(6)ねじけた人間を冷静に観察するドストエフスキーに痺れる!

「カラマーゾフを読む」(6)ねじけた人間を冷静に観察するドストエフスキーに痺れる!
第一編 ある家族の歴史 四 三男アリョーシャ
この章は極めて重要です。言うまでもなく、本作の主人公アリョーシャの性格や来歴について語られるからです。
まず、冒頭の次の箇所からして注目に値します。
何よりも先にはっきり言っておかねばならないが、このアリョーシャ(訳注 アレクセイの愛称)という青年はまるきり狂信者ではなかったし、少なくとも神秘主義者でさえなかった。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P40
アリョーシャは「狂信者でもなく、神秘主義者でもない」のです。ここから先、尊敬するゾシマ長老との深いつながりが語られていきますが、それは狂信によるものでも、神秘主義的な傾向からのものではありません。アリョーシャは現実主義者としてゾシマ長老の存在や教えに深く感銘を受けているのです。これはアリョーシャという人間を知る上で極めて重要なポイントです。
単なる神秘主義者であったらどこにでもいるのです。狂信者も世の中に溢れています。しかしアリョーシャは現実主義者でありながらゾシマという奇跡的な人間を信じているのです。ここにアリョーシャの独自性があり、ドストエフスキーの考える宗教的理想が込められています。
ドストエフスキーが理想とするのは現実を無視した奇跡信仰ではないのです。
そしてあの怪物フョードルがアリョーシャに対して抱いている感情が記された次の箇所も目を引きます。
もっとも、一杯機嫌の感傷で、酔いの涙を流しながらではあったけれど、しかし心底から深い愛情を息子にいだいたらしく、彼のような人間がこれほど人を愛したことは、もちろん、これまでに一度もないことであった……。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P43
実はここにもドストエフスキーの匠の技が光っています。つまり、ドストエフスキーは他者との関係性からアリョーシャの人柄を掘り下げているのです。「あのフョードルですらこんなになってしまうアリョーシャ」というわけです。これを単にアリョーシャひとりの性格を書き並べてもその特異さは際立ちません。あのとんでもない卑劣漢フョードルとの関係性を示すことでアリョーシャの異質さが伝わるのです。さりげないことではありますが、いぶし銀の技が光ります。
また、次の箇所も重要です。
これまた彼の、それも非常に特徴的な一面なのだが、彼は自分がだれの金で暮らしているのか、一度として心をくばったことがなかった。(中略)
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P47
しかし、アリョーシャの性格のこんな奇妙な一面を、あまりきびしく難ずるわけにはゆかぬような気がする。というのも、彼の人柄をほんの少しでも知った人はすべて、この点に関して疑念が起っても、アリョーシャはきっと神がかり行者(訳注 狂人にひとしい苦行僧で、予言の才があると信じられていた)に類した青年なのだろう、たとえだしぬけに一財産もらったとしても、頼まれさえすればくれてしまうか、慈善事業にでも寄付するか、でなければおそらく、相手が単なる老獪なペテン師であっても、頼まれたら与えてしまうにちがいない、と確信するからだった。それに、概して言うなら彼は、もちろん文字通りの意味ではないにせよ、金の価値をまるきり知らぬにひとしいのだ。
先にも述べましたが、アリョーシャは単なる狂信者でも神秘主義者でもありません。しかしどこかユロージヴイ的な側面を持つ青年でもあったのです。
ただ、何度も言いますように、アリョーシャは現実主義者でもあります。彼は様々なことをわかった上でこうした性格になっています。何もわからぬ無垢な存在ではありません。
実はこうした無垢な聖人像はすでにドストエフスキーもかつて挑戦し、失敗しています。彼の代表作のひとつたる『白痴』の主人公ムイシュキンは完全に美しい人、つまりキリストをモチーフに想像された人物でありますが、ドストエフスキー自身、それに失敗したと後悔の念を述べています。
私個人としては『白痴』は大好きな作品ですので「そこまで思わなくてもよいのに」とも思ったのですが、ドストエフスキーは『白痴』に並々ならぬ期待と労力を捧げていました。彼はドン・キホーテやジャン・ヴァルジャン、ピクウィック氏のような文学上のキリストを創造せんとしていたのです。しかし、ドストエフスキーは自身の主人公に納得することはできませんでした。
こうした過去もあった上で、ドストエフスキーはアリョーシャという人物を造形しています。アリョーシャはキリストではありません。しかし、キリストを信じて生きる理想的な青年像をドストエフスキーはあくまで追い続けていたのでありました。アリョーシャという主人公を考える上でこの視点は最後まで重要な意味を持つだろうと私は感じています。
こうしてこの章を以て、熱血漢の詩人ドミートリイ、冷徹な知識人イワン、ユロージヴイ的なアリョーシャという極端すぎる三兄弟が出揃いました。
そしてこれに怪物フョードルも加わり、あまりに濃すぎるカラマーゾフ家が我々の前に立ち現れてくるわけであります。よくぞまあこれだけ濃いメンツを一家族に詰め込んだなと感嘆せずにはいれません。ひとりひとりがありえないほど濃いにも関わらず、自然にこの一家に集約したかのような、妙な自然さがあります。小説ならではの作為的な匂いがしないのです。これもまたドストエフスキーのすごさだと私は思います。
最後に、またまたフョードルのアリョーシャへの言葉を聞いてこの記事を締めたいと思います。
せいぜい罪深いわれわれのために祈っておくれ。なにしろ俺たちときたら、こんなところに引きこもって、さんざ罪を作ってきたからな。俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうちだれか祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ。この世の中に、そんな奇特な人がいるもんだろうか?なあ、お前、こういうことに関しちゃ、俺はひどく愚かでな。お前にゃ信じられないかもしれんけどさ。ひどいもんだよ。しかしな、どんなに愚かだろうと、俺はいつもそのことを考えているんだよ。
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P54-55
フョードルという男はとんでもない卑劣漢でありますが、時にこうしたドキッとするようなことを真顔で言うのです。
そして極め付けがこの章のラストのセリフです。
「とにかく俺は、お前だけがこの俺を非難しなかった、この世でたった一人の人間だと感じているんだよ。なあ、お前、俺は本当に感じてるよ、感ぜずにはいられんものな!」
新潮社、原卓也訳『カラマーソフの兄弟(上)』P57
そして彼はすすり泣きさえした。彼は涙もろい人間だった。心はねじけてはいたが、涙もろかったのである。
く~!!これですね!!ドストエフスキーの決め技です。伝家の宝刀です。
ねじけた人間を冷静に観察するドストエフスキー。痺れます。
私も初めて『カラマーゾフ』を読んだ時はフョードルが大っ嫌いだったのですが、年を重ねるにつれ彼への気持ちが少しずつ和らいでいっているのを感じています。きっと私自身、大人になって様々なことを知り、体験したからでしょう。
最高の名作というものはこうして自分と一緒に人生を歩んでくれる存在だと私は信じています。
続く
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