしょうか。次々に悪者が量産され続けています。

そう考えてみると、ここで語られる「某夫人」がそこかしこにいる気がしてきませんか?

そしてそれによって作られていく「空気」を感じませんか?

「セッションでの某婦人の発言は、思いやりを第一義とする生府合意員らしく礼を失しない、とても控えめでいて、どこまでも極端で、それゆえ人が惹きつけられやすく、何より決めつけに満ちあふれていた。
 決めつけに次ぐ決めつけ。
 みんなは、生府のみんなは決めつけてくれる人間が好きなんだよ。何かを決めてくれる、決断してくれる人間のまわりには「空気」が生まれる。科学者はそれが苦手なんだ。だって、正しいことっていうのはいつだって凡庸で、曖昧で、繰り返し検証に耐えうる、つまらないことなんだから。セッションが終わったあと、父はそう言った。」

この言葉に尽きます。

この作品は2008年に書かれたものです。その当時からすでに伊藤計劃さんはこうした社会の到来を予測していたのでしょうか。伊藤計劃さんの想像力には驚くしかありません。

私は2020年の7月にこの『ハーモニー』を題材に「僧侶が問うコロナ禍の日本~死と病が異常事態になった世界で~伊藤計劃『ハーモニー』に思う」という記事を書きました。

こちらの記事では僧侶の立場からコロナと私たちの死生観について考えていきました。

仏教ではコロナ禍をどう見るだろうか、それをこの記事でお話ししていきます。もちろんこれは私の私見ですので特定の宗派や仏教そのものの総意ではありません。ですが僧侶として一言言わずにはいられないという気持ちからこの記事を書かせて頂きました。ぜひこちらも見て頂けましたら幸いです。

伊藤計劃さんの『ハーモニー』は今だからこそ読みたい凄まじい作品です。

ぜひぜひおすすめしたい作品です。

以上、「伊藤計劃『ハーモニー』あらすじと感想~「命と健康が何より大事」な高度医療社会のディストピア」でした。

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