トルストイ『セヴァストーポリ物語』あらすじと感想~クリミア戦争の最激戦地で戦ったトルストイの戦場ルポ
トルストイはあのクリミア戦争に従軍しています。そしてそこでの体験をルポ的に書いたもの、そしてそこからフィクションと結びつけて小説化したものが今作『セヴァストーポリ物語』になります。
天才的な芸術家トルストイによって描かれる戦争の実態はすさまじいものがあります。戦場ルポの先駆けという側面もあったこの作品が発表後すぐに大絶賛されたのもわかる気がしました
トルストイはあのクリミア戦争に従軍しています。そしてそこでの体験をルポ的に書いたもの、そしてそこからフィクションと結びつけて小説化したものが今作『セヴァストーポリ物語』になります。
天才的な芸術家トルストイによって描かれる戦争の実態はすさまじいものがあります。戦場ルポの先駆けという側面もあったこの作品が発表後すぐに大絶賛されたのもわかる気がしました
プルードンはフランスで活躍した社会主義思想家です。ロシアの革命家バクーニンや、ゲルツェンなどともつながりがあった人物として知られています。
マルクス・エンゲルスも当初は彼の思想に感銘を受けていたのですが、例のごとく、彼らは仲違いし批判し合うことになります。
そしてマルクスが出版したのが『哲学の貧困』というプルードン批判の書だったのでした。
マルクス・エンゲルスは武力革命も辞さなかったというイメージがありますが、1845年から48年段階では労働者がいきなり武力革命を起こすというやり方は認めていませんでした。
マルクス思想の参考書で「マルクスは武力革命に反対だった」という解説がなされるのは、ここに依拠しているのでしょうか。たしかにブルジョワ社会が成熟するまでは労働者による武力革命に反対していたかもしれませんが、彼らが生涯にわたってずっと武力革命に反対していたかは別問題です。この件も今後注意して伝記を読んでいかなければなりません
『吹雪』はあのツルゲーネフにも大絶賛された作品でした。ツルゲーネフはトルストイより10歳年上で、この時にはすでにツルゲーネフはロシア文壇のトップに君臨していました。
そのツルゲーネフからここまで絶賛されるというのはやはりトルストイは只者ではありません。作家デビューから数年でここまでの表現力を発揮する彼の天才ぶりには驚くしかありません。
この記事ではマルクス・エンゲルスが共同で執筆した『ドイツ・イデオロギー』についてお話ししていきます。
上部構造、下部構造というよく聞く言葉もここから出ています。
そしてこの作品においてマルクス・エンゲルスは革命は歴史を変えるためには必要であると結論したのでした
また、マルクス・エンゲルスの思想を考える上で非常に重要なポイントが出てきます
1845年段階でマルクスとエンゲルスが構想した共産主義世界のユートピアがここで語られるのでありました
「ブルジョワの一語が罵り言葉にされ、彼らはそれをうんざりするほど繰り返すが、自分たち自身、頭のてっペんからつま先までブルジョワが染みついている」
このバクーニンの言葉ほどマルクス・エンゲルスの生活ぶりを的確に表したものはないのではないでしょうか。
これから先も彼らの生涯を見ていくことになりますが、実際にこの後も彼らはブルジョワ的な生活を決して捨てません。
こうした矛盾があるというのも、マルクス・エンゲルスを考える上では重要な点ではないかと思います。
今作『森林伐採』ではロシア軍に従軍したトルストイが、兵士たちの姿を通して「ロシア民衆とは何か」という問いを探究していく作品になります。
トルストイのカフカース体験が彼の思想形成に多大な影響を与えていたことがこの小説からうかがえます。
ページ数にして30ページほどというコンパクトな作品の中に情景描写の妙、深い人間洞察というトルストイらしさが詰まった逸品です。
地元バルメンでひとり大人しくしていれば大事にはならなかったでしょうが、エンゲルスはそのような男ではありません。彼は共産主義を広めるための講演会を開きました。
当然当局からも目をつけられ、エンゲルスは政治犯・要注意人物となってしまいます。
こうなってしまうとバルメンの名士として生きてきたエンゲルスの父ももう我慢なりません。
父の逆鱗に触れたエンゲルスはお小遣いを減らされる憂き目に遭ってしまったのでした。
マルクスとエンゲルスはかつての仲間であったビール知識人たちと完全に袂を分かつことになりました。
そしてふたりの記念すべき初めての共同作業となる『聖家族』を発表します。
この記事ではそんな『聖家族』執筆のエピソードと、マルクスの驚くべき遅筆に早くも苦しめられるエンゲルスの姿を紹介していきます。
この作品は1852年にカフカースに向けて出発し、従軍経験をした若きトルストイによる実体験をもとにした小説になります。
トルストイはこの時のカフカース体験に大きな影響を受けていて、彼は晩年になると戦争反対、非暴力を強く主張します。
それはこの時に感じた戦争への疑問が残り続けていたからかもしれません。